私が過去の人生で犯した失敗を

@tomikei

第4話 花摘む野辺に日は落ちて 学部時代

 1 農学科の植物病理教室に入った。

 九大の2年生の2学期に教養課程を終わり農学部に進んだ。学部は林学、水産学、農芸化学他いろいろあったがペンギンブックスで”Beyond microscope” (顕微鏡で見ることのできないウイルスの研究の歴史を主題にした本)を夏休みの間に読んで植物病理に興味を持つようになった自分は迷わず農学科の植物病理学専攻に決めた。


 2.実験用の準備に器具の準備から研究生活が始まった。

 以下の段落では実験の準備を述べましたが興味のない方は飛ばしてください。

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[私達学生は実験着を着て日々ジャガイモの皮むきをして、その煮汁で植物の病気の原因である糸状菌とかバクテリアの培養基を作ったり、古い綿で試験管の綿栓を作ったりと精出していた。実験に使ったピペット、シャーレ(ガラス製で上等品と実用品があった)、ビーカー、メスシリンダーなどの器具は洗って消毒のために重クロム酸の液につけて放置後再度水洗い、乾燥機で乾かし次の実験に備えた。


 シャーレは古新聞で5枚単位でくるみ、オートクレーブ(滅菌機)で高圧滅菌した。(高圧に達してから20分かかった。)以前は1881年にコッホにより発明された(コッホと呼んでいた)が使われれていた。教室にも1台あったがこれは当時は過去のものだった。滅菌に時間がかかりすぎた(3日間)ので当然でしょう。現在は博物館に行かないと見みられないものですが、オートクレーブのない時代にはさぞ役に立ったことでしょう。


 また糸状菌やバクテリアをすくって培養基に移すための、白金線の先端を金魚すくいのように丸めた白金耳は、使用時に卓上バーナーで消毒した。


 いずれも明治この方伝えられた方法で、結構忙しく働いておりました。今ならシャーレ等はプラスチック製の無菌包装品が普通に出回っているのでお金さえあれば買えますが、当時は人手で準備したものです。もっぱら学生たちが行い大学院の先輩らの使用に供しました。


 培養基の作成では煮汁を取るため漏斗にネルなどを敷きそれで煮あがったジャガイモの煮汁を濾過し、その後砂糖や寒天を(場合により酵母も)加え、まだ固まり切らないうちにピペットで試験管あたり約10ccを入れた後それぞれの試験管に合うサイズの綿栓を選んで施した後、オートクレーブで殺菌した。結構な手数がかかりました。]

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 3. 培地用の砂糖をなめてしまった。

 私は試しに煮汁を取った後のジャガイモを口に入れましたが結構空き腹には良い味でした。そしていけないことですが培地用の砂糖をスパーテルですくって口に入れたこともあった。誰も見ていないと思ったが、何と助手の野中福治さんが突然現れたではないか!〈〉と一喝を喰らってしまいました。野中さん、あの時はすみませんでした! 全くお粗末な行為でこれは大学生にあるまじき大失敗でした。


 4.仲間自慢

 同期の仲間4人は上級生や大学院(修士課程、博士課程)や野中助手ともう一人の事務担助手の方、教授とでともに昼食を取った。余暇には草野球も楽しんだ。同期の1人の西山浩一君は毎日新聞の記者になったが仕事の時の縁で天文学の仲間が出来退職後は本格的天文観測を始めたらしい。何年か前のこと、NHKの天文学の番組で同君とその相棒が出てきたのを見て驚いた。ウィキペディアにも西山浩一の項目がありニシヤマコウイチという彼が発見した星があると書かれていた。90歳までこの仕事を続けるそうで、学生時代の同君の元気さを思い出した。西山君にならって私も(この一文は西山君に断りなく書きました。お目に留まったらお許しください!)

 

5.セミナーもやった。

 勉強にも精出した。自分で、教室所蔵のPhtopathology(植物病理学会報 )、Virology(ウィルス学会報)などの雑誌から選んだ英語文献を各自当番で読まされそれを週1回の発表会で紹介する義務も課された。後にこれは役に立った。その頃は今のコピー機などはなかったので、セミナーで使うテキストはタイプライターで打ったものを用いた。今と比べれば何かと不便な時代であったが、一方ではそのために、考える時間も多く取れたと思う。からね。


 6. 日野さんから学んだ 

 卒論であるがこれには大学院生指導者が各学生についた。 私の指導者は博士課程の日野俊彦氏であった。同氏は山口大の日野巌教授(当時数少ない’植物病理学の実験法’の著者)の御曹司であった。冗談が好きで学生はよくからかいやいたずらの対象になった。初めて会った時の日野さんは実験着姿で 「まあ、ここにきて座らんね。君はどこから来たんだい。 鹿児島か。鹿児島では今もふんどし姿で、中には槍と楯を持って歩いている人もいるんだろ」などといってからかったりされたので唯々びっくりしていると修士コースの杉浦さんが、あれは日野さん流の歓迎の言葉だから気にするなと言ってくれた。 「君は足も速そうだからあだ名を ’韋駄天の敬四郎’ にしようか」 などともいわれた。ざっくばらんな人という印象だった。別の先輩にあげな人には初めて会いました。それに、面白いことを言われますねというとその先輩は、あそこに至るまでにはいろいろ失敗しているんだぜと言った。それがどのような失敗か言ってもらえなかったが私は日野流の話し方をその後手本にした。真面目なだけではだめだというわけだ。ただ冗談の通じない相手には日野さんやその弟子を持って密かに任じている私などはいい加減な奴とか、危ない奴だと思われる危険性はあった。ある時教室の全員がいる前で「韋駄天君 悪いが薬品戸棚からアンモニアの結晶のビンをを取ってきてくれたまえ」と言われた。「へー、そんなものがあるんですか?」といって席についたままでいた。すると「アハハ、引っかからなかったぞ。4年生の○○君は取りに行ったが....探してもなかったと言って帰ってきたぞ」と言われ、(しまった、ここは引っかかるのが正解だったか!)と思ったがもうおそかった。

 

 日野さん すみません!(その後気が付いたが、空気を読めないのは持って生まれた性格のようだ。 そもそも”空気を読む”という言葉を知ったのは齢40を過ぎてからではなかったか。)


卒論は日野さんのご指導よろしきを得て無事に終わりました。心残りは、日野さん、ごめんなさい!もう今となっては修正はできませんが。


  日野さん名誉のために付け加えれば、同氏はその後国立農業技術研究所に職を得られて中央で活躍されました。


 7.吉井教授ににらまれたこと 

 植物病理の教授は吉井甫先生であった。先生は病理学の泰斗であった。我々学生は植物病理学の講義を受けたがその他の実験関係は大学院生に任せ、直接ご指導はなかった。先生はまだ自らも実験を続けておられた。ある時板張りの廊下を下駄ばきで歩いていた時のこと、運悪く両手に実験用の植物のトレーで数鉢の植物をを持った吉井教授に出くわした。教授はじろりと眺められただけで行ってしまわれた。恐ろしい瞬間でした。後で日野さんにただ一言と言われたそうで大いに恥じ入りました。この一言は忘れられません。

 吉井先生申し訳ありませんでした!それ以後は校舎内での下駄ばきは封印しました。〈当たり前だ。〉 先生はおそらく叱るに値せぬと思われたのでしょう。直接のお叱りはありませんでした。

(第4話 おわり)

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