第四ワ 手紙、小サナ約束、君ガクレタ言葉。

 高校生活が始まり一ヶ月が経った。桜の花もとうに散り、瑞々しい碧緑の葉を夏に向けて茂らせている。

 入学してしばらくは、新しい環境、新しい人間関係の中で、新鮮な緊張で過ごしていたであろうクラスメイト達も、ひと月も経つと慣れるのか、教室の中の「空気」が固まってきたように思える。

 それは、「あいつは仲良くしておこう」「あいつには近付かない」「あいつは傷付けても大丈夫」とかそういった、幼く狭い社会に病のように蔓延する、いわゆるスクールカースト、教室内ヒエラルキーのことだ。

 どうして人間というものは、他者を自分よりも上か下かで見たがるのだろうか。見た目が弱そうだとか、暗そうだとか、態度が気に入らないとかそんな理由で、侮っても問題ない対象として断定できるのだろうか。

 そしてその空気は、感染する。誰かが誰かを軽んじていると、それは教室内の公然のものとして定着していく。大多数の中位層の生徒たちは、上位の者には逆らわず、目を付けられぬよう、下位に認定されぬよう、繕って、偽って、なんとか生きている。皆、我が身が大事。それは分かっている。けれど、小学、中学、と続く学生生活の中でヒエラルキーの下層に押しやられて辟易してきたぼくは、その人間の愚かしさに絶望と諦観を抱きつつ、またか、と思わざるを得ない。

 ぼくの机の引き出しは、いつからかクラスのゴミ箱にされていた。直接的に危害を加えてくるわけではないのはありがたいが、ぼくが不在の時などに、わざわざゴミを集めて、この机に詰め込んで楽しんでいるようだ。本当に、暇なことだ、とぼくは思う。

 ぼくは、生贄に選ばれたのだ。教室内ヒエラルキーが円満に維持されるための、上位層の愉悦と悪意の捌け口に。

 恐らく、入学の初日に教室の入り口で、ぼくに「邪魔だ」と言って鞄をぶつけた男子生徒――名前を津田という――が率先して、ぼくをターゲットに仕立てたのだろう。以前、トイレから帰った時に、津田が仲間を連れて笑いながらぼくの机にゴミを詰めている所を目撃した時がある。ぼくが戻って来たことに気付いても、「あ、やべっ」と言って笑うだけで、取り繕うことも謝罪することもないまま、残りのゴミを詰めると何事もなかったように去って行った。ぼくが反抗も告げ口もしないと、分かっているのだろう。

 今日も引き出しに詰められたゴミを摘まみ出し、教室後方にあるゴミ箱に移していく。菓子パンの袋。潰れたジュースの紙パック。丸められたプリント。何に使われたのかも分からないティッシュの塊が湿っていて、手が不快に濡れた。隣の席の彼女は、教室前方の友達の所で会話をしている。このゴミ捨ての時間を、彼女に隣で見られるのは何よりもつらいと思っているから、離れてくれているのはありがたい。

 ゴミが片付いた所で次の授業の教科書を出し、机に置く。彼らに残された僅かな善意なのか、今の所ゴミが詰められるだけで、教科書などには被害が出ていない。今後、彼らの悪意が増せば、落書きをされたり、破られたり、隠されたりもするかもしれない。思い出したくもない過去の光景を思い出し、胸の中に黒く冷たく重い塊が発生するのを感じた。

 こういう時、よく思うのだ。ぼくは一体、どうして生きているのだろう、と。

 やがて授業開始のチャイムが鳴り、生徒が各々自分の席に戻る。隣の席に座る彼女を、ぼくは見ないようにする。数学担当の若木先生が教室に入り、授業が開始される。

 授業中は、ぼくの人生の中で数少ない、心安らぐ時間だ。静かで、穏やかに時間が流れ、誰かの害意も嘲笑もなく、そして――

 左隣の席から、ルーズリーフが一枚差し出された。

 そこには柔らかな字体で「だいじょうぶ?」と書かれている。

 カースト上位層からのぼくに対する嫌がらせが始まった頃から、彼女は授業中にぼくにメッセージを書いて寄こすようになっていた。ぼくに構っていることが露呈したら彼女までもがターゲットに含まれるかもしれず、それだけはあってはならないことなので初めは「ぼくと関わらないほうがいい」という旨の返信をしたのだが、それでも彼女はぼくを構い続けた。

 崇拝にも近い愛情を感じている女性から、クラス内でのイジメの心配をされるというのは、この上なく情けないと思ってしまう。が、そのおかげでこうして幸福な筆談の時間を過ごせるのであれば、そのきっかけをくれた津田たちに感謝してもいいとさえ感じているほどだ。先ほどの自分の思考を撤回したっていい。ぼくはこの、彼女と文字で言葉を交わす温かな時間のために生きている。

「大丈夫、慣れてる」とぼくは彼女の字の下に書き足し、誰にも気付かれないよう細心の注意を払いながら、隣の机に戻した。

 視界の左端で、彼女が紙に目を通し、再びシャーペンを走らせていく。彼女が、ぼくにだけ向けた言葉を書いている。それだけで、心の中に温かな温度が生まれていく。闇に捕らわれた世界に光が射していく。

 やがて返されたルーズリーフには、こう書かれていた。

「黙ってたら津田くんたちはずっとやり続けると思うよ。何か言い返すとか、先生に相談した方がいいと思う」

 それくらいで事態が好転することはないと、ぼくはこれまでの人生で嫌というほど経験して知っていた。むしろそういった反抗により、害意はより狡猾に、より悪質に、増強していくことの方が多かった。

 けれど、彼女の善意の提案を否定するのは胸が痛むので、

「そうだね、検討するよ」

 と、ぼくは柔らかな嘘を書いた。

「私から津田くんたちに言ってみようか? 嫌がらせやめてって」

「それは絶対にだめだ。もし君が巻き込まれるようなことになったら、ぼくは彼らを殺してしまう」

 これは冗談でも嘘でもない。もし彼女を傷付けるものが現れるなら、ぼくはそいつを殺して、そして彼女の隣にいる資格を失くしたぼく自身をも殺すだろう。

「ぶっそうだなあ笑 私に何かできることないかな?」

 ぼくは少し考えた。正直、こうして言葉を交わしてくれているだけで、君はぼくの命を救っている。ぼくの存在に、ぼくの明日に、意味を与えてくれている。だからこれ以上を望むことは、ぼくには眩しすぎた。

「こうして話し相手になってくれているだけで、とても助かっている」

「そっか。それはよかった。じゃあ、これからもよろしく」

 こう書かれた紙をぼくの机に置いた後、彼女は小さく「あっ」と呟いてから、ルーズリーフを奪い取った。そしてまたさらさらと何か書き足して、ぼくの机に戻す。

「でも、授業はちゃんと聞いた方がいいよ」

 ぼくは微笑んだ。家でも、学校でも、笑うことなんてほとんどない。それでも、彼女と言葉を交わすこの時間は、暗闇に射し込む陽だまりのように、ぼくを温めるのだ。

 しかしその優しい光は同時に、ぼくの足元に落とす影を濃くしてもいく。心に灯る温度は、皮膚を冷たくしていく。触れられる距離に幸せを感じるほどに、ぼくはぼくの呪いを思い知る。望むものほど遠ざかっていく。心に穿たれた穴は、消えない。


     *


「ちょっと思ったんだけど、もっと堂々と生きるといいかもしれない」

 別の日、ルーズリーフに書かれた彼女の文字を見て、ぼくは返答に困った。

「堂々と生きるって、どういうこと?」

 そう書くと、教師の目を盗み、クラス中の誰にも気付かれぬよう注意を払い、紙を戻す。授業中にぼくと筆談をしているなどと知られれば、カースト上位層の毒牙が彼女にも向けられてしまうかもしれない。ぼくのせいで彼女に迷惑がかかるようなことは、決してあってはならない。

「もっと自分を好きになって、自信を持って、胸を張って、生きるんだよ。そういう人はターゲットにされにくいと思う」

 自分を好きになって、自身を持って、胸を張って、生きる。ぼくは彼女の文字を胸の中で復唱してみたが、それはぼくとは対極の位置に存在する、縁もゆかりもない幻の生命体のように感じられた。ぼくは自分が嫌いだし、自信なんてないし、胸はいつも空気の抜けた風船のように萎んでいる。

「そんな生き方はぼくにはとても無理だ」

 そうぼくが返した紙に、彼女は長い時間をかけて、時折手を止めて考えながら、丁寧に文章を書き込んでいた。やがて渡されたルーズリーフに綺麗に並んだ、ぼくにだけ向けて書かれた文字を、最上級の誠意を持って読んでいく。

「突然変わらなくてもいいんだよ。毎日少しずつ、自分をほめて、好きになって、それを積み重ねていけばいい。朝、目が覚めた時に、今日達成する難しくない目標を決めるんだ。そして、実現できた時は、しっかり自分をほめる。夜、眠る前に、鏡に映った自分を見て、笑顔を作って、目の前の自分に言ってあげるんだよ。よくやった、やればできるじゃないか、悪くないぞ、この調子で明日も生きよう、って」

 彼女が書いた文章をひとつの取りこぼしもなく受け取りたかったが、この前向きな姿勢はぼくには到底叶わないもののように思えた。

「これはちょっとぼくには荷が重いよ」

「簡単なことでいいんだって。その積み重ねが大事なんだ。絶対にやってね。約束です」

 そう念を押されてしまうと、受け入れざるを得ない。やっかいな宿題を与えられたような億劫さを感じながらも、ささやかでも彼女との約束が出来たことを、密かに喜んだ。日本史の老教師の呪文のような授業を聞きながら、ぼくに出来る「簡単な目標」のことを考えていた。


 その日、放課後のコンビニアルバイトも終えた後、家に帰ったぼくは、いつものように足音を立てないよう廊下を歩き、自室に向かおうとした。しかしリビングの扉の前で、足を止めた。

 彼女との約束。簡単な目標。ぼくはひとつ、深呼吸をした。

 ドアノブに手をかけ、それをゆっくりと回す。心臓が嫌な音を立て始める。

 部屋はぼんやりとした薄明りが満たしていて、野球のナイターを映しているテレビだけが妙に眩しく見えた。ボールが打たれる小気味よい音が響き、応援席の歓声を背景にナレーターが興奮気味の声を飛ばす。テレビを向く形でソファが設置されており、そこに一人の大人の男が座っている。こちらに背を向けており、表情は見えない。

 ゆっくりと息を吸った。それに声を乗せて、吐き出すだけだ。

「と……父、さん」声がかすれた。「ただい、ま」

 テレビは今も逆転ホームランの盛り上がりで騒がしいが、ぼくの声は届いたはずだ。しかし父が振り返る様子はない。琥珀色の液体が入ったグラスをちびちびと飲んでいる。でもそれでいい。以前のようにいきなり殴られるよりは断然ましだ。

 ぼくはそっと廊下に戻り、静かにドアを閉めた。

 複雑な感情に体の奥が小さく震えているが、彼女との約束を初日から反故にすることは避けられた。今日、ずっと考えていた、簡単な目標。それはきっと、当たり前の家庭に育った者からしたら目標にあげることすらないであろう、ぼくの目標。「父親に話しかける」。

 ぼくは自室に行き、手鏡を持ち、そこに写る自分の顔を見た。やつれて、生気のない、卑屈に怯えた男がいる。彼女の文字を頭の中に思い浮かべる。

 鏡に映った自分を見て、笑顔を作って、目の前の自分に言ってあげるんだよ。

 意識して口角を上げようとすると、その筋肉を長らく使っていなかったからか、頬が痙攣したようにひくついた。

 学校にいる間中、心の中で何度も暗唱した、彼女がくれた言葉をそらんじる。

「よくやった、やればできるじゃないか、悪くないぞ、この調子で、明日も生きよう」

 簡単なことでいい。積み重ねが大事なんだ。

 三年ほど前に母が家を出て行ってから、父はぼくと顔を合わせることも、言葉をかけることもほとんどなくなった。月に一度、ぼくのアルバイトの給料日の時にだけ、家賃として父に金を渡す際に「おう」という声を聞くだけだ。

 割りばしを割り、賞味期限切れの廃棄予定でもらったコンビニ弁当を、冷たいまま口に運ぶ。居間にある電子レンジの使用許可は、ぼくには下りていない。

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