第三話③ 手紙、罪人の示唆、過去だけを向く者。
僕はといえば、あのポストに入れられていた差出人不明の告発の行方ばかりが気になって、気もそぞろになっている。唾を飲み込み、唇を舐め、必死で平常を装って南戸に訊く。
「それで、ここまで連れてこられたわけだけど、僕はどうすればいいの。その紙に書かれたことはどうするつもりなの」
「まあまあ落ち着きたまえよワトソンくん。逸る気持ちは分かるが、ここは冷静に、慎重に行動しようじゃないか」
冷静さとも慎重さとも縁遠い存在に感じる南戸に言われてしまった。焦りや不安は表情には出ていないはずだ。心を押し込め、押し殺すのには慣れている。
「逸っているわけではないけれど、僕にだって時間があるんだ。次の講義の準備もあるし、読みかけの本も君に中断されたままだ」
「読書を中断とはけしからんな」と、岩住部長が左手の本から目を離さないまま言葉を挟んだ。意外と話を聞いているようだ。
部長の言葉もあってか、南戸は少し表情を歪めて謝った。
「分かった、悪かったって。とはいえさぁ、部長はあんな感じで読書中に話しかけると怒るし、涌井センセーはいないしで、ボクだって拍子抜けしてるんだって……。ううん、まあ、しょうがないから、この手紙のことはまた今度の機会にってことで――」
また今度? 僕は少し苛立ちを感じた。あんな手紙を見せられて、この先平静で過ごせる自信がない。イタズラであるならそれをさっさとはっきりさせて、万一イタズラでないのなら、僕と無関係のものだと確信したい。
「手紙? もしや依頼ポストに投函があったのか? なぜそれを早く言わん」
気付くとさっきまで椅子に座っていた岩住部長が南戸の隣に立ち、その手元を覗き込んでいた。南戸が反論する。
「だって部長、黙れって言ったから」
「黙れ南戸。探偵にとって最も重要なものはクライアントからの依頼だ。それがなくては正義の執行も真実の探求も始まらん。どれ、見せてみろ」
岩住部長は、隣の小柄な南戸が余計小さく見えるほど、背が高くひょろりとした細見で、見た目に気を使うタイプでないことがすぐに分かるようなブカブカの白ワイシャツを着ている。髪は無造作に長く目元までかかっているが、そこから覗く瞳からは異様なほどの情熱と力強さのようなものを感じた。僕は探偵というものはよく知らないが、何かと騒がしい南戸よりはこの岩住部長の方が、「探偵」という言葉がもたらすイメージに近いように感じる。
「えぇ、涌井センセーとか他のメンバーもいる時にしようと思ったんですけど……」
「涌井教授は顧問で、部長は俺だ。言うなれば、企業における相談役と社長だ。全ての決定権は俺にある。何を迷うことがある。ほら、見せろ。ここか?」
そう言って南戸のポケットに手を突っ込もうとする彼に、南戸は
「わー、やめてくださいよーえっちー!」
などと喚きながら逃げ回る。
「お前に欲情することなど今までもこれからも一切ないわ!」
ただでさえごちゃついている部屋の中でバタバタと騒ぎ、棚から何冊かの本が落ちてきたその時、僕らの後方にある、教授室入り口のドアが開く音がした。
「お、見慣れない生徒がいるね、珍しく入部希望者かい?」
落ち着いた低音のその声に振り向くと、三十代くらいと思われる男性が、片手に湯気の立つカップラーメンを持って立っていた。状況と外見年齢的に、この人が涌井教授で間違いないだろう。短すぎず長すぎず清潔感のある黒髪に、整った顔が微笑みを浮かべている。黒いタートルネックのニットセーターが、かっちりしたスーツと違い親しみやすい印象を与える。
「涌井センセー、またカップラーメンですかぁ? いつか身体壊しますよぉ」
フランクな口調でそういう南戸に、「家ではちゃんと食べてるからいいんだよ」とにこやかに応えながら部屋を歩き、涌井教授は奥の椅子に腰かけた。僕の横を通る時、カップラーメンの刺激的な匂いが鼻をついた。
「伸びちゃうから食べながらで悪いけど、南戸クン、ワタシに何か用があるのかな? 隣の彼はご友人かい?」
麺を啜りながらそう言った涌井教授に、南戸が答えた。
「そうそう、三号館の依頼ポストに投函があったんですよ! だからセンセーとかカレイドスコープの皆に見せたくて。で、こっちの暗いイケメンはボクの友達予定の、桜羽柊です。こいつ何かと頭いいんで、戦力になりますよ」
「色々買い被った紹介はやめてくれよ……」
涌井教授はラーメンを咀嚼しながら、目を細めて僕を見た。
「……サクラハ、シュウくん。ワタシの講義、取ってたかな?」
「いえ、すみませんが」と僕は首を振る。
「いや、謝ることじゃないさ。しかしその顔、どこかで見たような……」
首を傾げる涌井教授に、南戸が突っ込む。
「そりゃこの大学に通ってるんだから、どこかでは見たことあるでしょうよ。それよりもセンセー、大変なんですって。今回の投函、すごい内容なんですからぁ」
「どうせ単位よこさないと校舎爆破するとかそういう下らないやつでしょ?」
「いやいや、もっと深刻な、マジのやつですって。これ見てくださいよ」
そう言って南戸は胸ポケットから取り出した紙を広げ、字が書かれた面を涌井教授の方に向けた。この学校には殺人犯がいる――そう書かれた紙を。岩住部長もそれを覗き込む。
僕の心臓が苦しく高鳴っていく。逃げ出したくなる。
違う、僕のはずがない。気にするな。堂々としていろ。僕の中で青ざめ怯えて震える中学生の僕に、何度もそう言い聞かせる。唾を飲み込む喉の音が彼らに聞こえてしまわないか、そんなことすら恐れながら。
「ふん、下らん。暇な誰かのイタズラだろう。捨てておけ、南戸」
岩住部長は早々に興味を失くし、食べかけのサンドイッチと文庫本の置いてある席に戻った。安堵のため息を、僕は誰にも気付かれないようにそっと零す。
しかし涌井教授の行動に、また僕の内側が張り詰めた。
「……ほう、ちょっとよく見せてくれないか」
南戸から紙を受け取り、涌井教授はそこに書かれた文字をじっと見つめる。テーブルの上にある黒いゴルフボールを二つ右手で持ち、手の上でコロコロと回し始めた。
「この学校には殺人犯がいる、ねえ。……ふふふ」
「ね、ワクワクしてきません? これぞ探偵って感じですよね。ボク、カレイドスコープの皆でこの手紙の真相を追いたくて、急いで持って来たんですよ。で、ちょうど一緒にいた柊にも手伝ってもらいたくて――」
教授は紙から目を離し、喜々として話す南戸を見た。そしてその視線を僕の方に向け、にこりと笑った。
心臓が握りしめられたような痛みが走り、僕の全身が総毛立つ。
違う。分かるはずがない。涌井教授は僕のことなど知らないはずだ。
教授は右手のゴルフボールを机に置くと、声を発するために口を開き、息を吸う。そして、こう言った。
「サクラハクン、キミは随分、南戸クンに気に入られているようだね」
「……え?」
なぜ今、そんな話になるのか、理解できない。しかし僕に向けられた嫌疑の言葉ではないことに、密かに安堵する。
「キミ、南戸クンから何度もうちの探偵サークルへの加入を誘われて、それを断ってないかい?」
「え、まあ、そうですけど」
「愛されてるねぇ。ふふ、この小さな紙はもはや、世界一短いキミへのラブレターみたいなものだ。書かれている内容は物騒だけれどね」
まさか――。僕の中で一つの解が現れ、それが膨らんでいた不安の風船をパチンと割った。南戸の方を見ると、驚きと困惑の表情を浮かべている。
「ちょ、ちょっと、涌井センセー、何言ってるんですか!」
「一応これでも探偵サークルの顧問だからね。ワタシ自身の趣味のようなものでもあるけど、部員やワタシのゼミに出てる生徒の筆跡は覚えてるんだよ」
「ぎゃあっ、マジですかぁ!」と南戸は顔を赤くし、頭を抱えて叫んだ。
僕はもう隠すこともなく、大きなため息を吐き出した。なんだよそれ、ふざけるな、という苛立ちもあるが、安堵と脱力感の方が大きい。岩住部長は南戸の騒ぎを気にもせず今も黙々と本を読んでいるが、その向かいのパイプ椅子にぐったりと座りたいくらいだ。
涌井教授は立ち上がり、僕の方に歩み寄りながら話す。
「まあ、もう解説の必要もないとは思うけど一応言っておくと、これは南戸クンがキミを探偵サークルに引き込むために書いた偽物の告発文だ。かわいいじゃないか、きっと何日も前から計画を練って、用意して、キミがポストの近くに座る時を待っていたんだろうね。他の部員が見つけてしまわないように、手紙はポストに入れず、さっきみたいにいつも胸ポケットに入れていたんだろう」
そう言って涌井教授は、南戸が書いたらしいその紙を僕のワイシャツの胸ポケットにそっと入れると、僕の耳に顔を近付け、小声で言う。
「男っぽい所もあるけど、純情で可愛い女の子だよ、南戸クンは。幸せにしてやりなよ」
僕は南戸の方を見た。彼女はばつが悪そうな顔を耳まで赤くしながら、上目遣いでこちらの様子を伺っていた。
僕は再度、深く長く、ため息をついた。
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