第三話② 手紙、罪人の示唆、過去だけを向く者。

 僕はカメラ背面に並ぶボタンを注視し、黒い三角形の頂点の一つが右を向いている、「再生」を意味するマークを見つけた。デジタルカメラなら、撮影した画像をすぐにモニターで確認できる。それくらいの知識は、世間知らずな僕でも持ち合わせていた。親指の先端で、その小さな「再生」のボタンを押し込む。そして僕は息を呑んだ。

 モニターには、先ほど何気なくファインダーを向けた、家電量販店の店内から外の景色を撮ったものが映っている。それはカメラとして当たり前の、最低限の機能だ。しかしその画像中央辺りに、違和感の正体があった。

 蝶だ。

 少女がオオルリシジミという名を教えてくれた、先ほど店内をひらりひらりと舞っていた、青く透き通ったガラスをその薄い羽に嵌め込んだような、あの綺麗な蝶が、写っていた。

 僕は咄嗟に視線をモニターから、カメラを向けていた先に移した。そこには蝶はいない。どういうことだろう。

 過去。

 不意にその単語が、僕の脳裏に浮かび上がった。初めからそこにあったのに、ずっと刻み込まれていたのに、そのことにようやく気付いたような、そんな感覚だった。

 これは――過去。

 僕はカメラを持ち直し、先ほど女の子が立っていた場所にファインダーを向けた。当然そこに少女はおらず、カメラの陳列棚とそこに差し込まれたいくつものパンフレットがモニターに映る。僕の方を見て手を振っていたあの子の顔を思い浮かべ、シャッターを押した。カシャリ。静止するモニターの映像に、一瞬だけ少女の姿が映り込み、すぐに消えた。再生ボタンを押して確認すると、予想通り、手を振っている瞬間の女の子が映っていた。その姿は半透明で、今見えている光景と少女の姿、二つの画像を重ね合わせたように、白いワンピースの向こうに陳列棚が透けて見えている。

 過去。

 僕はこの不思議な現象をすんなりと受け入れると共に、体の内側からせり上がってくるその言葉に、言い知れぬ畏れを感じていた。

 過去。

 僕は過去ばかり見ている。あの日からずっと、過去だけを愛し、過去を憎悪して、過去に手を伸ばしながら、過去から逃げ続けている。僕は過去しか見ていない。だから僕は、過去を視ることが出来る……?

 いくつかカメラのボタンを操作し、撮影した二枚の画像を消去した。そして他の試し撮り出来るカメラを取り、同じように蝶や少女をイメージしてシャッターを押した。少女と手を繋いでいた父親の後ろ姿や、その横で雄弁にセールストークしていた店員の姿を思い出して撮影しても、やはりそれは写った。僕はそれらの不思議な画像を全て削除し、カメラを棚に戻した。念のためもう一台別のカメラで試しても、同様だった。

 一旦カメラコーナーから離れ、商品を物色している振りをしながら、他の客が先ほどのカメラで試し撮りをするのを待った。だいたい一時間ほどの間に、四十代ほどの小太りな男と、細見で暗い印象を受ける若い男、二十代くらいの女性二人組が、僕が触ったカメラで試し撮りをしていったが、誰も驚くような様子を見せなかった。彼らが去った後に、保存されている画像を確認したが、どれも普通の写真だった。どうやら過去の映像が映り込むのは、カメラによるものではなく、僕個人によるもののようだ。

 僕はカメラのコーナーに戻り、値札を見た。高いものは手が出ないが、中程度の性能のものなら問題なく買える値段だ。「この札をレジにお持ちください」の紙を一枚取り、レジに向かった。

 帰り道で、ミラーレス一眼のデジタルカメラが入った紙袋を片手に提げ、スマホで「オオルリシジミ」について検索してみると、「絶滅危惧種」「国内では長野県と九州の阿蘇にしか生息していない」といった情報がいくつか出てきた。そんな希少な蝶が、東京の繁華街の、しかも家電量販店の店内なんかにいるはずがない。きっとあの少女が名前を間違えて覚えていたのだろう。

 「幸せを運ぶ青い蝶」という言葉に少し視線が止まったが、下らない迷信だ、と僕はスマホの画面をオフにし、ポケットにしまった。

 アパートの自室に帰ってからカメラをセットアップし、過去を写し取るこの不思議な力の使い方や発動条件などを調査した。どうやら、「僕がある程度認識して想像できるもの」「古すぎないもの」でないと過去は撮影できないようだった。例えば、アパートの窓から「百年前の光景」などと思い浮かべてシャッターボタンを押しても、何の変哲もない、現在の隣家の灰色の壁が写るだけだった。写し出せるのは古くてせいぜい十数年程度の過去であり、また古くなればなるほど、写り込む映像は薄くなるようだった。

 僕は日々カメラを持ち歩き、この力を試しながら、世界のそこかしこに刻み込まれ潜んでいる「過去」を探して回ることが、次第に楽しくなっていった。

 菜の花と並ぶヒマワリ。雨の中にかかる虹。青空と流星雨。それらがオーバーレイのように重なった風景は芸術的で幻想的でもあり、それらの写真を戯れにツイッターに投稿していると、少しずつフォロワーも増えていき、好意的なコメントを残す人もいた。それが僅かながら僕の「明日を生きる理由」になり、この命を継続していく言い訳になったのだ。

――そして、今に至る。


 南戸は大学校舎の廊下を歩きながら何かを喋り続けているが、僕はそのほとんどを聞いていなかった。

 先ほど僕が学食で座っていた、ポストが設置されたテーブルの近辺をカメラで撮影すれば、あの手紙を投函した人物を確認できる可能性はある。しかし、食事時でなくてもいつでもそれなりに人がいる学食で、何もないテーブルを撮影するのは悪目立ちしてしまう。

 それに、僕はこの説明しがたい不思議な力の存在を誰にも話していないし、話すつもりもない。

 皮肉なものだ、と、僕は思う。

 過ぎ去った過去を写し取る力。それを得た人間は、誰よりも過去を恐れ、過去から逃げ続けている男だった。もしこの力が、探求心と正義感に満ち溢れた人間に与えられていたら、その人は人類史に刻まれる多大な功績を残しただろうに。

「よし、ここだよ。ようこそ、カレイドスコープ本部へ」

 足を止めた南戸が指さす先を見ると、「涌井わくい教授」と印字されたプレートを掲げたドアがある。

「え……、ここ、教授室じゃないか。部室とかないの?」

「非公認サークルにそんな贅沢なものがある訳ないでしょ」

 僕の問いに、南戸は何故か胸を張って答えた。

「だから顧問の部屋使わせてもらってるんだよ。涌井センセー、入りますよー」

 コンコンとドアをノックし、返事も待たずに南戸はノブを回し、扉を開け、遠慮の気配さえ見せないまま部屋に入る。仕方なく僕も小さく会釈だけして、その後に続いて中に入った。

 大学教授の部屋など、入ったことがない。入室して真っ先に感じた印象は、「乱雑」だった。

 八畳ほどの広さの部屋で、左右両側の壁には僕の背丈より高い棚に無数の本がぎっしりと詰まっていて、そこに入りきらなくなったのであろう書籍や書類が、床に無造作に置かれ積まれているダンボール箱の中や、中央のテーブルの上などにも溢れている。簡単に視界に入るものだけでも、使い古されて黄ばんでいるコーヒーメーカー、加湿器、ガムテープで何かが塞がれている掃除機、紙屑が山になっているゴミ箱、黒いゴルフボール、どこかの国のお土産らしきトーテムポール――等々、あげたらきりがない。部屋の隅に置かれた観葉植物のモンステラが、ごちゃごちゃとした部屋の印象と相まって、熱帯雨林のような雰囲気を醸し出している。

 部屋の最奥にある、恐らく教授が座るのであろう机には人はおらず、そこに載せられたPCは主の帰りを待つようにスクリーンセーバーのカラフルなパイプを映している。その横にも二つの黒いゴルフボールが転がっていた。それに背中を向ける形で、中央のテーブルで学生らしき青年が一人、左手で文庫本を読みながら、右手に持ったサンドイッチを咀嚼していた。

「あれ、部長だけですかぁ」

 そう言う南戸の声で、そこにいる青年が非公認探偵サークルカレイドスコープの部長であることが判明した。

「黙れ南戸、今いい所なんだ」

 彼はそう言い、器用に左手の親指だけで本のページを捲る。

「何読んでるんです?」

「黙れと言っただろう。今探偵と犯人が崖っぷちで掴み合いの争いをしている所だ」

 南戸は僕の方を見て肩をすくめた。

「あれ、サークルの部長、岩住いわずみセンパイ。変な人でさ、サークルメンバー以外に友達がいないから、いっつもこうして教授室で昼飯食べてんの」

「聞こえてるぞ南戸」

 岩住部長はそう言いながらもページから目を離さず、「おお、探偵側が落ちるのか、新しいな」とぶつぶつ呟いてサンドイッチを頬張った。

「柊は涌井センセーは知ってるっけ?」

 南戸の問いに、「いや、知らない」と答えた。

 大学教授なんて、一キャンパスに二百人近くいると聞いたことがある。その中で顔と名前を知っている教授は、講義を取っている十人程度しかいない。

「これまた面白いセンセーだよ。日本文学の担当なんだけど、トークが面白くてさ。見た目もいいもんだから、ファンも結構いるんだ。カレイドスコープ在籍の女性陣にも、涌井センセー目当ての子がいるくらいだよまったく、不純な」

 南戸は話しながら、最後は腹を立ててもいるようだった。自分のトークで喜怒哀楽がコロコロ変わる、感情豊かで忙しい人だ。とても南戸に探偵が務まるとは思えない。

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