第三話① 手紙、罪人の示唆、過去だけを向く者。

 僕は不本意ながら、南戸の後に続いて大学校舎の廊下を歩いていた。

 校舎内に設置された、非公認探偵サークル「カレイドスコープ」への依頼を投函するポスト。運用開始以来、「サイフなくした。助けて」「彼女ほしい」「〇〇教授の単位の取り方教えろ」など、ごく稀に、下らない投函はあったらしい。

 しかし今日、カレイドスコープ有史以来最上級の謎、最大級の問題となるタレコミが、勇気ある匿名の何者かにより投下された。……と、南戸は歩きながら興奮気味に喋り続けている。

「この学校には殺人犯がいる」

 それだけ書かれた十センチ四方の紙きれ。その十二文字にどれだけの信憑性があるのか。

 普通に考えれば、ただの下らないイタズラである可能性が非常に高い。もし、万が一、これを書いた何者かが本当に、この学校に潜む殺人犯の存在を知っていたとして、それを警察等の正式な機関ではなく、ふざけた非公認探偵サークルにこうして曖昧な形で情報を提供しなければならない理由があるだろうか。いや、あるはずがない。だからこれは、何の意味もない、僕の日常に何の変化ももたらさない、ただのイタズラに過ぎない。

 僕はそんな風に考えながら、胸の中で無制限に発生し騒めく不安を押し留めていた。大丈夫、僕の過去を知る人など、いるはずがない、と。

「これ見たら、きっとサークルのみんなも喜ぶよー。学校に潜む殺人犯を探すなんて、いかにも探偵っぽいじゃないか」

 と、南戸は言う。

 僕はなるべくいつも通りの、無気力で無関心な声を装う。

「……殺人犯の存在を知って喜ぶなんて、不謹慎じゃないのかい。その影には、殺された被害者と、それを哀しむ遺族がいるということだろう?」

「ああそっか、悪い悪い。言い方が良くなかったね、訂正するよ」

 そして南戸はわざとらしく拳を突き上げ、演技がかった声で続ける。

「――こんな依頼が来るとは、我々探偵サークルとして奮い立たずにはいられない。他者の命を無慈悲にも奪い、今も裁きを受けずに逃走を続けている極悪非道の犯人を、見逃すわけにはいかない!」

 僕は聞こえてしまわないように小さくため息をつき、僅かながらの反論をする。

「殺人犯だからって、無慈悲で極悪非道と決めつけるのはよくないと思うよ。何か、止むを得ない事情があったり、不慮の事故だったりするかもしれない。もしかしたら、今も後悔と罪悪感に苛まれ、自死をもって償おうとしているかもしれない」

「だとしたらなおさら、真相を闇の中に沈めたままにしておくわけにはいかない。我々カレイドスコープの手で、この世のあらゆる悲劇を救い上げてみせよう!」

 すっかりやる気になっている。この世のあらゆる悲劇、そんなものを救えるのは神様しかいないし、そんな神様は実在しないよ――と、そういう野暮な突っ込みは、控えておく。

「だからさ、柊。君にも手伝ってほしいんだよ。君、いっつも小難しそうな本読んでるから、こういうの考えるの得意でしょ? ねっ、正義のために!」

「僕はこの人生の中で探偵になりたいなんて考えたことすらないよ」

「おお、そりゃメデタイ。柊の探偵への憧れが、今日芽生える! 一人の男の人生を大きく変えてしまう、その瞬間に立ち会えるなんて!」

「大げさだよ……」

 南戸は知らないのだが、実際、僕の能力は、探偵業と非常に相性がいいと思う。

 僕が認識していないものだったり、イメージしにくいものは念写しにくい、という欠点はある。が、「猫」という明確なターゲットであったり、「めったに利用されないポストに手紙を入れる人」という分かりやすい状況であれば、成功率は高い。


 この力の存在に気付いたのは、高校卒業と共に東京に越してきて、大学の最初の講義も始まる前の、空白の時間を過ごしていた頃だった。

 それまで明確な趣味もなく、無味乾燥な命をただ引き摺るように生きてきた僕は、保護者の元から離れ、安アパートの六畳間で本当の一人になった時、何かしら日々の潤いがないととても生きていけないと気付いた。そして見知らぬ東京の地を宛てもなくふらふらと彷徨い歩いた果てに、ふと目に入った家電量販店に入った。自動ドアもなく、一階部分の店舗が外に大きく開かれているそのフロアは、春休みシーズンのせいか、そこそこ賑わっている。携帯ゲーム機でも買おうと思ったのだが、奥にあるゲームコーナーに向かう途中にある、デジタルカメラが陳列されたエリアで、僕の足は止まった。

 蝶が、いたんだ。

 はじめは、幻かと思った。東京の中心、空気も悪くゴミゴミとしたこの街の、人も光も雑音も不必要に溢れた家電量販店の中を蝶が飛んでいるというのは、作り物の映像のような、あまりにも非現実な光景だった。

 僕は中学のある時期から世界を直視することを辞め、全てのものに怯え、逃避し、その心因的なものなのか徐々に視力が落ちていった。今では少し遠くのものが全てぼんやりと霞んで見える程だが、その蝶――黒い枠の中に青く透き通ったステンドグラスを嵌め込んだような美しいその蝶は、まるで光の鱗粉を振りまくように大らかに羽を動かし、不思議なほど鮮明に僕の視覚情報を刺激した。

 だから、これは壊れた僕にだけ見える幻覚なのだと、初めは思った。けれどそうではないことが、すぐに聴覚情報から判明した。

「あ、ちょうちょ!」

 と、幼い女の子の声がした。見るとその子は父親らしき人物と手を繋ぎながら、もう片方の手で店内をヒラヒラと飛ぶその青い蝶を指さしていた。父親はカメラコーナーの前で店員の説明を熱心に聞いており、子供の声に気付いた様子はない。店内を見回しても、蝶に気を留める人は他にいないようだ。皆、棚に並んだ商品を見たり、手元のスマートフォンに視線を落としたりしている。

 僕と女の子の二人だけで蝶を見守っていると、その幻みたいな儚げな存在は、悠然と羽ばたきながら店舗から外に出て、やがて空の青さと同化するように見えなくなっていった。

「ちょうちょ、いっちゃったね」

 そう言う声がして、それが僕に向けられたものだとは思わなかったが、女の子の方を向いてしまった。白いワンピースを着たその子は真っ直ぐに僕の方を向いており、目が合うとにこりと笑った。咄嗟に視線を逸らしてしまいそうになるが、それはあまりに情けないと感じ、ぎこちなく微笑んで答えた。

「あ、ああ、そうだね。綺麗な蝶だった」

「たぶん、オオルリシジミだよ」

 オオルリシジミ?

「そういう名前の蝶なの?」

「うん」

「そっか、教えてくれてありがとう」

 僕はまた、ついさっき蝶が溶けていった空の方を見た。いくつもの灰色のビル群に切り取られた小さな空は、以前よりも少しだけ鮮やかさを増したように感じられた。

「ばいばい」

 再び女の子に視線を戻すと、カメラの購入を決めたらしい父親に手を引かれながら、僕の方に手を振っていた。少し躊躇ったが、右手を少し上げ、小さく手を振り返した。

 僕は視線を落とし、棚に並んでいるカメラを眺めた。写真撮影というものに興味はなかったし、知識があるわけでもなかった。スマホのカメラも使う機会がほとんどなかったから、最低限の性能のものしかない。

 でも、ここに並んでいるような高性能なカメラを持っていたら、さっきみたいな、現実を忘れるような綺麗なものをふと見つけた時に、綺麗なまま記録として残せるかもしれない。ちょうど棚で揺れているポップにも『大切な想い出を、美しく残そう。』と書いてある。

 試し撮りが出来るらしい一台を手に取り、僕はそのファインダーを、店内から僅かに見える東京の空に向けた。さっきの蝶を、撮れたらよかった。空の破片のような美しい羽を、また見たかった。そうすれば、あの日からずっと苦しいこの胸に、少し風を通せるような、そんな気がした。

 シャッターボタンを押すと、「カシャリ」という心地よい音が聞こえた。カメラの背面にあるモニターが一瞬静止し、撮影が成功したことが分かった。僕はその一瞬に、微かな違和感を覚えた。液晶モニターは「今」ファインダーが向けられている光景を映している。そこでは往来を歩く人々が、絶え間なく走る車が、点滅する信号が、滑らかに動いている。しかし先ほどの、シャッターを押した一瞬で切り出された静止画には、何かそれ以外のものが入り込んでいるように感じたのだ。

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