第二ワ 春、君ニ逢ウ奇跡、ソレハ悲劇ノ幕開ケデ。

 彼女の存在は、奇跡だったんだ。

 その命にはあらかじめ光り輝くような価値が、神の手により織り込まれていたに違いない。

 高校の入学式の日、青く透き通った日差しの中で、まだ肌寒い春の風が、校舎に向かい歩く彼女の髪をなでると、それは桜の花びらとなって空に舞っていった。ぼくはその光景を、雷に打たれたように立ち尽くして、見とれていることしか出来なかった。

 ひとめぼれ、なんていう世俗的で使い古された言葉には当てはめたくなかった。肉体や遺伝子の罪を超越した所で、魂の深度での彼女への引力を感じた。きっと、前世や、そのさらに前世からの、遥かなる繋がりがあったのだろう。

 ぼくはスピリチュアルなことには関心がないし、信じてもいなければ馬鹿にさえしている。それでも、彼女の姿を見た数秒でそこまで考えるほど、自分の中の価値観の一部が変容するほど、ぼくは衝撃を受けたのだ。

「あのっ」

 気付けばぼくは、彼女に声をかけていた。

 彼女は足を止め、振り向く。シルクのように流れる髪が、涼やかな鈴の音を立てる音が聞こえた気がした。

 ぼくが彼女を見て感じた衝撃の正体が何なのかは、分からない。けれど彼女もぼくを見れば、同じような衝撃を受け取るのではないか。そう思った。

「え、私、ですか?」

 けれど彼女は特に動揺する様子もなく、初対面の相手にする、多少畏まった表情でそう言った。

 こちらの顔、全身、荷物、を順番に素早く観察する彼女の視線に射止められながら、ぼくは絞り出すように次の声を発した。

「ぼくたち、どこかで、会ったこと――」

 彼女は小さく首を傾げ、再びぼくの顔を見る。春の朝日が滑らかな髪や頬を照らす。その仕草が狂おしい程に愛おしく、続けるべき言葉がどこかに消え果ててしまった。それと同時に、ぼくが感じた衝撃が、彼女には発生していないのだな、と分かった。

「――いや、ごめん。何でもない」

 ぼくが視線を落として首を振ると、彼女は口元を右手の拳で隠し、小さく笑った。

「ふふっ、入学初日からナンパされたのかと思っちゃいました」

 それだけ言って彼女はくるりと背を向け、生徒玄関の方へ歩いていく。幾人もの生徒が同じように歩いていく中で、彼女の後ろ姿だけがまるで高次の存在のように、淡く光り輝いているかのようにさえ見えた。


 自分のクラスはあらかじめ知らされている。廊下を歩き、その場所に向かいながら、ぼくは彼女の後ろ姿を探した。

 ぼくの周りでは沢山の新入生が、そわそわしながら同じ方向に歩いている。今日から始まる高校生活。部活をどうするか、うまく友人や恋人を作れるか、そんなことを考えているのだろう。入学前から知り合いだったのであろうグループは、既にわいわいと騒いでいる。

 小学、中学と友人作りに励んでこなかった上、同窓生が誰も選ばないであろうこの学校を選んだぼくには、この場所に知り合いなどいるはずがない。もともと、高校なんてものは人生の中の一通過点でしかないと考えているから、友人作りに積極的になるつもりもない。身の丈にあったレベルの学校を選んだので、勉強に真剣にならずとも、それなりにやっていけるだろう。授業中は小説を読み、窓から見える景色と友になろう。

 そんなことを考えながら教室に入る。彼女はいるだろうか。心臓が高鳴る。目は自然とその姿を探す。しかし、探すまでもなかった、と瞬刻後に気付く。

 教室最奥の最後尾、その席に彼女は行儀よく座り、窓の外を眺めていた。ぼくの位置から顔は見えなくても、それが彼女であると、眼が、皮膚が、心が確信する。

 廊下や教室の喧噪が、鼓膜から消えていく。

 他のクラスメイトも、黒板も机も椅子も壁も、視界から消えていく。

 春の朝の空気に濾過された清浄な光が彼女を照らし、その髪を淡く透かす。それはまるで神話を写した絵画のようで、ぼくは息を止めた。

 微笑んでいる。そう思った。きっと彼女は、窓の外の景色を見て、そこに散りばめられた美しさや、彼女だけが見抜ける世界の良心を愛おしみながら微笑んでいるのだろう。

 立ち止まっていると、背中に何かがぶつけられた感触があった。

「おい、何入り口で突っ立ってんだよ、邪魔だよ」

 耳に喧噪が、視界に現実が戻って来る。振り返ると、いかにも学級ヒエラルキーの上位に立ちそうな、整った顔立ちに日焼けした肌、ツンツンと尖らせた短髪、を持った男子生徒が、怪訝そうな顔でぼくを見ていた。その肩には、先ほどぼくの背中にぶつけたのであろうショルダーバッグを下げている。

「ああ、ごめん……」

 謝って、道を開けるように端に寄る。

「高校デビューで緊張してんの? ママの所に帰るか?」

 彼はそう言いながらぼくの前を歩いていった。その後ろにいた女子たちからクスクスと笑い声が聞こえた。

 少し憂鬱になる。なるべく目立たず、空気のように、影のように、路傍の石のように、静かに高校生活をやり過ごしたかった。でもこれで、カースト上位種の生徒から目を付けられてしまった。面倒なことにならなければいいが。

 まあ、いい。起きてもいない未来の憂慮よりも、今は目の前にある現実だ。ぼくは鞄から一枚のプリントを取り出して、自分の席を確認した。紙には25という数字が印字されている。教室には、横に六、縦に五列、全部で三〇の机があり、その机の上に十センチ四方の白い紙が置かれ、そこにも数字が書かれている。自分に割り当てられた数字の紙が置いてある机が、自分の席ということになる。

 教室の後方を奥に向かい歩きながら、順番に机の番号を確認していく。5、10、15、20……

 足が止まった。心臓がひとつ大きく鳴った。

 席番号が30であるその席に座る彼女は、まだ窓の外を眺めている。その時間を邪魔してしまわないよう、ぼくは静かに鞄を机のフックにかけ、そっと椅子を引き、音を立てないように腰をかけた。

「あれ?」

 突然彼女の方から声がして、反射的にそちらの方を向くと、いつの間にかぼくを見ていた彼女とバチリと目が合ってしまった。

「さっきの……」

 その視線に射抜かれたように、ぶつかってしまった目を逸らせない。喉が詰まったかのように、声も出せない。

「席、隣なんだね、よろしくね」

 そう言って光を振りまくように微笑むものだから、ぼくは雷に打たれたのにも似た衝撃を受けた。

「あ、ああ……よろしく」と、辛うじて声を出せた。

「ところで、私に似てる知り合いでもいるの?」

「え?」

「さっき校門の所で私を見て、どこかで会ったことが――って言ってたから」

「あ、いや、あれは……」

 ここで「きっと君とは前世での繋がりが」なんて言い出したら、おかしな奴と引かれ、今後取り戻せないくらいの心の距離を開けられるという想像が出来る程度の冷静さが、ぼくに残っていてよかった。

「……うん、小さい時によく遊んでた女の子に、似てたんだ。ごめん」

 なんとか視線を引き剥がして、机の上に乗せた自分の手の甲を眺めながら、そう言った。彼女の瞳を見つめながら嘘を付ける自信はなかった。

「謝ることないよ」

 彼女は優しくそう言って、少しだけぼくの方に顔を近付け――

「君は、その子のこと、好きだったの?」

 と囁くような声で訊いた。自分の顔が瞬時に熱くなっていくのを感じる。

 その問いに肯定するのは、今隣にいる彼女への好意を認めることに繋がらないだろうか。しかしぼくのこの逡巡と沈黙と、恐らく顔に出てしまっているだろうこの熱で、彼女は勝手に納得してしまったらしい。

「そっか、そっか。そりゃあ似てる子を見かけて、あんなに驚くわけだ」

 今更「いや、違うんだ」と否定できる空気ではなかった。だからぼくはもう、何も言えない。

「……でも、なんかいいな、そういうの」

「え?」

 彼女の声にわずかな寂しさのようなものが混じったように感じ、ぼくは左隣の少女の顔を見る。彼女は、綺麗な背筋で、まっすぐ前を向いていた。ここではないどこか、遠くを、決して届かない遠くを、見つめているような、そんな静かな表情で。

「私も、そんな風に大切に想える誰かと、巡り合えたら、いいな」

 その相手がぼくであるなら、どれだけ幸福だろう。でも純粋にそれを願えるほど、ぼくはぼくという存在を肯定できていない。

 そして切実な願いというものは、求めれば求めるほど遠ざかってしまうのだと、ぼくはこの十六年間で思い知らされている。だから今日、稲妻のように、運命のように、突如として発生して瞬時にぼくを打ちのめしたこの熱い感情は、ただそれだけで、悲劇の幕開けでもあるように、ぼくには感じられるのだ。

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