第一話② 名前、その記憶、想い出と呼ぶには苦しくて。
次の日は、犬がいなくなったという貼り紙を見つけ、同様に発見して送り届けた。その次の日、また別の迷い猫の貼り紙を見つけ、これも解決した。ペットというものはこうも日々迷子になるのだろうかと感心したものだ。春という季節柄なのかもしれないが。
ともかくそんなことをしているうちに、「迷い猫探しのすごい人がいる」という噂が広まってしまったらしい。どうやら最初に猫を届けたおばさんが中心となって、僕の情報を吹聴しているようだった。
「〇〇さんとこのペットがいなくなったから探してあげてほしい」と、以前渡した番号宛に電話が来るようになった。依頼達成時には報酬三千円を支払うというルールもいつの間にか制定されていた。アルバイト先を求めていた僕としては、それはありがたいことだったが。
僕は先ほど受け取った茶封筒を開き、中にいつもと同じく薄緑色に縁どられた紙幣が三枚入っていることを確認する。猫探しの報酬としては高すぎる気がしないでもないが、僕が指定した値段でもないので、ありがたく頂いている。それに、ペットの迷子などやはりそうそう発生するものでもないので、生活を保障できるほど安定した仕事ではない。
封筒から取り出した紙幣を財布に移し、僕は昼食の材料を買うためにスーパーに向かった。
*
大学というのは、自由なものだ。
それまでの小学・中学・高校と違い、履修する授業は自分で決められるし(もちろんまっとうな卒業をするつもりであれば、ある程度の決まりや縛りはあるが)、授業がない時間は何をしていてもいいし、その授業自体も厳密に出欠を取っているものは一部だ。今も、昼休みも含めて次の講義までぽっかりと空いた二時間半を、僕は学食の席で文庫本を読んで過ごしていた。
大学受験というものに乗り気になれなかったから、中堅私大の文学部に無難に合格し、受験ストレスやプレッシャーというものから早々に離脱した。後悔はしていない。けれど、時々思う。文庫本のページを捲りながらも、そのことを考える。僕は一体、どうして生きているのだろう、と。
「お、
不意に後ろから声をかけられ、僕は思考と読書を中断する。本を閉じて振り向くと、ゼミの共同発表で一緒に班を組んでいる、
「こんにちは」
「おおう、相変わらずの塩対応、痺れるぅ。いい加減ボクを友達認定してくれてもいいんだよー?」
ゼミで知り合ってから、こいつはやたらと僕に絡んでくる。僕は基本的に他者に興味がない。だから友人というものを持つ気が起きない。しかしそのことを明言した際に発生する軋轢が面倒だと思うし、恐れてもいる。
「どうすれば僕が君を友達認定したことになるんだ?」
「そりゃあアレだよ。一緒にランチを食べて今日の天気や時事問題について語らったり、カラオケに行って朝まで歌って喉を嗄らしたり、河原で殴り合ってお互いを認め合ったりしてだね」
「それは僕には荷が重いよ」
「っていうのは冗談で。今ならなんと、ボクが所属している非公認探偵サークル・カレイドスコープに参入して頂くだけで、オマケとしてわたくし南戸司がもれなくあなたの友達として付属してきます!」
「……君はそんな扱いでいいの?」
「いやよくないけど! ボクとしては純粋に
南戸はそう言って胸の前で祈るように指を組み、小さく首を傾げてみせた。わざとらしくそんな仕草をされてもかわいくないし、同情も湧かなければ、正直距離を開けたくさえなる。
「だから僕は入らないと前にも――」
「楽しいよー? 探偵サークル」と、僕の言葉を遮るように言った南戸は、僕の隣の席にとさりと座った。小柄な南戸に「どさり」という擬音は似合わない。乱雑に腰かけたとしても、せいぜい「とさり」くらいの音しか出ない。
「校内に依頼ポストが置かれてるの、聞いたことあるでしょ?」
「さあ」
「そこからかーい! まあいいや。この大学には校舎が三棟ある。そのそれぞれに一つずつ、我らカレイドスコープへの依頼を投函するポストが設置されてるんだ」
「見たことない」
「まあそうだろうね。目立つ所にあったら撤去されてしまう。だから、敢えて目立たない場所に置いてるんだ。知る人ぞ知る、学生の噂でのみ知れ渡るようにね」
「へえ。例えば?」
僕が興味を持ったと思ったのか、南戸はにやりと笑い、右手の指を一本立てた。
「一号館だったら、屋上に上がる階段の踊り場。そこに積まれたパイプ椅子の陰。屋上に出る扉には鍵がかかっていて人通りもほぼないから、ここを訪れるのはポストの存在を知っている人くらいだ」
立てられた指は二本に増えた。
「二号館は、一階のトイレの最奥の個室。その扉の内側の上部にひっかけてある。男女両方にね。清掃員の人は下ばかり見てるから、上には気が向かないんだろう。もしくは、存在に気付いた上で、学生のお遊びだと微笑ましく放っておいてるだけかもしれないけどね」
次いで三本の指が立てられた南戸の右手は、手首の所でくいと下に曲がり、その足元を指した。
「そしてここ、三号館は……どこだと思う?」
「知るわけないじゃないか」
「ワトソンくん、君がさっきまで読んでいたその文庫本、それが今置かれているのは何という物体だね?」
僕は南戸が顎で指した先を見る。白く清潔に塗装された、おそらく木製の、学食にある大きめのテーブル。一卓には八つの椅子が四つずつ向かい合う形で並べられていて、昼頃にはたくさんの学生で賑わう。僕は学食の中でも一番端に位置する座席に座っている。
馬鹿にしているのか? という言葉は飲み込んで、僕は南戸の問いかけに答える。
「日本では、机、あるいは、テーブルと呼ばれている」
「やるじゃないか、ワトソンくん」
「馬鹿にしているのか?」
今度は飲み込まなかった。人付き合いにおいて、こういった応対が礼儀になるケースがあるということくらい、僕も知っている。
南戸はへらへらと笑いながら、ひらひらと手を振った。
「まあそう怒らず、ちょっと屈みこんでテーブルの裏を見てみなよ」
ああ、そういうことか、と僕は思う。南戸は、単純に僕を見つけたからここに来た、というだけではなさそうだ。
「なるほど。三号館は、学食の端、僕が今座っているこのテーブルの裏にポストがあるんだね。で、君はそのポストに投函がないか確認して回る役割を持ってここに来た、ということか」
僕の言葉を聞いた南戸は、にやけた顔をやめると眉を上げ、言った。
「柊、君はやっぱり探偵の素質あるよ。サークル入ろうよ」
「いや、さっきの話の流れなら誰でも分かることだと思うよ……」
「ご推察の通り、ボクはポストに依頼が入ってないかチェックする係。まあ、有り体に言えば下っ端ということだけどさ。……あ! さっき言った二号館のトイレには、ちゃんと適した性別のサークルメンバーがチェックに行ってるからね?」
「非公認探偵サークルへの依頼なんて、どれくらいの頻度であるんだ?」
テーブルの下に手を伸ばし始めた南戸に、僕は椅子を引いてスペースを空けてやりながら、そう訊いた。
「それがさ、聞いて驚けよ」
テーブルの下から、カチャカチャと錠を外そうとする音が聞こえた。
「ボクがサークルに入ってから約一か月。毎日のようにこうしてポストをチェックして回ってるけど、投函された依頼の総件数、なんと……ゼロだよ」
「それは、設置の意味があるのかい?」
「……言うな」
僕の位置からはポストは見えないが、南戸が蓋を開けた音がした。きっと今回も、何も入っていないのだろう。一か月、あるいはもっと長い時間起こらなかったことが、今日突然起こるなんてことはそうそうない。この世界はドラマや小説の舞台ではない。都合よく物事が好転するようなことなんて起こらない。悲劇はいくらでも起きるのに。
だから罪は消えない。心は晴れない。大切な過去が呪いに変わっていく。
僕の世界は変わらない。
このまま、彼女と逢わないまま、血を流す心を引き摺って生き続けていくことが、僕の人生をかけた贖罪なんだ。
屈んでいた南戸が、「あっ」という声を出した。
「ワトソンくん、事件だ」
そう言いながら、驚きと喜びを混ぜ合わせたような顔を上げた南戸は、右手につまんだ十センチ四方ほどの小さな紙を、僕の方に突き出した。その紙にはボールペンか何かの黒いインクで、短く文字が書かれている。
その文字を目にした僕は、背中に冷たい刃物を突き立てられたような衝撃と恐怖に戦慄した。目の前の未熟な探偵を前に、自分の身体が冷や汗を流してしまわないことを、普段信じもしない神に祈った。
そんなはずはない。僕のことであるはずがない。理性は冷静な声を上げている。けれど心の奥底が、最大音量で警笛を鳴らしている。
僕の静かな贖罪の日々を破壊し得るその小さな紙切れには、こう書いてあった。
この学校には殺人犯がいる
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