第一話① 名前、その記憶、想い出と呼ぶには苦しくて。


 前を向くことを諦めた僕には、いつでも過去が寄り添い、絡み付いている。

 それは大切な伴侶のようでもあり、恐ろしい死神のようでもあった。


 路肩のコンクリート塀の足元には、無機質な灰色の中にそれだけでは味気ないからと、神様が気まぐれで彩りを加えたかのように、ぽつぽつと雑草が生えている。

 首から下げたデジタルのミラーレス一眼を構えその場所にファインダーを向けると、モニターには当然、肉眼で確認した光景の一部が切り取られて、コンクリートと雑草だけが映る。

 猫、という概念を繰り返し想起しながら、僕はシャッターボタンを押す。そしてすぐに再生画面に切り替えた。

 するとそこには、先ほどモニターに映し出された光景の上に別の静止画が重なるように、半透明の一匹の猫の姿が映っている。画面左側に向かい歩いている途中のその猫は、背中と頭部が黒く、額の辺りで八の字型に黒が割れ、顔や前足やお腹周りは白くなっている、「ハチワレ」と呼ばれる種類だ。

 赤い首輪に、目の上の眉毛のような白い斑点。依頼主から聞いている情報と一致する。映り込みの濃さから見ても、そう「遠く」ない。

「よし、捉えた」

 ここまでで、仕事開始から既に三十分は経っている。僕は額に浮かんだ汗を拭い、画面の中で猫が向かっていた方向に歩き出す。五月の陽光は既に熱気を孕み、しめやかに肌を焼いていく。真夏になったらこのバイトはやれないな、と僕は思う。

 十字路まで進み、再び地面をカメラで撮影する。右側に折れる曲がり角には、猫は写らない。正面に直進する道も同様だった。左側に向かう曲がり角を撮影し、僕はモニターの中に目的の猫を見つけた。

「そっちか」

 猫が向かったであろう方向に歩き、時折写真を撮って、カメラの液晶画面に薄く映る姿でその行方を確かめ、さらに追跡を続ける。それを繰り返し、僕はターゲットを追い詰めていく。喉の渇きと疲労を抱える僕をよそ目に、モニターの中の猫は呑気な顔で毛繕いをしていたり、用を足したりしていた。

 カメラで追う猫の足取りは、さらに三十分ほど歩いた先の、一面に雑草の生い茂る空き地に続いていた。僕は小さくため息を吐く。昔から、あらゆる種類の虫が苦手なのだ。そしてこういう所には、僕が苦手とする虫が、さぞや沢山いることだろう。

 小さく決意を固めて、僕は空き地に足を踏み入れた。靴の裏に、柔らかな緑を踏み潰す感触が伝わる。虫のことは考えない。

 空き地は、小さめの一軒家が建ちそうなほどのスペースがあり、長年人の手が一切入っていないことが容易に想像できるほどに、膝の高さまで伸びた多種多様な雑草が所狭しと蔓延っている。しかしその暴威的なまでの緑が、敷地の隅の方でだけぽかりと穴が開いたように途切れているのが見え、僕はそこに向けて突き進んでいく。

 そして視界に入った、液晶画面の中で最早見慣れたその毛皮を見て、僕は安堵する。どうやらこの一時間の苦労も、徒労とはならなかったようだ。

 そこには、依頼を受けて僕が探していた迷い猫が、倒した草葉をベッド代わりにしていびきをかいていた。野性を忘れた仰向けの姿勢で、呼吸に合わせて丸いお腹が上下に動いている。まるで、自分を脅かすものなどこの世に存在するはずがないと信じ切っているかのようだ。行方不明になって一週間とのことだったが、この様子であれば体調面でも心配はなさそうだ。

「失礼するよ」

 そう小さく声掛けし、猫の身体を両手でそっと持ち上げる。熟睡しているのか、こうされることに慣れているのか、目覚める気配はない。暴れて逃げられでもしたらまた追いかける羽目になるので、寝ていてくれるのは大変ありがたい。腕の中に包むように抱き寄せて、僕は空き地を出た。


 依頼人の家はかわいらしい雰囲気の南欧風の二階建てで、金属の表札には「泉」と彫られている。インターホンを押すと、ドタドタと慌ただしい足音の後に、玄関の扉が豪快に開かれた。小学生ほどの背丈の少年が、ドアを開けたまま息を切らして僕を見上げていた。

「見つけてくれたの!?」

 目的語が欠落しているが、間違いなく、僕の腕の中で今もふてぶてしく眠り続けるこの猫のことだろう。

「この子で、間違いない?」

 僕は膝をかがめ、猫を少年に見せてやる。少年はそれを見て「セナ!」と叫んだ。腕の中で猫がピクンと動いた気がした。同時に僕の心臓も、複雑な感情でドクンと揺れたのを感じた。

 手を伸ばす少年に猫を渡してやりながら、

「セナ、という名前なの?」

 と僕は訊いた。身体の一部の特徴から、雄猫のように見受けられたが。

 猫は受け渡される途中だらんと四肢を垂れ下がらせ、それでもなお眠りから覚めようとはしなかった。きっととても愛されて、周りの全てを信頼して育ってきたのだろう、と推測できる。

「そう、アイルトン・セナだよ」

 腕の中でいびきをかく猫を大事そうに眺めながら、少年はそう言った。

「アイルトン……?」

「アイルトン・セナ・ダ・シルバ!」

 何かの呪文だろうか。

「お兄さん知らないの? F1のレーサーだよ。日本にF1を根付かせた伝説の人なんだ。速くてカッコイイんだ!」

「そうなのか。知らなかった」

 どうやら少年の言う「セナ」は男性のようだ。それが女性の名だと自然に誤解した僕の、その道程に影のように浮かんでいる、想い出と呼ぶには生々しく苦しい憧憬を思い、目の前に暗い霧がかかったような気がした。

 少年が、その伝説のレーサーの偉業について熱く語り出し、どうしたものかと僕が思案し始めたところで、家の奥からこの子の母親と思われるふくよかな女性が出てきた。

「あらあら、信也しんや、セナ見つけてもらったの? よかったねえ」

 少年の首肯の後、母親は僕の方に視線を移し、微笑んだ。僕は軽く会釈する。

「ありがとうね。噂には聞いていたけれど、本当にすごいのね。一体どうやって見つけているの?」

「いえ、それは……」

 企業秘密なんです、と苦笑して答えると、母親は「ならしょうがないね」と楽しそうに笑って、手に持っていた茶封筒を僕に渡す。

「お約束通り入ってるからね」

「ありがとうございます」

 礼をして立ち去ろうとしたが、シンヤと呼ばれた少年が満面の笑みで手を振っているのが見え、少し躊躇った後、小さく手を振り返した。


 猫探しの仕事を始めたのは、ひと月ほど前だ。大学進学に伴い上京した僕は、父親に負担をかけたくないという理由で、アルバイトを探した。……いや、違う。負担をかけたくない、という親孝行的で純真な子供心によるものではなく、なるべく関わりたくなかった、借りを作りたくなかった、という僕の擦れた心理によるものだ。

 もちろん、大学の学費や、一人暮らしをするアパートの家賃、最低限の生活費などは、奨学金も受け取っているとはいえとても僕一人で捻出できるものではない。それでも、あの父親に必要以上に依存してしまうことがないよう、僕はお金を稼ぐ手段を持っておくことを望んだのだ。

 けれど、一般的な大学生が行うであろうアルバイトに、僕という人格が適しているともとても思えなかった。例えばコンビニや、パン屋や、書店の店員。全ての客に愛想よく接することは僕の最も苦手とするところであったし、逆に愛想を必要としない仕事――例えば引っ越し業者や、工場での流れ作業、レストランの厨房、それらの仕事に求められる体力や腕力、長時間の拘束と集中、調理の経験なんかも、残念ながら僕は持ち合わせていなかったし、これからそれを会得して向上していこうという意思や情熱といったものたちも、僕とは無縁であった。

 そんなわけで、新居の荷解きも落ち着き、新しく住み始めた町を友人も予定もなくふらふら歩いていた四月の僕は、電柱に貼られた「迷い猫探しています」のポスターを見て、気まぐれでその猫を見つけてやろうと考えた。

 きっと僕は、誰かから認識されたかったのだろうと思う。

 僕は前を向いていない。過去から逃げ続けながら、過去にしがみついている。そんな矛盾の中でだけ生きている。それでも体は流れる時間に押されて、前に進んでいく。心と肉体の差が開いていく。

 そんな中で、僕という命に対する自分以外の誰かの認識を得ることで、僕は僕の存在をこの世界に繋ぎ止めたかったのだろう。食べ物を食べなければ生きていけないし、水を飲まなければ生きていけない。それと似ているかもしれない。誰かに認識されなければ、人は生きていけない。そんな気がしている。

 矛盾しているとは思う。僕は、他者との関わりを避けている。僕が求めるその距離は、恐怖や嫌悪とも名付けられる。関わりたくないし、関わって欲しくない。けれど、本当の一人ではとても生きられない。だから僕は、誰かからの認識を求めて、猫を探した。不純な理由だ。

 僕にとって、猫探しは難しくはなかった。カメラに映る過去――このチカラに関してはややこしくなるのでまた別の機会にしよう――を辿れば、目的の猫がどこに行ったかを追うことができた。猫は、少し離れた廃アパートの敷地にある高い木に登って降りられなくなっていた。なんとか降ろして、貼り紙にあった住所まで送り届けると、飼い主のおばさんにとても感謝された。その認識を得て僕はようやく、この「現在」という時間帯の中、この町で生きている自分を、実感することができたんだ。

「お礼をしたいから、うちに上がっていきなさいよ。お菓子もあるから」

 僕の腕を掴んでそう言うおばさんの誘いを頑なに断るも、手を離してもらえなかった。話し相手や、新しい刺激に飢えているのかもしれない。大事な講義があるからと嘘をつくと、じゃあ連絡先を教えてくれと言われ、スケープゴートとして携帯電話番号だけ書いて渡し、僕は逃げ出した。

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