ケルザ戦記・勇ましき裏切者 〜微睡みの魔王外典〜

K

ケルザ戦記・勇ましき裏切者

 人間は川をき止める事はできようが、滝を、それも大瀑布だいばくふとされるような奔流ほんりゅうは干渉すらできない。


 かの魔王と対峙した時点で全滅の憂き目は必至だった。


 それを土壇場で否として、魔王との取引により仲間ともども生きながらえた。


 それは仲間の勇気に対する裏切りに違いなくて──。


 ケルザは敵に一刀を振り下ろし、その斬断ざんだんをもって己が苦悩を中断する。


 事実、命の代償として魔王の麾下きかで剣を執る身となったし、寝首を掻く気もない、どころかもはやアレの護衛役として、今まさにその庭を荒らす者を斬っている。


 背後からの奇襲にいちいち振り返る事はない、ただ横にズレればたちまち芸のない猪突猛進に変わる。


 くれてやるのは一太刀だけ。月下の剣の舞は、次なる敵の喉元へ。


 ──俺は裏切者のそしりから逃げるつもりはない。そうだとも、仲間の命を守るとは建前で、期待された希望より我が身と我が生涯が惜しかった、まったく度し難い小市民だ。


 自嘲混じりの凄まじい笑みを浮かべ、ケルザは最後の敵を斬った。


 敵はすべてスピリットモンスターだった。

 

 いわゆる悪霊の類いが永らえた果てに実体を得て調子づいたのが運の尽きだ、実体があれば“剣で”斬れるのだから。


 最後の敵は断末魔のついでに瘴気を吐いたが、ケルザは即座に魔力を帯びた外套マントで受けた。


 立ち昇る白煙をはたき落とし、闇に浮かぶような魔王城を見上げた。


 風が鳴る。


 途方もない魔力の奔流ほんりゅうが大気に乗り、風と化して吹きすさぶ。


 バルコニーに立つ、寝巻き姿の魔王と目が合った。


 魔王はケルザを、ケルザは魔王を。

 荒ぶる慈悲と信頼の目に。

 穏やかな反感と畏怖の目で、ケルザは返した。


 ──魔王は俺を、仲間を、そしてこの世界に生きるすべてを殺せる。あの取引さえ無かった事にして、今この瞬間、ひと睨みでいい、その邪視は俺を喰い殺すに足りる。


 魔王がしなやかな手を伸べるより早く、ケルザは振り返っている。


 肩越しにケルザは彼女を見やり、


「警告、痛み入る。これより庭の害獣駆除を再開する……夜風に当たりすぎると」


 体に悪い、と言いかけて彼はフンと鼻を鳴らした。


 魔王の従僕しもべとして最古参、吸血鬼ベルジダッドがその傍らに現れ、黒い外套で主を包んだのだ。


 ──さしずめこういう星の下に生まれた俺には、ああいうキザな役は回って来ないんだろうし、ああいう男は肝心なときに役立たずだと相場が決まっている。


 ケルザは血振るいの動作で、刀身に魔力を乗せた。見る間に湿り、濡れ、水滴が伝う。


 魔王が指した相手は夜空から忽然こつぜんと現れた。


 月下に伸びる長い尾は、その先に分銅めいたコブがあり、柱時計の振り子のごとく左右に揺れていた。その全身はきめ細かい鱗が覆い、月光を受けて黒光りし、その両翼は左右で長さが異なっていて、長針と短針とすれば、さしずめその首は秒針といったところか。


 そして砂時計のようにくびれた黄金の瞳にケルザを映し、黒い竜はかすかに唸り声を上げた。


 ──クロックドラゴン。


 時を喰らう者とはこの怪物の名だ。


 この竜は時間の化身のようなもので、自身の死も含めたすべての未来を見て、生存に最適な行動を取るという。


 ケルザは眼前の竜に問うた。


「やるか、クロックドラゴン?」


 竜は沈黙で返した。


 短い方の翼をはためかせ、長い方の翼をあおぎ、まるで水中を漂うかのように回転し始めた──時計回りに。


 その一瞬、ケルザは束の間、眠りに落ちていた。


 ──ありえない夢を見た。


 血まみれの魔王は他でもない、ケルザが殺した姿だった。彼女は痛みに震える唇で、


「私は、だれも、殺さなかった……のよ? 私は、好き……だった。おまえも、皆も、この世界が……」

「おまえは俺と、俺の仲間を痛めつけた!」


 夢の中でケルザは叫び、魔王は涙を流した。


「死にたくない。いやだ……殺されたくない、ここにいたい…………! ねぇ、守って、ケルザ……」


 言葉は途切れ、何も言い返せないままに夢は終わった。 


 現実のケルザは鼻先に迫ったクロックドラゴンに嗤われていた。


 ──ヤルカ、クロックドラゴン?


 気に入った気に入ったと人語で繰り返す竜の顎を斬り上げる。


 が、その死こそ夢だ。


 クロックドラゴンはまた月を背に回転飛行し、そのまま溶けるように消えていった。


 ケルザは息一つ吐いて残心し、愛刀を鞘に納めた。


「守って、か」


 誰に言われたのだろう。

 だが誰からも言われたのは違いない。 

 いのちを、せかいを、その手で。


 ──ならば俺は守ったぞ。なにも成し得ていない。だが少なくともあの時、あの場で、俺はすべてを。


 ケルザにしては柄にもなく満足げな笑みをこぼし、クロックドラゴンが消えていった夜空に敬礼した。


 と、その右肩から、


「おまえ、つくづく敵方と仲良くなるのが好きとみた」


 と、魔王が顔を出し、


「せんぱぁい、クロックドラゴンに喧嘩売るなんて頭イカれてますよぅ!」


 と、魔王の荷物持ちで呼ばれたシィラがシンプルな悪口を叫び、


「人間とはかくも向こう見ずなのか、いやはや愚かすぎる」


 と、ベルジダッドは呆れ返る。


 ケルザは敬礼した右手でそのまま頭を掻き、目頭を押さえた。


 ──守って、ケルザ。


 聞こえた気がして真横の魔王を見やった。


「……言ったか、いま?」


 魔王は言おうとして、口をつぐみ、そのままニュッと口角を吊り上げて銀の髪を掻き上げた。


「はて。何を言わせたいのやら」

「……空耳か。すこし疲れが出たか」

「ほう、あれか。お風呂にする、ごはんにする、それとも私? これだな!」


 またシィラが興奮気味に冷やかし、ベルジダッドがこめかみに青筋を浮かべ、魔王はくっくっと笑い出す。


 そしてケルザは、いつものように顔をしかめた。


 だがそのしかめっ面がいつもより穏やかなのを、傍らの魔王だけは知っているのだった。


(了)

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