第一章「消えた遺体」

第一節 冬見鮮音は死んだ、はずだった

 冬見鮮音(ふゆみあざね)が殺された瞬間を、僕はぼんやりとしか覚えていない。


 ナイフを持っていた犯人の顔も、鮮音が最後にしていた表情も、何一つ思い出せなかった。


 振り返ってみれば、それも当然なのかもしれない。

 目の前で起こった出来事の凄惨さから目を逸らしたくて、僕はすぐに視線を足下に移していた。

 けれどそれも意味がなかった。

 こぼれ落ちた臓器の一部が床に散乱していたからだ。


 人間が身体の内部に押し留めているそれらは強烈な異臭を放っていた。

 外側だけは小綺麗に見える僕たち人間の身体も、少しほじくり出せば赤、黒、紫の混ざり合ったぶよぶよの肉塊の寄せ集めでしかないのだなとなぜか感嘆して――その直後に自分の気が狂っていることを自覚し――急な停電が起こった部屋のテレビのように、僕の意識はぷつりと途切れた。



 次に頭の電源が入った時、僕は真っ白な天井を見上げていた。

 

 直前の記憶にこびり付いている強烈な血生臭さは無く、ほぼ無臭の空間だった。

 先ほどまで僕がいたはずの研究室――鮮音が殺される犯行現場となった西地区七号館八階の801号室は、もう少し滲みの多い黄ばんだ天井をしていたはずだ。

 僕はここが自分の研究室ではないことを理解した。


 じゃあ、どこなのだろう?

 

 正直に言って、自分が未だ生きていることすら、僕にとっては疑わしいものだった。

 犯行現場で気絶して、そのまま犯人が僕を見逃すだろうか?

 鮮音と同じように僕も殺されてしまった、と言われた方が、よっぽど辻褄が合うような気がしていた。


 そんなことを考えながら十秒ほど天井を眺めていると、ふいに僕の視界に真っ白い長髪の少女が映り込んだ。


「大丈夫かい、きみ」


 日本人離れした碧眼が心配そうに僕の顔を見つめている。

 知り合いではなかった。

 間違いなく、初めて見る女の子だ。


 そう言い切れる理由はすごく単純で、その少女があまりにも印象的な見た目をしていたからだ。

 まるで神様が一度だけ間違えて人ではなく天使のレシピで創ってしまったのではないかと思えるほどの、二つとないであろう完成された美しさと純白。

 そんな見知らぬ少女の美貌は、もしかするとここは天国なのかもしれない、という僕の疑念を助長させてしまう。


「ぼくの姿が見えているかい、自分が誰だかわかるかい。起きて早速ですまないが、願わくば、何か返事をしてくれると嬉しいのだけれど」


 見た目だけで言えば十五歳前後であるその少女は、その幼い容姿に見合わず、案外落ち着いた調子で僕に言葉を投げかけている。

 これ以上心配させるのも無意味だと考えた僕は、口を開いて応答を試みた。


「鮮音は」

 

 開口一番に僕が尋ねたのは、やはり彼女のことだった。


「冬見鮮音は、どうなったんですか。僕と一緒にいて、刺された女の子は、どうなりましたか」


 つい直前の記憶があれほど惨たらしいものだったにも関わらず、僕の頭は気味悪いくらいに冴えていた。

 寝起きだというのに口の動きもえらく自然だった。


 質問をしたものの、この時の僕は鮮音がもう助かっていないことをほぼ確信していた。

 あれほどの惨状だったのだから当然だ、その事実も僕はすんなりと受け入れた。

 僕が目の前の女の子に尋ねた内容も、生死を問うた言葉などではなく、むしろ『遺体はどこにあるのか』といった趣旨に近かった。

 言語化するとなんだか薄情だ。

 人でなしだ。

 もしかすると、僕はもう完全に壊れてしまったのかもしれない、なんてことを考える。


「鮮音? 誰だい、それは」


 彼女は首を傾げてそう言った。


「えっと、僕の友人です。さっき、誰かに刺されて、僕の目の前で」


 僕は身体をゆっくりと起こしながら、そう口にする。

 全身の動きに関しても、何の問題もなかった。

 どこにも痛みはない、

 どうやら怪我もないらしい。


「それは大変なことじゃないか」


 少女は目を見開いた。


「一体、その子はどこで刺されたんだ」


「僕の研究室……南の七号館の801です」


「南地区? 随分遠くだね。それなら、どうしてきみはこんなところにいるんだ、逃げてきたのかい」


「随分遠く?」


 僕はその言葉に疑問を覚える。


「ここは南地区じゃないんですか」


 僕の質問がよほど頓珍漢な内容だったのか、彼女は心配そうにこちらを見つめながら、穏やかな調子で返答を始める。


「まだ、頭が目覚めきっていないのかもしれないけれど……ここは北地区だよ。道路を挟んだ向こう側だ」


 僕は唖然とする。

 彼女の言うことが正しければ、僕は――東西南北の四つのブロックに分かれている大学内の、一番離れた地区に移動しているらしい。


 改めて真っ白な天井を見つめる。

 僕が普段活動している南地区の建物はほとんどが築六十年を超えていた。

 反対に、北地区はつい五年前に建て直しが完了した区画である。

 ここが大学の中なのであれば、これほどまでに状態の良い天井や壁は北地区である可能性が高いだろう。

 僕はその点については納得する。

 けれど、自分がそこに移動している理由については、皆目見当もつかなかった。


「きみはここに倒れていたんだよ。ぼくの研究室の目の前の廊下にね」


「あの、どうして僕がここにいるか、とか」


「知るわけがないだろう。なにせぼくだって、つい数分前にきみを発見したのだから。昼食から帰ってきた時にはいなかったわけだから、今日の十三時から現在までの間にきみが現れたことは確かなのだと思うけど」


「現在、って、今の時間は」


「十八時三十六分だよ、ついでに言うのなら、2096年の三月七日」


「七日?」


 僕は訊き返す。


「五日じゃなくて、七日ですか、そんなまさか」


「……まさか、きみは自分が二日間も眠っていた、とでも言うのかい」


 そこで少女は僕の顔を見る。


「一日ならば飲んだくれて記憶が飛んでいたことも考えられるけれど」


「アルコールは飲んでませんよ」普段から。


「わかってるよ、二日間も記憶が飛んでいるのは普通じゃない」


 それから彼女は歩き回り、視線を全身にくまなく行き渡らせる。

 何度も僕の様子を確認してから、探るような態度で口を開いた。


「きみは本当に、冗談を言っているつもりは、ないんだね?」


「そう見えますか」


 少し苛立った調子で返答をしてしまう。

 今の僕は、冬見鮮音が刺されてしまったことよりも、それが目の前の彼女に信じてもらえないこと、そして自分自身の記憶が欠けてしまっていることに怯えているらしかった。


「……失礼を承知で言わせてもらうよ。きみの言葉を信じるのなら、きみは殺人事件の現場に居合わせたばかりだということになるよね」


 僕は頷いた。


「けれど、それにしてはきみは落ち着きすぎている。だからぼくはどちらかを疑うしかなかった。きみが嘘をついているか、それともきみがおかしくなってしまったのか、そのどちらかをね」


「……だとしたら、後者かもしれません」

 

 と僕は返答する。


「今もまだ、どこか現実味がないんです」


 どうしてここにいるのか自分でも理解できず、そのことが一番の気がかりになってしまっている。

 けれど、本来ならば自分の大切な人である鮮音が殺されてしまったことに慟哭したっておかしくない。

 今の僕は、優先順位を間違えている。


「……とりあえず、自己紹介をしようか。ぼくたちはまだ、お互いのことを何も知らない」


 彼女は少し困ったような眉のまま笑った。

 そんな表情をするのは当然だ。

 これまでの僕の行動は彼女を困惑させるに十分すぎた。


 二日分の記憶の消失、

 身に覚えのないキャンパス間の移動、

 殺人現場に居合わせたという供述。


 もっと嫌悪されても、なんなら通報されても不思議ではない。

 こんな状況の見知らぬ他人に付き合っている彼女は、よほどの物好きなのかもしれない。

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神様のあとしまつ ~雛鳥ユリカと旧型アンドロイドの事件ログ~ いえな @iena_k

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