『北原教授・発覚w』
月詠 透音(つくよみとおね)
『北原教授・発覚w』
遠い異国の地で
十二月なかば月曜の朝、まだ冷めきらないコーヒーを片手にスマートフォンを見ていた時だった。
後輩からのメールの着信。件名は簡潔に「北原教授・発覚w」とだけ記されていた。
田嶋はその名前を見た瞬間、胸の奥に鈍い痛みが走った。
二十年以上前に、師であり尊敬の対象でもあった北原と決別した日々が、忘れられない傷跡のように蘇る。
メールを開くと、そこには北原のスキャンダルが詳細に書かれていた。横領、不倫、そしてそれらの露呈によって学界から完全に追い出される寸前だということ。
驚きはなかった。田嶋は以前より北原が横領を行っていること、不倫をしていることを知っていた。だが、それを知っても、行動を起こそうとはしなかった。むしろ、彼は意識的にその事実を自身の心の奥深くに封じ込めていたのだ。
田嶋にとって、北原は特別な存在だった。無骨でありながらも情熱を持った学者だった。彼の感性と言葉は鋭く、指導は厳しかったが、その厳しさの裏には確かな信念があった。若かりし日の田嶋は、その信念に導かれ、自分の学問の基礎を築いたといえる。
しかし、ある時、田嶋は北原の考え方の全てに疑問を抱き、自分の理論を追求することを選んだ。それが決別の始まりだった。
その決別は単なる意見の違いによるものではなく、価値観の明確な相違だった。
田嶋にとっては痛烈な離別であり、師弟関係の断絶だった。
師である北原もそれを快く思わなかった。学会で田嶋の発表があるたび、審査で彼の論文が評価されるたび、北原は陰から妨害を仕掛けてきた。研究発表がリークされ、重要な研究発表で不当な評価を受けたのは一度や二度ではない。
北原は、教え子であった田嶋を脅威と見なしたのだ。
それでも、田嶋は北原を完全に憎むことができなかった。いや、むしろ尊敬すらしていたのかもしれない。彼の野心的な学問姿勢、挑戦的な発想、そして学問に向かう情熱。それらは田嶋の根幹に影響を与えており、彼の研究者としての成功は、北原との日々に支えられていたと感じていた。
だが、その尊敬に値した情熱と才能があったからこそ、北原の堕落が許せなかった。
横領や不倫、そうした汚職に手を染めたのは、彼が信じていた『学問に真摯に向き合う者』の姿とはかけ離れていた。それなのに田嶋の胸の奥には、北原の魅力がまだ少し残っているのも事実だった。
彼が邪悪な行為に手を染めるほど、なぜかその底の知れない力に魅了されてしまう自分がいたのだ。
「今、会いに行くべきだろうか?」
北原が自分を必要としているかもしれない。予想外の事態に焦燥しているかもしれない。その考えが田嶋の頭をよぎった。
スキャンダルに揺れる北原の姿を想像し、田嶋は椅子に座ったまましばらく黙り込んだ。
もし会いに行けば、二十年ぶりに直接話せる機会が訪れるだろう。
かつての師と対峙し、自分の成長した姿を認めさせることができるかもしれない。それとも、以前と変わらない力強さで田嶋を軽くあしらってみせるのだろうか。
溢れいずる思いは止まる所をしらず、ただただ濁流となり渦巻くばかりだった。
そして、同時にそれは、田嶋自身がいまだ北原に執着していることの証明でもあった。
北原を越えたという確信があるなら、もう会う必要はないはずだ。
時間は過ぎ、コーヒーは冷え切っていた。田嶋は窓の外を眺めながら、自分自身と対話していた。
「俺は、どうしても北原のことを捨てきれないのか?」
嫌がらせをされ、裏切られ、傷つけられた。それでもなお、田嶋の心の奥底には北原への複雑な感情が残っていた。それは、師としての尊敬だけではなく、彼に勝ちたいという強烈な競争心、そして自分が北原に縛られているのではないかという疑念だった。
―― もし俺がここで会いに行けば、きっとまたあの頃のように戻るだけだ
俺はあの時の田嶋隆史に戻ってしまう。北原の影に囚われたままの自分に。
―― 北原先生は、自分の行動の結果に責任を取るべきだ
それが、俺が先生から学んだ学問の本質でもある。
考え続けるうちに、田嶋は次第に一つの結論にたどり着いた。
北原が犯した罪、その結果として彼が転落したのは、北原自身の選択によるものだ。
彼が誇りを持っていた学問への情熱を捨てたのかは分からない、しかし欲望に溺れたのも事実であり、それが彼の責任だ。
田嶋がそれに手を差し伸べることは、かえって北原が学んだはずの教えを裏切る行為になる。
「彼は自分で責任を取るべきだ。俺が手を差し伸べることじゃない。」
田嶋は立ち上がり、冷めたコーヒーをキッチンのシンクに流し込んだ。自分の中にあった北原への執着が、少しずつ消えていくのを感じた。
彼が二十年前に決断して別れを告げたように、今もまた別の形でその関係に終止符を打つ時が来たのだ。
窓の外は雲が晴れ、静かな朝日が差し込んでいた。田嶋はもう北原に会いに行かないことを決断した。北原は過去の存在であり、今の自分には関係ない。
彼は両開きの窓を大きく開き、冬の通りと街並みを見遣る。
「私の未来は、私の手の中にある」
ふと口をついた言葉が、冬の寒さの中でも心を包み込むように響いた。目に映る街が少しばかりは鮮やかに感じられた。彼が新しい道を歩く準備は、もう整っているはずなのだ。
「自身の未来は、自身の手の中にある」
しかし田嶋は今呟いた、それこそが遠い昔に北原から送られた言葉であったと思いだす。
—— 北原先生……
それは遠く離れた異国の地で、田嶋の頬をつたう一筋だけの涙となった。
『北原教授・発覚w』 月詠 透音(つくよみとおね) @insyde
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