第1話
『週刊レビスタ』の担当編集である木田悠太郎から電話がかかってきたのは、徹夜での原稿書きを終えて、ベッドの中で惰眠を貪っていたときだった。スマホを見ると、午前10時だ。
「あ、早瀬さんですか? 原稿ありがとうございます、拝受しました! さすが早瀬さん、ちょっと無理なスケジュールでも前倒しで出してくれるなんて、いやもうあなたは神ですね」
スマホからは、いつなんどき話してもご機嫌な木田くんの声が響いてくる。普段は編集部や取材先でのムードメーカーとして重要な役割を果たしている木田くんだが、寝不足の頭には、その明るい声はむしろ毒だ。
「……木田くん、わたしさ、木田くんに原稿送ったの午前5時だよね……。なんで、『早瀬さんは原稿を一生懸命仕上げた直後で、まだ寝てるかも』とか思わないわけ……?」
「あー、本当だ! スミマセンでした。ところで、早瀬さんの来週のスケジュールってどんな感じですか?」
こ、こいつ……。
わたしは諦めてのっそり起き上がった。ベッドの上であぐらをかいて、首をコキコキ鳴らす。来週の予定? スケジュール帳を見るまでもない。わたしは答えた。
「来週も再来週も、何も入ってないですよ。言ったでしょ? メインで書いてた情報誌が休刊になったって」
「ああ、そうでした。ラッキー」
木田くんのことは嫌いではないが、たまに、本気で張り倒してやろうかと思う。
「早瀬さん、たしか『ホラーチャレンジャー★アッキー』の知り合いでしたよね?」
急に、意外な人の名前が出てきて、わたしは驚いた。アッキーは以前、「目指せ青田買い! ブレイク寸前インフルエンサー」特集で取材したことがあるYouTuberだ。
取材はすべてオンラインの予定だったが、アッキーにダイレクトメールを送ると、「取材、喜んでお受けします。日時と場所をご指定ください。わたしが編集部まで行きましょうか?」と、会うことが前提の返事が来た。
視線の合いにくいオンライン取材に少し疲れていたわたしは、アッキーの提案に乗っかり、取材場所として彼女の最寄り駅にある静かな喫茶店を指定した。
アッキーこと野口亜紀はわたしより5歳年下で、2年前の当時で26歳。わたしたちは最初の10分で意気投合して、そのまま取材と称して3時間もおしゃべりし、その後は居酒屋になだれ込んで深夜まで一緒に飲んだ。それをきっかけに、たまに一緒にご飯に行くようになったのだ。
「知り合いだけど、亜紀がどうかした?」
「その様子だと、早瀬さん、アッキーのYouTube見てないですね」
そのとおりだ。わたしはあまりネット動画というものに興味がなく、それは亜紀の動画でも同じだった。亜紀のことは好きだし尊敬もしているが、動画配信に対して言うならば、自撮り棒を持って夜の「いわくつきスポット」――亜紀は「心霊スポット」よりも、この表現を好んだ――に行き、騒いでいるだけの若者のようにしか見えない。
わたしがそう答えると、木田くんは「今メールで送りました」と言った。まったく、木田くんはわたしが24時間パソコンを開いたままだと思っているのだろうか。開いているけど。
スマホは繋がったまま、わたしはメールに記載されたURLをクリックする。すると、アッキーのYouTube動画が開かれた。日付は半月ほど前のものだ。
動画が自動再生されて……わたしは目を疑った。
最初は、暗すぎて何が写っているのかわからなかった。画面は時折り不自然に揺れ、音声には不快なノイズが混じる。黒い画面からは、抑えたような小さな声だけが聞こえてくる。
月明かりだろうか、横から青白い光が差し込み、画面中央の暗闇の中にいる人物の輪郭を縁取った。それでわたしは……亜紀が膝を抱えて泣いているのがわかった。
次の瞬間、亜紀が顔を上げ、その表情があらわになった。彼女の頬は痩せこけ、眼球の周りは落ちくぼみ、瞼だけが何日も泣き続けたかのように腫れていた。充血した両目の縁が、裂けるほど限界まで見開かれている。
骸骨……。
ゾワッと全身に鳥肌が立った。わたしは口を両手で覆う。
『……こえる……きこえる……よばれ……』
亜紀の口から漏れる声は途切れ途切れで、何か別の音が混じっているようにも聞こえた。カメラが突然ぼやけたかと思うと、背後に黒い影のようなものが映り込み、すぐに消える。
突然、カメラが微妙に揺れ始め、風の音が聞こえたような気がした。それに混じって、かすかな……声?
彼女はガチガチと歯を鳴らしながら、小さな声で何かを繰り返す。見開かれた両目は、カメラに写っていない場所をじっと見つめたままだ。
動画の横で、コメント欄が流れていくのが見えた。
【kentくん】この演出もう飽きたんだけど
【XYZ】アッキー逃げて、横に影が見えるwww
【ななしさま】これ、本当にヤバいやつじゃん?やばい影が見えたんだけど
【ティアママ】お願い、もうこの家やめて…すごく嫌な感じがする…
YouTuberとして、「最高に明るいホラーチャレンジャー」というキャラ設定をしている亜紀が、こんなに怯えているなんて……。動画配信のことはよくわからないが、コメントにあるように、演出なのだろうか?
いや、亜紀はそんな過剰な演出をする子じゃない。そう思っていると、耳に当てたままのスマホから木田くんの声が聞こえた。
「早瀬さん、見ました? アッキー、最後の方の動画は全部こんな感じで、いろんな意味で怖いんですよね」
――いろいろなことやって、たまたま当たったのがホラー配信だったんです。わたしには霊感がないし、そもそも霊を信じていないからこそできるっていうのもあって。あ、これはオフレコで――
取材したときの、笑いを含んだ亜紀の声が思い出された。
――怖さを追求するというよりも、みんなでワイワイ楽しみたいんです。みんな別々の場所で配信を見ているのに、一緒にいわくつきスポット探訪できるって、すごくないですか?――
そこまで亜紀の言葉を反すうしてから、わたしはさっきから、木田くんの言葉に引っかかっているのを感じた。
「木田くん、さっき……」
違ってほしい。そう願いながら、嫌な予感が当たるような気配は、はっきりと感じていた。
「……最後の方の動画って、言った?」
「そうなんです。アッキー、この動画を最後に、荷物をすべて残して姿を消してしまったんです」
風が蠢く家 八月朔日 @HappyMonday839
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