よるべのくじら

雨森透

第1話 

 くじらのパンが好きだった。ただ鯨の形を模しただけの、何の変哲もないパンだ。だというのに、あたしはどうしてもそれじゃないと駄目で、そこに他者を納得させられるような理由なんてなくて、兎にも角にもくじらのパンがよかった。

 それを幼児の頃から今に至るまで引き摺っている。「可愛らしいこだわりを持つ幼児」から「謎に頑固な変人」が如く扱われるようになっても、あたしはやっぱり鯨の形がよかった。

 他人ひとはあたしを執心深いと言うから、恐らくこれは執着なのだろう。たぶん。良いのか悪いのか、そんなつもりは毛頭なかったけれど。

 あたしがこれほどの『執着』を抱いているのはくじらのパンくらいで、ちゃらんぽらんなことが多いあたしにとって最大の特異点だった。強いて「じゃあなんでそんなことになっているのか」と考えるのならば、たぶん、アイデンティティなのだ。

 幼少の頃からくじらのパンが好きで、いつしかそれもアイデンティティになっていたという健全な推移の結果であるのだろうが、如何せん他にそう呼べるものが他人より少ないからこんなややこしいことになっているのだと思う。





 帰路に就く。

 校舎を出てからずっとあたしたちは夕日に向かって歩き、真っ赤に熟れた太陽の麓の家を目指している。だから前を行く二人の背中は逆光で黒く、彼女たち足の裏からアスファルトに伸びる長い影は少し距離を取っていたあたしの爪先に触れてしまいそうだった。


 三人で行動していると、ふと「あ、今のあたしはひとりだな」と思うことがある。

 とはいえ、それは不快感を伴わないただの気づきのひとつで、こういう状況のときはいつも自分の前もしくは後ろにいるふたりを観察するのだ。

 あたしがそれぞれと過ごした時間があるように、このふたりの間にもあたしには知り得ないことがある。それを覗き見ているようで、芽を出した少しの背徳感と単純な好奇心に身を任せ、耳を傾けている。

 テンポのよいやり取りは、メトロノームが両端で弾み折り返す様子を見ているようで、心地が良い。きっと、ふたりはあたしが思うよりずっと互いの日々に当然のように寄り添ってきていて、それだけたくさん相手の素に触れてきたのだろう。

「馬鹿やってるとき、私、世界で一番笑ってる自信あるわ」

 そう言ったときの表情を、少し距離を置いたところから改めて眺めてみると、素直に腑に落ちる。辛いことなんて全部置き去りに腹を抱えてゲラゲラと笑う様子は、なるほど確かに凄く幸せそうなのだ。

「もう六年近くの付き合いなんじゃないの」

 あんまりはっきり覚えてないけど、と返事が来る。

 互いに合った距離感とは、信頼無くして一朝一夕に築けるものではないだろう。

 日々の在り方も、この場にいる目的も、瓜二つにはなれなくて、その上であたしたちは時間を共有し、その中でエネルギーを消費しようとする。

 けれど、永遠みたいな星の光さえ有限であるように、長く関係を繋ぎ続けることはなかなかに難しい。他人がどうとかは知らないけれど、あたしなら、残光だけで星座を容易に生み出せてしまいそうだ。

 あたしを含めた他者が、このふたりの過去を追体験することは不可能だ。それは当人たちの思い出として不可侵であるべきで、その思い出を話すか否かは当人たちの判断によってのみ決められるべきだろう。

 けれど、そんなふたりがあたしを見つけて手を伸ばしてくれたこと、今も隣に並ぶ姿を見れることが素直に嬉しい。


 親しき仲にも何とやらで、慣れ親しんだ関係になればなるほどその距離感を誤りやすくなる。素直な賞賛は何となく送り難くなって、ちょっと上から目線の言葉になってしまったり、近いがゆえに見落としたり。それが積み重なって、積み重なっていることにも気づけないまま、ある日ふとした瞬間に崩壊する。

 その脆さをあたしは何度も味わって、その度に己の未熟さばかりを思い知った。

 だからこそ、なのかもしれない。長年にわたって続く交友関係の尊さが如何に尊いものであるのか、分かる気がする。分かっているふりなだけかもしれないけれど。

 他者と関わるたびに、自分が何を持っていないのか気づく。

 経験も知識も、技術も閃きも乏しくて、秀でた誇れる何かなんて持っていなくて、会話の引き出しも少なく、脳のキャパシティも貧相で、誰かを笑顔にさせる自信も、そのすべさえも知らない。

 そのくせ手に負えないほどの臆病だから、誰かに罵られなじられる瞬間がいつ来てもいいようにと、自分の心を守る構えだけは立派なものになってしまっている。


 あたしにとって、人と深く関わるということは凄くエネルギーのいる行為で、途中で嫌になって投げ出したくなることはたくさんある。

 広かろうと狭かろうと、浅く、とにかく浅く、というのがあたしの交友関係の状態で、土足厳禁の線引きが玄関の外にあるようなものかもしれない。心を開いて家の中に上げても、リビングルーム止まりで自室には入れられない。距離感を誤って近寄りすぎると、具合が悪くなって体調ごと崩れてしまうから。

 玄関前で当たり障りのない世間話を駄弁っているのが、あたし。ビジネスライクが一番楽で、遠くから人間を眺めている時間が一番好きで、その考えのまま今も誰かと関わっている。

 そんな自分を客観視しては「最低な奴かもなあ」と思いながらも、だからといって変えられるかと聞かれればそれは今の自分には無理な話で、あたしはやっぱり現状維持でいる。


「あれ、さっちゃんの好きなパン売ってるとこじゃない? 今日はやってるんだ」

「ああ、鯨の形したやつね」

 寄ろうかと、二人がこちらを振り向き見る。急に視線がばっちり合った。

「いや、なんか遠くね?」

「ちょっと歩くの速かったか。気づかんくてごめんな」

 また会いたいと願う気持ちは、相手の幾重もの配慮と努力があってこそ生まれるものだ。そして、それが一方通行では交われない。たとえ一度交差しても、あとはもうそれっきり。

「疲れてる? 今日の体育キツかったもんなぁ」

「くじらのパン食べないと明日から頑張れない」

「寄り道決定~」

 彼女たちとあたし、互いに中間地点まで歩み寄る。大した距離ではないけれど、彼女たちは引き返してきてくれる人たちだった。夕焼けという言葉の通り、橙の陽に照らされていると、焼けるような熱を感じる。

 長い交友関係の何と貴重なものか。それを目の当たりにするたび、あたしの中から尊敬と羨望と喜びが真っ先に出てくる。素晴らしい映画を見た時みたいな満たされた気持ちを、疑似的に摂取する。

 ふかふかで、ぽかぽかで、ああ何だかあのパンみたいじゃないかと、誰かが理解してくれるのかも分からないけれど、そんな例えをしたくなる。

 丁度良い位置に移動したからか、風向きが変わったからか、ふとパン屋の良い匂いが鼻腔をくすぐった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

よるべのくじら 雨森透 @amamor1

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る