すべからく昏迷する都市をゆく

佐倉遼

記憶銀行

 K氏は友人から「記憶銀行」という奇妙な施設について話を聞いた。


「ここに行けば、忘れたくない記憶を預けておけるんだ。必要なときに引き出せるから、素敵な思い出を残すにはぴったりなんだよ」


 K氏はその話に興味を引かれた。彼には、どうしても忘れたくない記憶があったからだ。


 それは、数年前のある夜の出来事だ。酔っ払って帰宅途中、K氏は突然何者かに襲われ、激しい暴行を受けて金銭を奪われた。その時の恐怖と痛みは未だに鮮明に記憶に残っている。犯人の顔はかろうじて覚えているものの、年を重ねるごとに記憶が曖昧になり、いずれは完全に忘れてしまうのではないかと心配していた。


「犯人の顔を絶対に忘れてはいけない」


 K氏は記憶銀行の利用を決意した。どうしても犯人の顔を忘れたくないと思い、その記憶を預けることで、いつか犯人を突き止める手がかりになるかもしれないと期待した。


 記憶銀行の外観は意外にも普通の銀行のようだった。受付でK氏が「記憶を預けたい」と告げると、受付係は丁寧に案内してくれた。K氏は小さな部屋に通され、そこで博士と呼ばれる男に事情を説明した。


「暴行を受けた時の記憶を預けたいんです。犯人の顔を絶対に忘れたくないので」


 博士はうなずきながら言った。「辛い記憶をお預けになる方は少ないのですが、承知しました。お預かりします」


 博士は慎重にK氏の記憶を抽出し、それを銀行に預けた。K氏は心の中で安心し、その夜の出来事を記憶から追いやることに成功したかのように感じた。


 数十年が経ち、K氏は年を取り、記憶銀行のことをすっかり忘れていた。しかし、ある日、街中で男の姿を見かけた時、彼の胸はざわついた。


「こいつ、あの時の犯人かもしれない」


 K氏はすぐさま記憶銀行へ駆け込み、かつて預けた記憶を引き出すことに決めた。受付で手続きを済ませ、彼の手元に戻ってきた記憶を再び呼び戻すと、K氏の頭に映像が鮮明に浮かび上がった。


 だが、次の瞬間、彼の心臓が飛び跳ねた。


「これ…犯人が…増えている?」


 記憶の中で、襲われた時の犯人の顔が一人ではなく、複数に増えていたのだ。暗闇の中で彼を取り囲む影が次々と増え、何人もの男たちが彼を襲っていた。K氏は混乱し、再び記憶銀行を訪ねた。


「どうしてこんなことになったんですか?俺の記憶は一人の犯人だけだったはずです!」


 博士は冷静に微笑んだ。「それは利子の効果です。時間が経つと、預けた記憶には新たな要素が追加されることがあります。その結果、元の記憶とは異なる内容になってしまうことがあるのです」


 K氏は驚愕した。「それじゃあ、誰が本当の犯人かわからないじゃないか!」


 博士は肩をすくめて言った。「それが利子というものです。もともとあなたの記憶が正しいとも限らない。記憶とは、常に変わり続けるものですから」


 その夜、K氏はもう一度記憶を辿ってみた。しかし、そこにはもはや一人の犯人ではなく、何人もの男たちの顔が浮かんでくるだけだった。さらに驚くべきことに、その中には自分の父親の顔や、友人、さらには博士の顔まで含まれていた。記憶が複数の要素を内包していて、ますます混乱していった。


 K氏は街を歩くたびに、どの男が本当の犯人なのか、疑心暗鬼に駆られるようになった。毎日毎晩、記憶の断片が脳裏に蘇り、彼の思考はぐるぐると回り続けた。


 ふと、銀行の入り口で広告を見た。ポスターの右下には小さな文字でこう書かれていた。


「記憶を預ける際は、利子にご注意ください。あなたの記憶が、いつまでも同じとは限りません」


 K氏はその文字を見て、少し考え込んだ。預けたときにもこの広告を見たはずだ。だが思い出せない。契約書にもそれが書かれていたかどうかははっきりしない。


「確か、こんな注意書きがあったような気もするけど…」


 K氏は、頭の中でその記憶を探し続けるのだった。

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すべからく昏迷する都市をゆく 佐倉遼 @ryokzk_0821

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