詩潟志々乃は打ちひしがれる

「完璧だよ!みんな!」


 スズの嬉しそうな声がスタジオ内に響く。


「だね。これなら本番も大丈夫そう」


 サラは安心感から、大きく息を吐いてつぶやくように言った。

 

「……」


 私は黙ってスタジオ隅に置いてあるパイプ椅子に腰を下ろす。どっと疲れが押し寄せてきた。

 そんな私にスズが駆けつけてくる。


「志々乃ちゃん、お疲れ様」

「ありがとう。スズもね」

「やっぱり志々乃ちゃんは凄いよ。勉強もバイトもしてるのに…こうやってバンドもやってさ」


 スズは床に座って見上げる形で私を見る。上目遣いになってちょっと可愛い。


「やりたいからやってるだけだよ」


あざといスズの言動に流されないように、かっこつけた返事をした。別に本心だから恥ずかしくはない。


「スズが褒めてるんだから素直に受け取りなよ」


 サラは私たち二人に缶ジュースを投げ渡してくる。スズと私は少し慌てながら何とかキャッチする。

 二次元みたいに、カッコよくパシッと受け取るのは少し難しい。

 サラにお礼を言ってから三人同時にプルタブを引くと、快音がスタジオに鳴り響く。仲間と一緒に飲むエナドリがきっと世界で一番美味しい。そう思えるような味だった。


 

 スタジオを出て二人と別れた。家の方向がみんなそれぞれ違うから、私はすぐに自転車に乗って夜道を走る。数分走って、練習終わりの充実感も薄れてきた頃、背中の重みが疲労感を運んでくる。

でも、なんだかギターが私に甘えてるみたいで可愛い気がした。


 必死に自転車をこいで汗ばんだ私の髪を夜風が撫でる。それはとても気持ちのいい風だったけど、見えない誰かに同情されてる気分になった


 ありもしない同情に身勝手な反感をぶつけて、気持ちを整い終えた頃、アパートに着いた。


 玄関の扉に手を掛けると、動悸がしてくる。


 帰宅するだけで、こんな感情を抱いてる同年代なんて、私だけだろう。


 玄関に上がってすぐの自室にギターを置いて、廊下を抜けてリビングへ。見渡すと母がキッチンに立っていた。虚空を見つめるその姿に同情を覚えたりしないけど、とりあえず挨拶だけはする。


 「ただいま」


 「ご飯は?」


 「バイト先で食べたから、いらないよ」


 「は?聞いてないわよ」


 「ラインしたじゃん」


 「アンタと違って、こっちは忙しいの。それにスマホばっか観てるのは体に悪いってことも知らないの?」


 お得意のヒステリックが発動する。長々と相手をしても被害が大きくなるだけ。さっさと部屋に向かおう。


 「出来の悪い娘でごめんね。ママもきっと疲れてるだろうからゆっくりしてね」


 上辺だけの言葉は逆効果になる。わかっていたつもりだったんだけど、実際に気の利いた発言をするのは難しい。私は返事を聞かずに母親に背を向けた。


 「そんな嫌味を言うような娘がいるこの家でゆっくりできるわけないでしょ」


 嫌味な言葉が耳に届き、不穏な気配が背中をつたう。

 ——これやつだ。


 がし。ぐい。 


 不快な音に遅れて後頭部から痛みが走る。どうやら髪を引っ張られてるらしい。この程度のことは日常茶飯事だけど、髪を抜かれて坊主にされるのは嫌だ。私の将来を破戒僧にするわけにもいかない。床にすぐさま倒れ込んで自分の身を守る。


 いくら成績を良くしてお金を稼いでも。この母親に抵抗する術は身に付かなかった。


 母もあれから、マイナス成長を遂げていた。暴力。虐待という新たなスキルを手に入れたから。あるいは初めから持っていたのかもしれない。まあどっちもいいけれど。


 両腕で頭を抱えて、床にうずくまる。目を閉じて、五感を鈍らせる。瞑想、マインドフルネスでやり過ごして、母親の気が収まるのを待つしかない。


 母親は私よりも大柄で、力が強い。


 私が男の子だったら、絶対に負けないのに。


 目と耳を塞いでも触覚は残ってる。今度は背中に鈍い痛みが響く。多分蹴りが入ってる。就寝前に羊を数えるみたいに、一発二発と一定のリズムでダメージが入るドラマーのセンスあるんじゃない?って痛みに包まれる意識の中に

雑念がよぎる。ちょっとした現実逃避にはなる。


 ビートが刻み終わり、痛みが少し引いて立ち上がると。母親の気配がなくなっていた。薄れた視界で辺りを見渡しても姿がない。


 やっと終わったか。早く自分の部屋に行かななきゃ。

 安心したその時だった。

 私の顔目掛けて大きな何かが、飛んでくる。

 あまりに突然のことだったので、とりあえずは左腕を顔に構えて、ガードで弾く。


 物体は床に落ちると、派手な音を立てた。どうやら、イスを投げられたらしい。

 

 これ以上ここにいたらダメだ。

 意を決してその場から離れて、廊下を走って自室に逃げこんだ。


 部屋まで追ってくる可能性もあったけど。今日は追ってこない。


 

 今日はかなりハードめだったな。いつもはモラハラとヒステリックな発言で終わるんだけど。週に一回はこうやって暴力を振るわれる。


 お姉ちゃんがいなくなってからずっとそう。


 私も逃げ出したい。

 懸命な判断だと思う。

 あんな母親が私を産んだこと。あんな親が私を育てたこと。あんな親と一緒に暮らさなきゃいけない事。あらゆる母との繋がりが憎い。

 早くここを出て、自分の力で生きていきたい。

 大人になったら、もう少しは変わるのかな。

 ありもしない期待で自分を慰めても、痛みが引くことはない。


 ——でも練習しなきゃな。


 私はエレキギターを取り出す。腕は痛いけど、これは一時的なものだ。私の経験がそう言ってる。

 ギターの練習は毎日欠かさずやってるんだ。

 だけど、左手が上手く動かせない。

 指に力が入らない、私にとっては弦を抑えるのもかなりの重労働で、

 けどこれは今に始まったことじゃないし、練習がきっと解決してくれる。

 ずっと指が動き辛かっただなんて、言い訳にしかならないし。

 だけど痛みは尋常じゃなかった。どうやらイスをガードしたのが悪手だったらしい。背中の痛みの上位互換。深くて鈍い激痛が走っている。

 痛みに耐えて汗を吹き出しながら弦を押さえようとしても、指たちは言うこと聞かない。むしろ、痛みの信号を私にちゃんと送って仕事をしているんだ。

 いやだ。私はギター弾きたいのに。痛みなんていらないから、弾かせてよ。

 色々なことが頭をよぎる。

 ——文化祭どうしよう。

 ——二人に謝らなきゃ。


 不安が全身を包み左腕から力が抜けると同時に、ギターが床に落ちる。

 楽器は繊細だから、大事にしなきゃいけないのに。

 楽器は相棒だから、いつも一緒にいて欲しいのに。

 弦の切れたギターと自分が重なる。

 やっぱり私はだめだな。弱くて繊細で。

 どうしようもない。


 落としたギターを拾わずにベッドに倒れ込む。


「アレナ先生…ごめんなさい。私は強くなんてないよ」

 

 気付くと弱音を吐いていた。でも…良いよね。


 先生はいないんだから。

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