第27話

              二十七

             

 虚ろな心に響くものがなんであるのか、北村にはわからない。ただ純音のように、自然界にある響きではないのは確かだ。鉛の心に響く〝おりん〟とでも言うのだろうか……。

 筧に肩を貸してもらいながら玄関に入ると、北村はあまりの虚脱感で、その場にへたりこんで思った。

 ──こいつは、絞首台へ引きずられていく咎人とがにんだなぁ。

 その処刑人を歓待するように、医院の玄関には、いままでにない多くの人々が押しかけていた。行政の災害救助活動が開始されることに期待しているのであろう。北村のすぐ後ろには、本田と南明が並んで歩いている。町内会の役員が、この震災を、どう乗り越えればいいのかと不安を語っている。本田は頭でもある長谷川を失くし、手薄となった消防団の立て直しに心ここに在らずだった。

「町長はまだここに?」

 北村が弱々しく筧に訊いた。町長の草薙は、夜半に心労が祟って高熱を出し、休憩室で休んでいるはずだった。

「だいぶよくなってますが、職務は午後からで……。みんな先生の診察を待っているところです」

 と筧が町民たちを見回しながら、弾んだ調子で言う。

「では例の災害報告の方は?」

「凡そですが、体育館の倒壊被害がまだ未調査なのと、吉田付近の木梨川の被害の実態がつかめていません。いずれにしても、暫定的な報告書は出来ていますから。町長の認めが得られればお渡しできます」

「お手数をおかけします」

 ふうっと自然とため息が漏れた。これですべてが片がつく。廊下の壁を伝うようにして歩きながら、北村は職員らしく、久々の事務処理の手順を頭の中でおさらいしていた。

「ひとつお伺いしますが、船戸さん、いや船戸巡査さんと会いましたか?」

 本田が意味ありげに南明に訊いた。

 一瞬、南明は表情を失った。ちらりと北村の背中を見つめる。

「なにか?」

「いや、確か、保護者さんたちが、なんだか、八中の男子たち数名が行方不明になったと駐在所へ連絡したらしいんだ。どうも体育館に集まっているんじゃないかとね。そのとき巡回中だった船戸巡査に、奥さんが連絡したら、ただちに現場へ向かうと返事があったんだが、それきりでさ……」

 本田が話している間、北村の脳裏には、船戸巡査の引きつった怒声がこだましていた。人に包丁で斬りつけたときの手応えが鈍く走り、中学生男子たちの屍体の数々が、水しぶきをあげて転がっていく……。心に響く音とは、まさにその時の音なのだと北村は思った。

「パトカーはなかったようですよね」

 北村の代わりに南明が、小首を傾げて答えた。北村は青褪あおざめて沈黙している。すると筧が気を利かしたのか、憶測だけでまとめあげた。

「そうなんです。たったさっきも行ってみたんですが、裏の駐車場が決壊した木梨川に陥没してました。でも玄関のほうは停められたんですから、巡査は館内を調べた後、巡回を続行してるんじゃないでしょうかね」

 そこへ廊下の奥から、婦長の千堂椿が現れた。彼らの話し声が耳に入ったのだろう、険しい顔つきだ。

「大丈夫でしたか。おつかれさまです」北村と南明に、ちいさくお辞儀をすると、「ついさきほど、うちで看護婦をしてもらっている本宮さんが、駐在所に立ち寄ってくれたんです」

 筧と本田は興味深そうに婦長を見つめたが、南明と北村は、無意識に視線を床に落とした。

「あっ、実は、あそこの子の船戸蓮巳ちゃんに渡すはずのフルタイドを、おとうさんが取りにいらしてこなかったの。そこで、本宮さんに急いで行ってもらったんです。そしたらです。恐ろしいことに、駐在所はもぬけの殻で、そのうえかなり荒らされていたようなんです。奥さんも蓮巳ちゃんも姿はない。裏山はそのままだったのに、何から何かまで壊されていたと彼女言ってました」

 聞いていて本田たちの表情が険しくなっていった。

「これはまずいです。役場に一旦寄って、関さんに頼んで、重機と人手を借り出すよう、手配しなくっちゃなんないです」

 と本田が、血走った目をして、すでに身体は玄関へ。

「それじゃ本田さん、わたしもすぐあとから行きますので。え、はい。町長に報告して、北村さんには本部へ連絡いれてもらいます」

「それはそうと災害無線は使えるんでしょうね」

 だしぬけに北村が筧に訊いた。

「えっ、はい。それは大丈夫です。ですからこそ、すぐにでも」

「ああ、そりゃ良かった。これで……」

「ですが災害無線機は役場のほうなんです」

「あっ、それだったら、後で……なんとかなるか」

 北村の言葉の意味がわからず、筧はあっけにとられた顔だった。そのとき、もう一人の北村がここに現れたら、彼は災害無線に向かって叫んでいただろう──中央署の柘植警部補を呼び出してくれ!と。

 だが現れたとしても、南明がそばにいる限り、彼には何ができるというのだろうか。この場の流れでは、筧も婦長も、すぐにも北村を町長のもとへと連れて、災害救助法の発令を促す必要がある。実際、彼らは休憩室へと歩き出している。だがここで、意外にも北村がそれを制して停めたのであった。

「えっ?」

 いっそう筧も婦長も怪訝な表情をした。すると、北村は静かに言った。

「そのまえに、ちょっといいですか。いや、すぐ済みます。部下の藤岡君に改めて手を合わせたいんです。まさか彼があんな姿になるなんて、今思うと、真実はもっと別のところにあるような気がするんです……」

「す、すいません」婦長が小さく頭を下げた。「気が急いてしまって失礼致しました。そうです。あの方があんなことになるなんて……どうぞ、こちらです」

 婦長が廊下の突き当たりを示し、先導しようとすると、またもや北村は言った。

「霊安室はわかっていますので、わたし一人で済ませます。それより筧さんは町長に、巡査さんたちの案件を伝えてください。大問題ですから」

「あ、そうですね。ではすぐに──」  

「わたしもお線香をあげてよろしいでしょうか?」

 ここでもう一人、南明がふてぶてしく言を垂れた。北村の考えは理解できるが、どうして南明までもが、必要? その雰囲気といいタイミングが、筧も婦長も違和感を覚えた。そのうえ、するりと南明が北村に擦り寄る様は、露骨な嫌悪感を増幅させ、彼女がにんまりと北叟笑むと、もうお手上げだ。勝手にすればといった顔で「はあっ」と一言あっただけで、その場から立ち去った。

 その霊安室は、廊下の突き当たりを曲がってすぐのドアだが、破廉恥にも、北村と南明が肉体関係におよんだ場所でもある。

 そのドアの把手を握って、北村が南明を見つめた。よもやこの期に及んで性行為かと思いきや、南明が両目をすがめて先に言った。 

「やっぱし、あんたもかい?」

 北村が左手をニギニギして見せるが、その意味が南明には解せない。

「あいつが居るって……?あんた、わかるのかい」

 と南明はせせら笑った。

「拳銃を使ったんじゃないのか」といぶかる北村。

「ああ。二発な。正面からだ。わたしの上におっかぶさってきたときに、おでこと目玉のどっちかを射抜いた」

 あっさりと答えるが、どこか南明の言葉は信用がならない。「それでも不死なのか、奴は……」かぶせて問いただした。

「教えってやるさ」南明が素の顔で北村を見つめて言った。「読んで字のごとしだ。不破やつは〝やぶけず〟なんだよ」

「はあ? 何が破けないんだ」

閻魔帳えんまちょうさ」

「へえへへへ。閻魔帳ねえ」北村は人の気配を警戒しながら、霊安室のドアを開けた。「こんなときでも冗談か……」

「とんでもねえ。あいつは閻魔様の書き損じなんだよ。破って捨てようとしたが、破けねえのさ。だから、そのまんまいつまでも閻魔帳には名前が載っている」

 戯言には耳は貸さない。北村は唾を吐くように言った。

「いったいあいつはどうやったんだ。銃で撃たれても、なぜ死なない?」

「教えてやろうか。どうせあんたもわかるだろうからね。はくだよ。魂を魂魄こんぱくといってね、あいつも魄を呑んでいるんだ」

「ハク? よくわかんねえが、あれが生きていると、おれは殺される。社会からもこの世からも抹殺される。やるかやられるかだ。」

 そこで南明が無言のまま、北村の右手を引っぱると、その掌に冷たい物を押し込んできた。船戸巡査から奪った拳銃だった。まだどこか湿っぽい銃把の感触がやるせない。

「今度は逃げんなよな」

 ぎこちなく拳銃を腰だめに構え、ドアをそうっと開けると、北村は室内の様子に目を凝らした。だが、ほとんど無灯状態で視認は難しく、北村はあわてて室内灯のスイッチを入れた。いくつかの蛍光灯は灯った。だが、霊安室を煌煌と明るくできる余裕なぞ、今の千堂医院にはなかった。

 闇が生き物のように自在に動いているように北村には感じた。裸眼を働かそうにも、明るさがなければ無力であった。かたや不破は巨大でかくとも、闇に溶けこむ術は心得ている。今このとき、不破が仕掛けてくれば、鎧袖一触がいしゅういっしょく二人は、ひとたまりもないだろう。

 そのとき、ブウーンッとモーターが唸りだし、北村がヒッと反射的に声をあげた。エアコンのサーモの所為せいらしい。その証拠に、吹き出し口から強い冷気が、二人をめがけて噴き出してきた。遺体保存用のドライアイスの空箱が幾つも床を滑っていった。

 ここで突っ立っていてもらちは開かない。北村は拳銃を突き出すようにして一歩踏み込むと、馴染みのある死臭が、どうっと押し寄せてきた。防腐処理を施してあるとはえ、これだけの遺体数となれば濃密だ。一目で以前より遺体の数は増えている。ストレッチャーに乗せたままのものと、簡易ベッドに寝かされたものとで十体はあるだろうか。

 正面の壁際に、共同の祭壇があり、蝋燭三本が寂しそうに炎を揺らしていた。お線香は心細い数で、もう消えかかっていた。左側に並べられた、小さいのとやけに大きいのが目を引くが、本田たち消防団が掘り出した、長谷川とその妻、茜のものだと北村は思った。

 そこで北村は、換気扇が止まっていることに気づいた。どうりで臭いわけだ。換気扇は扉とシンクロして人感センサーが感知する。誰かが意図的にスイッチを切らない限り、換気扇は動いているはずだ。そして遺体搬出用扉のストッパーの金具も、外されたままであることから、その後に、扉が使われた形跡があれば、不破はもうここにいることになる。

 北村がそうっと忍び足で、その確認に扉の駆動用レールに近づいた。北村たちが使用したのは、屋外へ出るときで、レールは綺麗なままだった。それが今は、扉の縁や周囲には泥が付着し、壁際は水浸しだ。遺族が遺体を搬入した跡とも思えない汚れようだった。

 決定的なのは、南明が見つけた大きな泥靴の足跡だった。すべての行動が不破を指し示しているのだった。

 だが……。  

「気配はあったがな」

「無理もねえよ、あいつの体臭は、ほとんど死臭なんだから。勘違いしてもしかたねえさ」

 ふたりは霊安室のドアへと引き返した。

「さっきも言っていたが、そのハクってのはなんだ。どうして──おれにもわかる、とはどういう意味だ」

「言ってやっても、わかるかどうかは保証しないがな。そいつは、コンパクのことさ。コンとはよくいう魂のことだ」

「なんだ妖学だな」

「ひと昔まえに予備校のクソ野郎が、酔い潰れていたわたしの服を剥がしているとき、楽しそうに喋っていたことだ。おれの質問にあいつは言ったよ。ハクとは白偏に鬼と書いて魄だ。熟語で魂魄を『たましい』と言ったりするが、大きな違いがある。ちなみに鬼ってのは、目に見えぬ一種の力と思え。それを伝えるのが魂。そして魄の白偏の意味は白骨を指し示し、肉体の意味だ。つまりだ、魂とは精神的な霊力で、魄は肉体的な力を秘めている。今の科学では、生命なんぞをいくら調べても、肝心なところはわかんねえんじゃないか。なんせ目に見えねえからな。同じように目に見えねえもので、電気があるよな。その昔、電気なんてものは雷の光と音ぐらいで、あとはまったくわけのわからんものだった。そいつがやたらと想像力のある奴が捕まえやがった。目に見えない電気のからくりを目に見えるようにしやがった。今でこそ、電気がなけりゃ、この世は、世も日もあけなくなっちまったがな」

「今日はめずらしく、よく喋るな」北村は皮肉たっぷりに言った。「それはコンパクというのが、電気とおなじように、目には見えないが、すげーものだと言いたいわけか。この肉体にとって電気エネルギーみたいなもんだってことか」

「まだまだ口上台詞はあるぜ」 

 南明はドアのすぐ横に片づけてあったパイプ椅子に腰掛けた。北村に、ここに座れと目で示す。実際、めずらしく南明の気配は穏やかであった。それこそ目に見えない暖かさが感じられる。   

「そんじゃあよ、おまえに訊くが、その魄を生卵みてえに丸呑みできたら、人は、いや生き物はどうなると思うね」

 北村もどこか素直な心持ちになっていた。パイプ椅子に足を組んで座ると、昼寝でもしているような遺体たちを見回して答えた。

「おおよそのところはわかった気がするぜ。不破が大怪我しようと不死なのは、魄をたらふく呑んでいるからで……それは南明、おまえも同じなんだろう」

「馬鹿言うな。おまえも呑んでるぜ。おらが口移しでくれたものな」

 思わず北村は口を押さえた。

「そんなことは大概の者はすぐに勘付くもんだ。魂魄は人それぞれの性質も量も強さも違う。大器とは魂魄の容物よ。この辺りでは草薙町長と千堂が太くて強い。不破はあれが喰いたいとほざいていたぜ。草薙は妙な病苦でお釈迦になりそうだし、千堂も頭のどっかが狂いだしている。今ならみんな喰いつくしても、天災が呑み干してくれる。なんに魂魄は見えねえものよ。だれも見えねえものをとやかくは言えねえやね」

「それは刑罰のことか、裁判のことか?」

「まあーな」とそこで南明は姿勢を正し、北村を正面から見つめた。「あんたが好きな女に、いつでもわたしはなれるんだ。それはわかっているよな」

「ど、どういうことだ」

「おまえが不破を殺したいのは、おまえ自身が無罪になりたい、ただそれだけかい」南明の白目に静脈が乱れた。「わたしが欲しいんじゃないのかい」

 言いながら、南明はあのときのように、裂けたスカートを大きくめくりあげ、大胆に太ももを北村の目にさらした。皮膚がわずかに弛んで見えた。色もツヤも初老の婦人だと北村は思う。正直に北村のは下方をうつむいていた。だが、そこで南明は「ほふぅ」とため息を吐くと、ほのかに芳しく酸っぱい匂いがした。かと思うと、その太ももがぶるるっと痙攣し、赤みが挿すとともに艶やかに皮膚は色めいたのであった。

 変化は激変であった。力強く、麗麗しく、そのうえ蠱惑的であった。

 北村のが反応した。

 南明はスカートの裾を、なおも上にひきずりあげた。

 ぴくっと北村の腕が動いた。南明を抱き寄せようとしたそのとき、

「それで、どうなんだい。おれが欲しくはないのかい」

 南明は摘んでいたスカートの裾を放すと、北村の胸ぐらを捩じり上げた。

 鋼の剛力だった。そのまま北村の身体は宙吊りだ。

「いいか、あいつはおれが拾ったんだぜ。あいつが、まだ小僧のときにな。むろん、ここじゃない。大陸のど田舎だ。人がケモノみたいに仲良く暮らしてるのを、おれが引っさらってきたのさ」

「……いいから、おろせ。おれを殺す気なのか!」

「いいな、それ。あっさりやってもいいんだがな、ケッ、おめえはちょっと珍しいからな。精神も感覚も普通じゃねえし」

 南明は、どすんと北村を解放した。北村は、それこそ珍しく南明を鋭く睨みつけて言った。

「珍しい? 人を珍獣呼ばわりしてんじゃねえよ」

「それによ、手応えでは、おまえはよ、おれが手を出さんでも、一年は持たねえだろう。おっ死ぬだろう」

 その言葉に、北村の中核部が反応した。言葉そのものが鋭利な刃物となって、すうーと開腹していく感じだった。南明の怖さは計り知れなかった。

「一年だとォ?治療すれば寛解状態に持ち込めると医者は言ってたぞ!」

 北村の大脳が引攣ひきつれて悲鳴をあげた。目から鼻へ矢が走る。噎せるような怒気で肺が膨らんだ。

「だったらそれでいいぢゃねえか。とっとと行けよ。医者ンとこへ」

 聞いたとたん、北村の肺がぺしゃんこに萎えた。 

「──なぜわかる」

「訊くな、てめえでもわかってるくせして」

「命あるものは死ぬぜ」

「そんなこと言ってんじゃねえよ。おまえに最初会ったとき、とうに死んだ男だとわかった。臭えんだよ、おめえも。不破と同じように、生きながら死臭を発していやがる化け物なんだよ。なっ、珍しいだろう?」

「ほざいていやがれ。そのうち痛い目にあわせてやっからな」

「よっく言うねえ。あいつは近いぜ」

「それぐらい、もうわかっている。その不破をどうしたいんだ。永くつるんできた終身相棒じゃないのか」

「そう。そのつもりだったさ。あいつを縛り首にできる奴はまずいない。そのうえに久しぶりに魄をたらふく呑んでいるんだ。一ついいこと教えてやろうか、あいつには情というものを扱う術を知らんのさ。可哀想なことだが、そんなやつは大陸にはいくらでもいたよ。そのぶん、とっても便利な奴さ。赤子だろうと婆婆ぁだろうと、仕事となりゃあ、真半分に裂き殺すのもわけなくやるんだぜ。それもそのはずよ。頭の中身は、クソみたいに固まっていやがるのさ。最近になって、ようやく車の運転を覚えたが、しょっちゅう事故って面倒ばかりだ。そのせいでもないんだろうが、おれとやたらと交尾したがってきてよ。おれがいなけりゃ生きてこれなかったくせして、今ではてめえが主の面しやがる。ここへ来てからも、やりたい放題に人を殺めちゃあ魄を多飲みしくさってよ。ほとほと手を焼いていたとこさ──あいつの後釜が要り用なんだ。でなきゃ、おれの身もわかんねえからな」

「仲違いか。おれに市長の運転手みたいに働けというのか」

「すべては見事にあいつの息の根を止められたらだ。おまえの首が引っこ抜かれたら、それで話しは終いだ」

 とその時だった。ドアが弾けるように叩かれた。

 アドレナリンが放出されるより速く、北村は巡査の拳銃を構えた。

「キタフラアさん! ヒタムラさん!」

 筧の声だった。鍵の開いているドアを「引く」のではなく、なんども「押す」していた。いつも冷静だった筧の、この慌てぶりはタダ事ではない。北村は拳銃をベルトの背中側に差し込んで隠し、ドアを引いて開けてやった。

 おうっと、想像どおりの血相を変えた筧が、両目を血走らせてそこに立っていた。どうも咽喉に声がつっかえて、吐き出せないようだ。無意識に汗で濡れそぼつ前髪をたくし上げると、ふわっと嫌な匂いがする。筧の老人臭かと思ったが、これは「死」の匂いだと北村は直感した。

「どうしたんですか」

 言いながら北村は、まじまじと筧の両目を覗き込む。そこには、恐ろしい映像が幾重にも幾重にも貼り付けられているのであった。そのいずれにも、草薙町長と千堂夫妻の顔と匂いが混入してあり、彼らの「死」の匂いに違いないことが、なぜか北村にはわかった。と同時に、これこそは不破の能力ではないかと気づいた。

 狼狽を押し隠し北村は言った。「すぐに逃げたほうがいいです。構わずに外へ、役場へ行ってください」

 北村の訳知り顔の言葉に、筧は小刻みにうなずき、無言のまま廊下を駆けていった。

「きっと……」

 それだけで南明は動きだしていた。

 脇の下に仕舞っていた二本の包丁を取りだすと、一本を口にくわえ、残りの一本を左手で握ったところを、収納棚から盗んだ包帯で、ぐるぐる巻きにした。固く、固く、手と包丁を一体化させたのだ。ついで口に咥えていた出刃を右手に持ちかえると、休憩室へ向かった。

 休憩室と医院長室は横並びで、ドアは全開状態だった。すでに廊下にも、血しぶきが斜めに飛んでいた。

 北村は震えの止まらない右手を犬のように噛んだ。顎まで痛みが裂ける。

 そとのき玄関のほうで拡声器の声が響いた。

 耳を澄ますと、筧のように聞こえる。興奮して声が割れているが、院内感染が発生したので、一時退去するよう、避難住民たちに警告しているようだ。──住民の避難はおれの仕事だったよな。北村は呟くと、ドアの向こう側へ素早く飛ぶ。その一刹那、さっと部屋の中の様子を目に留めることができた。

 想像どおりの光景だった。本来は、四畳半ていどの空間に、什器や家具調度品が置かれていただろうに、見たところは、日常は失われ、ただひたすらに赤黒い肉片が散らばっているだけであった。黄色い脂肪や白い骨片や潰れた眼球と奥歯が見分けられると、かえって北村は理性的に識別できて、長い頭髪が一部の頭皮とともに壁に張り付いていたりすると、ああ、婦長の髪は染めてあったのかと冷静に思うのであった。

 ──そろそろ生理的に限界かな。 

 もっと肝をつぶして、ふためくかと思っていたが、逆に妙に落ち着いている自分が怖く感じた。体育館でも中学生たちの惨屍体を看取ってきた自分が、今もこうして正常な人を演じられるのは、なぜなのだろう……と。

 ふとドアのかげで包丁を構える南明の笑みが、愚かしくも懐かしく見えた。だが、次の瞬間、その笑みが干上がって凍りついた!

「ええよなあ、若いってえのはよお……!」

 不破の胴間声だ。強烈な波動が壁までじんじんと震わせ、ロッカーの薄板をバリバリと共振させている。窓枠のネジや釘も逃げ腰となって震え、板ガラスも砕けそうだ。

 南明が言っていたように、この凄さは、重機を相手に戦える化物でなければなんなのだろう。重機に拳銃のちっぽけな真鍮製の弾丸が通用するはずがない。そのうえ不死ときたら、対抗手段などあろうはずがないのだ。そこへダメ押しで余震が追い打ちをかけてきた。

 ぐらつく足元、それでも北村は、それがチャンスと攻めこんだ。ほぼヤケ糞でも先手であった。

「キョヘェェェェェ!」

 と奇天烈な掛け声とともに、廊下から水泳のダイビングさながら宙空へと跳んだ。

 彼にしてみれば、意表をついたつもりだった。しかし、意表をついたのは、自分の間抜けさだけだった。宙空に身を躍らせている間に、不破の頭部を、狙い、粉砕するはずが、時機を逸して、そのまま、突き出ていたドアの角に頭をぶつけると方角を失い、どううんっと簡易ベッドにぶちあたり、床にもんどり打ったのである。ヒキガエルがでんぐり返ったように、

まあるい腹が天を向く。そこへ間髪入れずに、不破の切株ほどの踵が打ち下ろされ、床まで砕けよとばかり振動が爆ぜた。

 神経と血管を巻き込みながら、腹部は脊髄とともに扁平な部位に変化して果てた。それが人生最後の痛みでもあった。きっと脊髄まで不破の踵は打ち砕いたことだろうし、いくつかの内臓は、たやすく破裂したはずだ。ほんの数瞬間で、北村のすべては終焉を迎えたといえようか。

 北村の虚ろう魂魄が、眼前にそびえる怪醜の怒鬼を見上げていた。それは体育館で見た狂鬼きょうきより数段大きく、この世ならぬ形状へと変貌を遂げていたのであった。

 北村の意念が、ヒクリとも動かぬ我が肉体を見下ろした。未練もなにも感ぜぬ、ただの屍体となっていた。すぐにも鬼哭啾々の仲間に加わるのだろうと、北村の意識は嘆息した。

 肉体を離れると、アインシュタインが言うように、時間の感覚は失せる。それだけで魂は自由の身となれる。だが、魄は肉体にそのまま取り残され、永劫に地に伏せることになる。必然的に魄は魂を詛う。魄は地に伏したまま、生前のままの姿を纏い、幽体となった魂を惹き寄せる。本来の「招魂」はこの現象を指し示し、魄の放つ呪詛の念は災禍をともない人世の乱れを招くことになる。未練から解放されぬ魄は幽霊となり、哀れに現世と来世の間隙を彷徨さまようのだ。

 それまでは一つの生体に魂魄は宿りて、互いに支え合ってたくましく生きてきたが、ひとたび宿主が屍体となってしまうと、即、両者の関係はふっつりと途絶えてしまうのである。

 不破の目にも、北村の魂が見えるのか、あるいは、北村のぺちゃんこに伸された死骸に満足したか、渾身の力で笑った。

 またもや休憩室は震えた。余震だと錯覚したか、表玄関あたりで避難者たちの叫び声がまたもやあがった。

 床に散乱した内臓器の数々は、小山となって湯気をたて、三体分の破壊された屍体たちは、部屋中に〝死呪〟を撒き散らしながら、不破そのものを呪うとするが、片腹痛いとばかり、笑い声だけで弾かれた。

「くそっ、うっせえ」

 それは両手を鈍く光らせて、のっそりと部屋に踏みいってきた南明の声だった。挨拶がわりに不破が言う。

「おまえの間男をこんなにしちまって、すまんなあ」

 そう言いながら、不破は肉片の中から千堂医院長の喉頸をむんずとつかみ、顔面の高さまで持ち上げた。ぼちゃぼちゃと体液やら何やらが不破の足元に垂れている。

「その手を離せよ、クソめが」

「結衣よ、おまえもまだ呑み足らんというのか」

「クソめが。魄のあつかいも未だに知らぬ戯け者め」

「おおっ? それじゃあ訊くが、結衣はどれだけ知っているのだ。このまえの戦火の中で、おまえは手っ取り早いと言って、防空壕に避難してきた赤子連れの中に押し入ったよな。いったいあのときは、何人の赤子から魄を盗んだのだ! 魄は人生を重ねた者ほど貴重物になるんじゃねえのかい。まだほとんど人に非らずの赤子の魄を奪っても、てめえの遺骸は膨れねえだろう! 違うかいっ」

「そこがわかっていねえというんだ。魄は、みずからの生き場所を求めてもいるんだぜ。奪う側も奪われる側も、所詮は同じ川の流れだということに気づかねえといけねえのさ。あたら争ったところで、かえっておまえの遺骸は腐るだけなんだぜ」

「またわけのわかんねえことを! 奪ったものが勝ちだろがっ」

 不破は高々と持ち上げていた、ずたぼろの千堂医院長の遺体を、南明めがけて投じた。ドアの枠組みに千堂の頭部は激突し、ぐにゃりと変形した。不破の見境いのないやり方だった。転じて南明の動きは的確であり、洗練されていた。かわすというより、ただ触れただけであった。千堂の遺体は、みずからの体液にまみれながら、廊下を滑っていった。

「おまえは自分の身体の中身をどれだけ知っているんだえ。おいっ」南明は面倒臭そうに言った。「魂魄は流転するものだ。正邪を巧みに撚り合わせてこそ生命となすものだ。無闇やたらと手当たり次第に魄を呑んでも、その身体は、もとの遺骸に朽ち果てるのみぞ」

「そうだとしても、おれひとり──ということはないぜ。今までどおりに、常におまえと一対の定め。ンだろう?」

 不破は、するどく南明を睨めつけるが、どこか戸惑いが感じられた。

 ふうっと南明は、ため息して見せた。

「さあて、そこはおれにはわからん。ただ、わかっていることは、おれはそろそろおまえに飽きたということだな。その死に損ないの肉塊には、魄は似合わんからな。こうやって酷たらしいだけの殺戮に嬉々としているおまえには、自堕落な破滅のほうが似合うだろうがよ」

「てきとうに喋ってんじゃねえよ。クソババアめが!」

 怒気で双眸が燃え盛り、それをなお黄金色に輝かせ、不破が突進をしかけてきた。棍棒じみた双腕が、南明めがけて打ち下ろされる。だが、南明は怯むどころか、ちょうど不破とのあいだに置かれていた木製の小物入れを、サッカーボールかなんぞのように爪先でひっかけて浮かすと、その側面を蹴りつけた。

 瞬時に小物入れは木っ端微塵となり、部屋中が夥しい木片で煙った。 

 不破とて南明の仕掛けは、長年連れ添ってきたのだ、ある程度は察することができる。小物入れを粉砕すると同時に左腕を回旋させれば、南明の薄い下顎なぞ、わけなくひっぺがすだろうと図った。その筈だった。

「相変わらず先読みのできねえ坊やだねえ。だから、このババアにも嫌われるのさ」

 いつから南明の利き足は右足に変わっていたのだ!──そう不破が気づいたときには、先ほどの小物入れの脚パイブが、彼の左頬を貫いていた。何本かの奥歯と肉片が、小物入れの脚の先端にめり込んでいる。

 とっさにその先端部分を握り、引き抜こうとしたが、その動きが止まった。不破は南明が言うとおり、仕掛けが読めないのだ。全身を警戒色で滾らせ、殺気を毛羽立たせるのみだ。それでも、先読みでができずとも、南明の狙いは自分の「視力」だと経験則から読んでいた。いくら魄を鯨飲した後とはいえ、眼球をもっていかれると、恢復には手間取るからだ。体育館のときのヘマの二度目はない。命とりになる。

 不破は背後を取られたら終いだと思い、壁面へ後退った。これで壁が崩れぬかぎり、背後は守られたことになる。残りの三方向ならば、まだ勝機はある。だが、さっきから不破の視線は、疫病神じみて定まることを知らない。

 ──南明の姿を見失ったのだ。

 瞬間だった。この八畳四方の休憩室だというのに、どこにフケたんだ。不破は苦りきって目を剥いた。

 ドアは開いているが、それこそたぶらかしだと、不破は奥歯を噛みしめる。あと二体分の腑分けした死屍と、簡易ベッドと、パイプ椅子と、小物入れ。それしかここにはない。だが、南明の姿はない。ないが、やつはここにいる。不破おれこわそうと付け狙っている。

「ああ、こんなんだったな……」

 不破は眩しそうに目を細めて、無限遠に焦点を合わせていた。廊下の突き当り、そこに見えるはずもない、遠い過去の残像が、生き物のように息づいていた。

 すぐに寒々しい風景だとわかった。が、どの時代の何処なのか、残像は知らん振りで、手がかりなぞ与えてくれなかった。あからさまに、そして意図的に、手がかりは消されているのだ。

 南明の匂いが、まるで手品師の間合いのように、不破の頭蓋骨を抱き寄せる。南明は、おいしそうに、不破の脳髄をしゃぶる。唇と舌を押しつけて、残り少ない残像をこねくり回して……。

 ふと見下ろすと、カチコチに凍った砂利道の上に、無数の死屍が並べられていた。サイレンの音だけが、生き生きとして、不破の吐く息にシンクロしはじめる。すぐに不破は不快感にむせた。苛立つほど不快だった。胸くるしさは増すばかりなのであった。

 これはなんとかせねば。不破は清浄な大気を欲した。だが大気を吸えば吸うほど、何処となく、悲しみが押しよせてきた。極寒の痛みをともない、肺腑は哀哭で膨れ上がった。

 いつしかサイレンが鐘の音に代わり、女たちの潰れた怒号と絶叫が混じっていった。

 何度もそれは繰り返された。女たちの怒号は、いつもきまって呪詛と悔恨とで潰されていたのである。

 そこへ不破が呼ばれた。見上げると南明の半裸の胸元があった。

 暖かそうだと思ったとき、ビシャッとびんたされた。

 南明の爛れた手が、真っ赤に錆びた鶴嘴つるはしの破片を差し出してきた。そして血まみれの肉片。いや、小動物の剥いだ皮だ。広げるとドブネズミの犬歯がぶらんと落ちてきた。

 鶴嘴の破片を膝に乗せ、ドブネズミの生皮をぐるぐる巻きにしていく。今度は不破の素手を、汚れた荒縄で、やはりぐるぐる巻きにする。南明の前歯が縄を引き絞っていく。さっきまでドブネズミの生皮を剥いでいたような鋭い歯だ。

 不破の手の骨が悲鳴をあげる。むろん、南明は、まったく気にしない。そのうち麻痺して激痛は脳天から昇天していった。

 南明は死屍の列を見つめながら、鶴嘴を鷲掴みにして、麻紐を縒ってこさえた腰紐に差し込む。そこで再び不破の後頭部が蹴られて、頚痛がねじれた。

 残像は、そこでずるりとめくれた。

 濃厚な女の匂いで息が止まる。南明の裸体を、自分の肉塊は、我が肉体のように愛し、求めている。実際、幾度か南明の乳房に噛みつき、一部を食べたこともあった。直後は自分の両腕は欠損していた。南明がたやすくもぎ取ったのだ。しばらく二人は笑っていた。蛸のようだと大笑いした。永久に生きていくのに、ひとりは寂しすぎる。悲しすぎる。一対であればこそ、人の世を渡っていくのに飽きは来ない。

 女の匂いが〝魄〟の匂いだと気づいたとき、南明は大笑いして不破を蹴飛ばした。

 それから事あるたびに、いつもいつも、不破は南明に半殺しにされた。その後は、血まみれのねや吻合ふんごうする。とろけるような南明の身体と深く交わうのである。気づくと傷口はふさがり、真新しい皮膚と筋肉が、あたりまえのように欠損部分を補っていた。いや、補うどころではない。以前にも増して、もぎとられた腕や脚は、見違えるほど逞しくなっていたのであった。

  人非人というならば、おまえはいったい何者なんだ。

 不破は、いつもそう思う。思ってみても詮無いことと知りながら。

「またおれを毀すつもりなんだな」

 部屋中に不破の意念が響き渡った。

「わかっているなら観念しなぁね」

 反響するように南明の意念がこだまする。

 不破は南明の細い首を先ず脳裏に描いた。それを幾度もふざけて絞めてきた。だが、今回は雑巾のように絞られている自分がいた。

 その時!右足首に奇妙な感触があった。

 見届けるまでもなく、右足をそちらへと蹴り上げた。

 それは南明ではなかった。さきほど叩き潰したはずの北村の死屍であった。そいつは、自身の流れ出た体液で濡れそぼち、廊下側の壁へべちゃりとぶっ飛んだ。そしてバウンドした。そのまま頽れるかと思いきや、不破へと向かってきたのだ。反射的に屍体の頭部をつかまえようと両手を広げた。だが、死屍は失速し、今度こそ不破の足下に頽れた。いや、毛布のようにからまってきたのだ。からまいながら、不破の筋肉で膨れ上がった太腿を、がっしりと鷲つかみにしたのであった。

 潰したはずの死屍が……!

「おまえも同じ骸だったろうが!」

 怒鳴ったと同時に、ビビンッと強烈な圧迫感が、右頬から左のこめかみへと突き抜けた。

 壁面に出刃包丁が身震いして突き刺さっていた。

 やられた! と思ったとき、すでに不破の身体は、縦軸に旋回しながら、奥の壁へと回避していた。その際、壁に、びたっびたっびたっと液体が飛び散った。自分の顔面は、もう半分ほどこわれたんだと彼は痛感した。

 そこへふわりと、魄のとろけそうな艶香が鼻をかすめる。

 くっそ、南明め! おれの面をとことん潰すってかっ! 

 だが、ここは顔面を護ることより、まずは足下の北村の死屍だ。不破は膝を折って、床にしゃがむと同時に北村の頭部を上腕二頭筋と胸筋との谷間で挟み込んだ。これでこいつは豆腐みたいに潰せるぜ。とたんにミキッミキッと北村の頭蓋骨は悲鳴をあげた。ついでに頭部を引っこ抜いてやろうか。

 だが、その計画は頓挫する。

 かわりに床に転がったのは、北村の頭ではなく、不破自身の首であった。ごろりごろりとボーリングの玉のように重々しく転がり、簡易ベッドの下で静止した。

 血みどろの肉塊が、失った頸部より吹き出す鮮血で、なお一層現実離れてしてきた。床に広がる生き血は、たちまち乾いて盛り上がり血餅となり、そこへまた鮮血が流れてくると、もう休憩室は屠畜場に他ならない。たちこめる死と鉄の毒素の匂いが、強烈な呪詛の気配とないまぜとなり、部屋そのものを地獄へと様変わりさせているのだった。

 その化け物の傍らで土塊のようになった北村の死屍が、ビクッと一度、痙攣した。

 右足の太ももが、くいっと持ち上がり、ぶーっと盛大な屁を放った。

 そして「あ゛ー」と虚空いっぱいに、面倒臭そうな大声が流れた。

 北村の死屍が、いまだに自分の頭部を抱え込んでいる不破の双腕を、力まかせに引き剥がしていった。グキッン、ガッキンと関節が外れる音が不気味だった。ようやく自由となった上半身は、どこまでも真っ赤だ。ただでもズタズタのワイシャツを、脱ぐというよりは、めくりとっていく感じだった。血餅で垂れてくる頭髪を、搔き上げてワイシャツの破片で顔を拭う。すると晒け出された胸部には、どう見ても真っ赤な乳房があった。そしてその血糊を拭い去った顔は、南明のふてぶてしい面相なのであった。

「思ったより面倒臭い奴だったな」

 ふらりと南明は立ち上がり、簡易ベッドのうえに畳んであった毛布を不破の屍体にかけて、自分はシーツで手足を拭きはじめた。その間、転がっていった不破の首を見すえていた。

「さあてと、あいつはどうだろうか。手応えはあったんだがな」

 そう呟きながら、草薙町長と千堂の妻らの死屍たちが折り重なったところへ近づいた。

「どうして人は死ぬと、こうも下らねえ物に成り下がるのかね。あいつそうだ。あれでけっこう使えるところのある男だったんだぜ」

 南明は草薙町長の死屍の腕をつかみ上げ、まさしく布団のように横へ退けた。

 するとどうしたというのだ。そこに現れたのは、他でもない、北村そのものではないか。

 たしか勇躍して部屋に飛び込み、銃弾を不破の頭へぶち込むはずが失敗し、逆にヒキガエルのように潰されて横死を迎えた。それが他の死屍に混じって隠れていたとは……。

 南明が北村の様子を不機嫌な顔して見下ろしていたが、我慢ならずと、乱暴にワイシャツの裾をめくった。

 たしかに不破の足型がくっきりとついていた。その様子からして、内臓は破裂しているだろうことは予想がつく。

「ま、おれもいつまでこんなことやってんのかね」そう言いながら、北村の死屍を背負い持ち上げた。「そのうち天罰があるだろう。というより、これが天罰か……」

 南明はそこで頭の中で自らの計画表を広げた。まずは用具室からポリバケツを持ち出し、手当たり次第に、散らばる肉片やら臓器やらを放り込んだ。すると北村の死屍を軽々と肩にかつぐと、ポリバケツを両手にぶら下げたまま廊下に出る。向かうはあの霊安室だ。通い慣れた勤務先といったふうに北村の頭部で扉をあけると、その場に荷物を置いた。休むことなく南明は裏口の遺体搬出用口へ急いだ。そこは観音開きとなっている。これまた手慣れた様子で開けると、そこには二つ三つの大きなポリバケツがあり、南明はホイホイと運び込んだ。

 さっき持ち込んだポリバケツの中身は大量の泥水に見えたが、どうやら土砂崩れの災害現場のものらしい。襖や雨戸の破片や樹々の根っこ、ガラスの破片に何枚かの瓦が頭を出していた。そこへ腑分けされた遺体の部分を突っ込んでは取り出し、山積みにしてあったタオルで拭きとっては、次々と床に並べていった。まるで産業廃棄物工場の人体版だ。

 以前からこんなことを南明は行なっていたのだろうか。かなりの作業量だというのに、たちまち霊安室は被災者遺体置場といった様相を呈してきた。見事なものだ。吹き出す汗をタオルで拭いあげると、もう床面に隙間はない。むろん、空いているストレッチャーも担架もない。まだまだこの後、警察やら自衛隊やらが、町内の至る所から遺体を回収することになるだろう。不破のせいで、その数は計り知れない。回収不能の遺体もあるだろうし、事件と天災による被害との両面から、捜査は想像を超えるものになる。南明はすべてに自分が関与しているくせに、まるで他人事のようだった。ちらりと藤岡の遺体に目をやると、

「あんたも不運な人だったな。おれたちに二度も出逢うとはよ」

 霊安室の設備を南明はもう熟知しているようで、掃除用シンクの蛇口を全開にすると、風呂桶のようにザンブと下半身を浸け込み、全身に浴びた鮮血をきれいに洗い流した。タオルでざっと水気を拭き取りながら、在庫品や備品の整理棚から、今度は手慣れた様子でナース服を見つけ出し、袖を通すといっぱしの看護婦に見えてくるから不思議だ。整理棚には、さすがにナースシューズはなかった。裸足の看護婦では格好がつかないので、再び休憩室の殺害現場へと戻り、婦長のシューズを失敬して履いた。婦長の遺体は比較的に綺麗なもので、南明は、ついでとばかり、靴下も脱がして自分のものとした。

 悠然とした足取りで、北村を置いてきた霊安室へ向かう。するとかすかにヘリコプターのパタパタパタ……という、おもちゃのような音が聞こえてきた。思えば、北村はこれを首を長くして待っていたのだった。南明の口角がニンマリと歪んだ。

「あとは、あれがどうだか……さ」

 霊安室のドアをそうっと開けると、男の大声が長々と聞こえてきた。人生に飽いた男の、いやになるほど間延びした声だった。だが南明は、ここでまたフフッと鼻で笑った。

「おれの感に狂いはないね。しっかし、おっさんの二度目の産声って、色気がねえよな」

 そのおっさんは、手前のストレッチャーに寝かされていた北村の死屍だった。深酒でヘマした住所不定のおっさんが、ブタ箱で巡査におこされた雰囲気そのままだ。

 おっさんは不思議そうに看護婦姿の南明を見つめていた。

「どうだい具合は」

 おっさんは相変わらず不思議そうにしている。むっくりと起き上がり、そのまま南明の胸の膨らみをむんずとつかんだ。

 びぢゃ!と南明の手刀が、おっさんの頭へ飛んだ。

「へっひーゃ」

 おっさんは情けない声をあげた。心底情けない声だった。

「今度やったら両耳を削ぐからね」

 と言いつつ、看護婦は、おっさんの頭を小脇に抱えておさえると、いともたやすくブッチンと右の耳たぶを引き千切った。

「ウンッ、グ、ヘヘヘヘェェ」

 おっさんは身震いしたくなる絶叫をあげた。その大きくあけた口へ、南明は北村の耳たぶを突っ込んだ。

「うっせえよ、これからながーい付き合いになるんだ、よろしくな」南明は、おっさんの胸ぐらを鷲つかみにした。「そいつの味をよっく憶えておけよ。もっとまずいものを食うことになっからよ」

 おっさんは自分の耳たぶを血反吐といっしょに床に吐いた。

「ほら、おまえもみそぎするといいぜ」

 そう言いながら、南明の看護婦は、その名の通り、おっさんの治療らしきことをする。さながらゴッホの自画像ばりに、右耳に止血ガーゼの塊をおしつけ、包帯をぐるぐる巻きにする。そこで待つこと三分半。南明の作業は再開した。

 まだ残っている左耳を引っぱって、北村をストレッチャーからおろすと、そのまま掃除用シンクへと突き落とした。蛇口を全開にして、まずはおっさんの首から下だ。立てかけてあったモップで、野ブタでも洗うようだった。

 それからの南明の手際は一段と冴え渡る。とりあえず、おっさんの衣服をすべて剥ぎ取りゴミ箱に捨てた。さっき整理棚から見つけておいた、看護士用の青い制服とマスクと防塵ゴーグル、そして意味のわからない手術帽子をおっさんに与えた。鮮血でピンク色に染まった右耳の包帯が、これでだいぶ目立たなくなった。県庁から履いていた安全靴を健康サンダルに交換し、そのまま霊安室を後にした。

 受付と併設してある事務室に入る二人の姿は、あやしげな医療関係者に他ならず、避難してきた町民たちが見ても、この異常時のことだと誰も怪訝にも思わない。それより我が身の安全確保が最優先の時だった。

 

 そこへぐったりした労務者風の男が、いずことなく現れ、二人に声をかけてきた。青いビニールシートで包んだ荷物を小脇に抱えているが、まさしくホームレスの七つ道具といった感がある。

 北村の表情が、瞬間的だったが戸惑った。すぐに溜息とともにうなだれた。手にしていた血みどろのモップを背後に隠す。

「あのう、救助とか救援のスタッフさんたちでしょうか」

 男の表情筋は鉛のように暗く、そして重たかった。しかし目つきだけは白刃の輝きがある。負けず劣らず、南明もするどく見返して答えた。

「はい。ついさきほど山越えで到着しました先遣隊の一員です。本部命令で、こちらで医療部の開設が可能かどうか調べているところです」

 平然とした態度に揺るぎがない。

「そうでしたか。それはご苦労様です、助かります」

 男は、訝しそうに南明をすばやく見た。その鋭さに南明のほうも身構える。と同時に切り返して自己紹介だ。

「──遅れましたが、わたくし東部医療ボランティアセンターから派遣されました本宮と申します。専門は医療学。そしてこちらは同じくセンターから急派されました、上沼です。医療検査技師を専門としています。よろしくどうぞ」

 そこで北村と南明は軽く頭を下げた。南明の右手は、北村の首根っこをガッチリとつかんで、抗うことは許されない。南明はつづけて言った。

「運び込まれた遺体の今後の検死、検案の事前処置として緊急体制で働いているんですが、相方が見た通り、この有様でして。側頭部に地震で落ちてきた計器に殴打されて、耳を切り落としてしまったんです。だからといって後任者が到着するまでは任務を継続する必要がありますし、もうそれこそ地獄の鬼もさもあらんですわ」

「……あ、お怪我は大丈夫なのですか?」南明のまくし立てる事実がどうかの判断もつかない内容に、男は辟易している様子だったが、「改めてお疲れ様です。ご苦労様です」と北村の真っ赤な包帯を見つめた。

「ありがとうございます。それでしたらば、こちらの代表責任者をされております千堂医院長は今どちらでしょうか。そして婦長をされているという奥さんも。もし我々の交代要員が到着したらですが、すぐにも相方を本部のほうへ移送させてもらいたいので、その認可がほしいのですが」

 と厳しい目つきで南明が、男に向かって質問を投げかける。すると男の頭の中は疑問符でいっぱいだ。何を企んでいやがるんだ。男は右手をパタパタと振りながら、疑問符を耳の穴から扇ぎだした。

「いやぁ、実はぼくも救助現場に駆り出されて、たった今ここへ戻ってきたところなんです。医院長の居どころですねぇ、医務室か、処置室でなければ、自宅なんでは?」

 南明はふっと息をつく。「自宅?いえ、実はですね、大変な事故があったようで、土石流の発生に巻き込まれた被災者さんたちのご遺体が、裏口の搬入口から運び込まれたのですが、それはそれは酸鼻をきわめる有様でして。自衛隊か消防隊の指示も必要かと」

 男の目つきが一変した。すばやく地面にしゃがみこむと、抱えていたビニールシートを開く。すると思い切り汚れた物体が、彼らの眼前に晒け出された。

「こいつ……なんだと思います?」と男が言い終わらぬうちに、「フジオカの……」

 無意識に体内から流れ出た北村のつぶやきは、周囲の喧騒けんそうにまぎれていった。

「えっ、今なんと言いました?」声高に男は質問した。「市の職員の、藤岡さんのものだと言いました?」

「誰が?」

 ずいっと一歩踏み出して南明の気迫が漲る。

 このときの南明の演技ときたら、神憑りの凄まじさで、見つめられた男は我知らず悪寒すらおぼえた。あとで思えば、そのときの悪寒は、鬼畜のマナザシに怖気る子羊といったもので、男は、そそくさと荷物をブルーシートにまとめると、泥を跳ね上げながら、その場から立ち去ったのであった。

  

 そのころ上沼は亀裂の入ったi・Pohnをしばらくいじっていたが、医院長たちの手がかりはつかめず、さりとて院内を我が物顔で作業に没頭する、あの怪しい医療ボランティア二人と合流するのも気後れして、結局、被害現場をあちこちと移動ばかりしていた。玄関に身を寄せていた避難町民たちは、どこで耳にしたのか、自衛隊のヘリが、倉土師山の東部に設けられた多目的広場に着陸したと、ここそこで明るい声が流れたようだった。どうも地元局のラジオらしい。

「よかった。よかったね」

 無意識につぶやく上沼は、玄関の駐車場に停まる原付バイクに気づいた。サンダルのまま駆け寄ると、ナンバープレートの数字に見間違いはない。本宮さんは院内にいるんだ。職員専用の下駄箱にもピンクのスニーカーはある。踵を返し、迷わず休憩室へと上沼は向かった。きっと休憩室で、それこそ仮眠しているのだと思ったのだ。きっと彼女なら医院長たちの居どころはわかるはずだし、労をねぎらってやらなければ。

 だがその軽やかな足が止まり、ちぢんでしまった。あの二人組が、血だか泥だか、どろどろのモップで床を掃除しているのであった。

 お二人さんは医療ボランティアじゃなかったのかい! そんな言葉が咽喉を突いて出てきそうだった。だが、その気配を南明たちが嗅ぎとった。逃げ腰の上沼めがけ二人は襲いかかるように接近すると、尋常ならざる妖気をたっぷりお見舞いしたのだ。

 上沼は一言も発せぬまま、死を覚悟した。これで仕舞いかと人生を手放した。それほど怖気て、上沼はふたたび玄関の方へと消え失せた。この先、死ぬまで、あの二人と自分の人生に、いっさい関わりはない。と心に決めて。 

 

 それから小一時間も経っただろうか。

 南明と北村たちは懸命に、そして実直に働いた。霊安室から休憩室を経て医院長室までのエリアを、くまなく清掃消毒していったのだ。ときおり、避難してきた町民などがそのエリアに通りかかると、二人はものすごい剣幕で追い返した。そのうち南明が資材置き場にみつけた黄色と黒のロープを張り巡らせ、ご丁寧にも北村は、立入禁止の手札をぶら下げた。

 もうそうなると既成事実のわざとらしさで医院内は区分され、ここが惨たらしい犯行現場だという気配もなにもあったもんじゃない。すべてが南明の手際のよさによるものだった。あらかじめそうなることを、以前から予知していたがごとく、彼女は取り繕っていくのであった。

 予想外の遺体の数々が、ところ狭しと並べられ、お焚き上げでもあるまいに、数多のお線香から立ち上る香煙は、死者をそのまま燻製にでもしそうな勢いだ。

「疲れたろう。だがあともう一息だ」

 南明が合掌しながら言うと、北村は溜息を吐いてうなずいた。

 そのまま二人は更衣室に入る。血でよごれた白衣などを着替え、忘れ物カゴの中から緑色のカーディガンを見つけ、無造作に羽織った。隣接してすぐ事務所と看護ルームがある。いくども見知った部屋だった。

 

 ラジオの特番が幾度も放送していたとおり、三機の救難ヘリコプターが小波瀬町の上空に飛来した。誰がどう許可を出したのか、橋本土建会社の重機置場が、そのままヘリポートとして使われていた。そこからならば被災者たちの避難所でもある千堂医院も近く、ここを拠点に災害対策本部は設営されることが後付けで確立していく。そうなると救難隊と役場の職員、そして土建会社の作業者たちの手によって、大型のテントが次々と立ち並んでいくのは必然的だ。

 余震の恐怖も影を潜め、有線放送を流す女性職員たちが、救難隊員の指示のもと、避難者の誘導が開始された。

 ヘリならば県庁と県立総合病院への搬送所要時間も大してかからず、別働隊として他県からの応援も入れば、急テンポで地域復興への足掛かりは本稼働するだろう。


 パワーショベルを乗せたダンプトラックが、泥と土煙を巻き上げながら、災害現場へとむかっていく。その様子を眩しそうに見つめる、男女の白衣の姿が割り込んでくる。町民たちが右往左往しているテントの間を縫うようにして、彼らは何食わぬ顔して、玄関前に建てられたテントの中へと入っていった。白衣やスニーカーの汚れ具合がひどく、何ヶ所かの現場で救助活動をしてきたことが窺える。

 ざわつくテントの中に、彼らは腰掛けられそうなベンチを探していると、他の作業者たちが気をきかせて、二人に場所をあけた。みな二人の胸元にかけられた、数々の真新しいネームタグに目を留めているのであった。

 そこへ小波瀬町の腕章をつけた職員たち数名が、バラバラとテントに現れた。両手いっぱいのペットボトルを抱えていた。その中で、いかにも責任者といった男が、やはり白衣姿の二人に目を留めた。すかさず頭をさげさげ接近していく。

「どちら様……」

 と首にぶらさがるネームタグを指す。なるほど数々のタグは、それぞれが違う形式で、しかも違う人物を表していた。不審に思うのもうなずける。だが、二人は苦笑いで、きっぱりと答えた。

「あァ、これですか。これは……いえ、このみなさんは、ここに収容された故人さんたちのものなんです。緊急災害法に規定された通り、市の担当部局に、遺体保護報告とそれに付随する必要書類の申請に必要となります。さきほど市職員の現地派遣員として、災害本部への帰還命令がでましたので、このように搬送ヘリの手続きを行なっているところです」

 この女が何を喋っているのか、男にはよく呑みめなかったが、どのタグにも、押されている印章だけは判読できた。紛れもなく、小波瀬町の草薙町長の印鑑なのだった。

「──ああ、市の方達でしたか。重ね重ね、ご苦労様です」

 それ以後の問い掛けはなく、職員たちは山ほどの仕事へと戻っていった。

 男性の白衣が、彼らの背中を見送りながら、配給されたスポーツドリンクのキャップをひねる。独り言のように喋りだした。

「おれ、告っちまうとな。どうせおれはそんなに永くはねえんだよ。膠芽腫って知ってるか。グリオブラストーマ。グレード4の悪性腫だ。ついこのまえだ、遺伝子検査でその可能性が高いと出たらしいが、おれにしてみれば以前から知っていたさ。親父がそうだった。ほとんど同じ症状だった」

 そのすぐ横で、足を投げ出してベンチに座っていた看護師が、面倒くさそうに青年を睨んだ。

「くたばりぞこないなのは、会ったそのときから臭っていたからわかっていたさ。半分死んだようなのは、巷でうろうろしている。そんなことは今更だろうが」チラリと男のネームタグに目をくれて、「今のお前は別人だろうが。こうやって嗅いでも──クンックンッ──なあんも臭ってこねえしよ」

 見かけは若い医療関係者、だが声質も性格も南明そのものだ。いや、それ以上に、一段と凄みが加わっていた。

「……チガウと言えば嘘になる。そうだと言えば虚偽になる」

 別人かどうかの判断はともかく、こちらは以前の北村の雰囲気は隠せない。白衣のポケットに手を突っ込み、どこか照れ笑いを見せた。南明の言葉通り、偏頭痛症は言うに及ばず、さまざまの病態に悩まされてきた。がしかし、今それらは、すっかり鳴りを潜めているのは確かだった。

 

 昼食がわりに配給された菓子パンを食べ尽くすころ、しだいにテントの中は、救難ヘリの順番を待つ町民たちでごったがえしてきた。病人や負傷者たちを先頭に、高齢者と幼児らの保護者などが、救難員の指示を仰いでいる。どの顔にも、緊迫感と疲労感と絶望感がまぜこぜとなっていた。さすがにここでは北村と南明たちは不自然であり、浮いて見える。

 ヘリコプターの準備を待つあいだ、二人は千堂医院をぼんやり眺めていた。すると裏手の駐車場のほうから一人の男が、避難者たちを掻きわけて現れた。それはさっき声をかけてきた労務者風の男であった。何やら肩に担いでいるが、北村にむかって歩いてくるようだ。そして小さく手をこちらに振ると、歩く速度をあげた。

「すいませーん。たしか上沼さんでしたよね。すいません。これを見てもらいたいんですがね」

 声を大にしているが、北村はこの人混みと喧騒の中で、気づかなかった振りを決めこんだ。南明の肩を叩いてヘリコプターの搭乗口の反対側へ移動を開始する。要するに男から逃げたのだ。

 その様子を見て取った男も機敏であった。一人ならばまだしも、南明も引き連れて移動することが不審を買ったようなのだ。見ればヘリの救難隊員は、他の上官とヘッドセットを介して話しているため、男の姿は視野にはない。

 ヘリコプターの裏側に回り込むと、事情の知らぬ他の隊員が二人をサポートしていた。すぐさま北村は傍よると腕時計を指差して、ついで上空を指差した。すぐに飛んでくれというサインのつもりらしい。だが隊員は「待て」のサインを手のひらで告げてきた。

 そこへあの男が、今度はヘリコプターの機首側から現れた。どこか緊迫感が漂う。胸ポケットから警察手帳を取り出したのであった。

「県警捜一の柘植といいます。先ほどはご丁寧に対処してくださり助かりました。なんか急いでいるようですが、今いいですかね」とは言いつつも有無も言わさず続ける。「さっき見せたリュック、どうしてこの持ち主が藤岡さんだと、そして市役所の職員だとあなたはわかったんですかね。どこか雰囲気が似ているなと思ったんですが、もしかしらあなた、市の危機管理防災室の北村をご存知ありませんかね。課長のはずです。ここに派遣されてきているはずなんですよ。そして、これが同僚の藤岡さんの持っていたリュックで、これが北村課長のリュックです。この中には録音機が入ってましてね、いいですか、藤岡さんはあの屍体の山と関係があるはずなんだ。不破とかいう謎の男が真犯人だと録音してありましたからね。そして藤岡さん自身も奴に殺されたんです」

「えっ、どなたかと勘違いしていらっしゃるんじゃありませんか」

 南明が、どこか横柄な態度で北村に代わって言った。

 北村も同様に柘植を見下す。

「──では刑事さん、その録音機を聞かせてくれませんか。あなたのいうとおり、藤岡さんとやらが何といっているのか気になりますよ」

「想像するに、その録音機、ただのゴミかオシャカになってるんじゃありませんかね」

 柘植は二人に手の届く距離で立ち止まった。こうやってまじまじと二人を見やり、穴のあくほど凝視する。その間、南明たちは軽やかに笑む。対照的に柘植の横顔は、往年の劣化で醜くも疲れ果てていた。屍体までの道のりは、あとどれだけ遺っているのだろうか、と。

「おまえたちは誰だ」

 つぶやく柘植が、肩に担いでいた荷物からは、泥水が絶え間なく滴っているのであった。


                    了 

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