第26話
二十六
北村も、あと少しで舗装道に下りるというとき、右手前方に白い建築物が視界に入った。その
木梨川の支流が氾濫して、駐車場は表裏とも泥流が覆っていた。乗り捨てられた自動車が二台ほど、落石のようにも見えたが、南明の姿がさっきから見えてこないのだ。結局、体育館めざして歩く北村だが、あきれるほどその足取りは怖気ていた。南明がそばにいないだけで、病魔に慄く老爺そのものだ。
──どこだ。逃げたのかよ……。
危なげな黒い雲が、突如と山をまたいで頭をもたげてきた。濃密な大気の気配もする。このままいけば、間違いなく、またぞろ線状降水帯の洗礼をうけるやもしれない。
北村の気が急いた。そのとき、杉の森の中より人声がした。振り向くと、近くの杉木の木陰に、白い人影がこちらを見ている。南明だと思ったが、背格好があきらかに違う。そちらへ一歩踏み出すと、とたんに周囲は暗くなり、バラバラと雨音が森をざわつかせた。
とうとう
人影はうつむいているが、やはり人違いだ。殺された部下の藤岡だった。部下の怨念が鈍感な上司に気づいてもらいたくて、そこにそうっと佇んでいるのだ。
「どうした。死んだ奴は他に行く所があったんじゃなかったのか」
藤岡は戸惑いながらも、ちさいく首を振る。そして、きっちりと体育館のほうを指さすのだった。
そのとき、ガサッと草むらに動きがあった。
藤岡の姿が消え失せ、入れ替わって南明が彫像のようにヒタリと立っていた。見た瞬間、北村のうらぶれた表情に光が差し、木の陰の南明めがけて駆けだした。
南明は神妙になっていた。藤岡と同様に、息つまる
北村も南明と並んで、ぐいっと体育館を睨みすえた。だが、そこで北村は、新たに己が身体の異変に気づいた。視界がただごとではなかったのだ。
いくら瞬きして、目蓋をこすって、目を凝らしても、体育館はどんどん矮小化していくばかりで、こわいほどに未体験なのだった。彼が、近眼と老眼、そして強度の乱視の混ぜこぜの視力といっても、あまりにもその見え方の変化には呆然とするばかりだ。
「なんだ爺ィ。目も悪いのか」
またもや南明が監察医のように指摘してきた。北村はかぶりを振る。
「なんか変だ。見えてるもんがおかしい」
「そのメガネのせいじゃねえのか」南明が面倒くさそうに言った。
言われて北村は掛けていたロイド眼鏡を顔面からむしり取った。
「──ゔっ」
さっきよりは、多少見やすくなったようだが、おかしいのに変わりはない。いや、見やすくなった分、より小さく圧縮されていた。さながらガラス細工のようなのだ。世界はどこもかしこも、ギラギラとして見にくい。だが、焦点を意識的に
ゴクリと唾を嚥下する北村。
つまり今の北村の世界は、意識のありようで、何処でも鮮明な像を結ぶことが可能ということらしい。ちなみに、その視力で体育館の周辺をさらうと、道路側の駐車場が欠けているのがわかった。いや舗装道路そのものも一部が削り取られているのも判然とした。
体育館は林に囲まれており、その向こうには、木梨川が蛇行して迫っていたはずだ。あの濁流の地獄の鬼川と化した木梨川の猛威が、そのまま拡大しているのであれば、いや、きっと拡大したからこそ、道路も体育館も、敷地もろとも呑みこまれたのであろう。
「不破なのか?」
北村が訊くと、ゆっくり南明がうなずいた。
「だがパトカーがないぞ。ほんとうにいるのか」
「でも……」
南明のひとさし指は、体育館の裏手を示していした。
なるほど、今はもう泥川に沈んだ駐車場に、パトカーは停めてあったということか。
いつのまにか目蓋を打つ雨が痛い。改めてその方向に目を凝らすと、体育館のへしゃげた屋根が、もう縦半分に裂けそうになっているのがわかった。もうこれ以上の接近はあらめたほういい。よしんばあそこに不破がいたとしても、いっそのこと、体育館ともども押しつぶれて、木梨川に呑み込まれてしまえば、後腐れなくさっぱりする。あえてリスクを犯す必要性もない。
いや──。
北村はそのとき、鋭い南明の視線の意味を知った。
──いや、逆襲だ。不意打ちだ。不破は、背後から流れ込んでくる泥流から逃れようと外へ出てくるはずだ。避難して透きができたところを、二本の包丁でメッタ突きに刺しまくるんだ。たとえ羆なみの体力があろうとも、奴を仕留めることができる。だからこそ南明は、きっとそれを図って身を隠していたんだ……いや、いや違うな。もっと、なんていうか根本的に違う。なにかが違うんだ。なにを──。
すると南明がチラリと北村を横目で見て、
「俺か? 考えてなんかいねえさ。見ているだけだ、あいつをな」と体育館を顎で示して、ひとつうなずいた。「そのうち動き出すさ。もう少し待てば、そのうちもっと体育館は崩れる。そうしたら出口が限られてくる。それにあそこは電気は来てないんだろう?」
北村の裸眼ですばやく屋舎のすみずみを走査した。基本的には漏電のおそれはあるが、事務所とトイレのそばの非常灯は生きている。点けていないだけで、送配電は無事なのかもしれない。
「いまさら灯りをつけてどうするんだ」
「暗いのっていやじゃんか」
そう喋っているあいだも、体育館は背筋に寒気が走る奇声をあげながら、天頂部分から裂けはじめていた。どうんっどうんっと裏の駐車場に轟音が響いた。木梨川の濁流が、山崩れで倒れた杉の若木を巻き込んできたのだ。流木の体当たりで地響きがするたびに、体育館は悲鳴をあげた。
体育館には正面玄関と裏口がある。裏口は、駐車場共々ほぼ削り取られたので、残るところは関係者用の搬入口だけだ。なんのために不破がここに隠れているのか見当もつかないが、二人は機を診て、水浸しの正面玄関へ、まずは位置を変えることにした。
北村の記憶では正面玄関は施錠されていない。搬入口は鍵が必要だ。となるとほぼ不破が現われる所とすれば正面玄関になる。
その予想が的中したようだった。二人が、正面玄関の脇にあるロッカー室に身を潜めると同時に、奥の方から、荒々しく水しぶきをあげて接近してくる人影がいた。
南明から渡された出刃包丁を、右手から左手、そして両手と握りなおして、北村は耳を澄ました。もし人影が外に現れたら、
北村は、ちらりと南明の様子を窺った。彼女はすでに包丁を低く構えていた。となれば、
ひときわ大きな水しぶきの音が、玄関のすぐ傍で響いた。
出てくるぞ! 北村は下唇を噛む。
玄関の三和土あたりで、バシャバシャとよろける
もう待てない。先手必勝だ!
人影がふらつく足取りで、今まさに玄関から出ようとしたとき、北村はロッカー室から飛び出した。人影は前かがみになっていたが、北村の出現で振り返った。
確かに足元は泥流でおぼつかなかった。ぬめるところを奇声をあげて、北村は人影めがけて突進した。その勢いと、汗と、雨とでヘッドライトの位置がずれ、あらぬ方向が照らされた。壁に貼られた体育祭のポスターだ。女子の笑顔が闇に浮かんだのだ。
人影は北村ではなく、条件反射的に女子の笑顔に気を取られ、そちらへフラッシュライトを振り向けた。そのときすでに北村は、振り上げた包丁をライトめがけて振り下ろしていた。
ずんっと嫌な手応えだった。
「ナンミョウ!」
北村は裏返った怒声で追撃を命じた。
だが、どうしたことか、南明の追撃はなかった。低く構えたまま、じっと人影を見据えているだけであった。
「なっ、なんすんだぁぁあ!」
突如として人影が奇声をあげた。その一声で、人違いだと北村は察した。黒い人影は右肩のあたりを左手で
「貴様あ! 公務執行妨害および傷害罪の現行犯で逮捕だ!」
人影の叫び声が、北村にはなんのことか理解できなかった。だが、次の瞬間、とっさに向けたヘッドライトの光の輪の中に、
〝TOKAI-POLICE〟
の蛍光色の文字が、見て取れたのだった。
警官は、北村が刃向かってこないと見たのか、包丁を奪おうと一歩踏みこんできた。だが足元が滑り、ぐらりと傾いた。なんとか転倒を免れたが、再び北村へ立ち向かおうとする。次の瞬間、ググゥと奇妙な声を漏らして、警官はその場に
南明がそこに立っていた。両手で握った出刃包丁が、警官の持っているフラッシュライトに下から照らされ、毒々しく深紅に光っていた。
「おまえたちは……なにするか!」
警官は船戸巡査であった。二度の斬撃に命の危険を察して、肩口の無線マイクを摑んだ。
「佳恵、佳恵、俺だ。今、体育館にいる。暴漢に襲われた。刺されたらしい。本部に応援を要請してくれ。助けてくれェー」
だが、ハンマーでひしゃげた無線機が応答するはずがない。
その南明が船戸巡査の真後ろにしゃがむと、出刃包丁を握り直し、事もなげに頸動脈を断ち切った。
「ふっぅ」
ブシャと短く重吹く音は、雨音に掻き消えた。
軽く一仕事といった余韻で、南明が苦笑いを見せた。それと対照的なのが北村だ。半開きの口に、輝きの失せた瞳。思考力が砕け散ってしまったようだった。あきらかに心神喪失状態に陥ったのだ。
ひくっひくっと痙攣していた船戸巡査の肉体が、そうっと静かになった。南明は、まだ斬撃に飽き足らないのか、留めとばかり、出刃包丁の切っ先で心臓めがけて突き刺した。と同時に、南明は恍惚の表情をうかべた。とろんと溶けかかった、腐りかけの両眼が、悩ましくも艶やかに北村を見つめる。あのときのエクスタシィに濡れた肉体が、様々に変容しては、北村の脳裏をフラッシュしていくのだ。
だが、その奇怪な南明の艶姿に魅入ってしまう北村の股間が熱く、そして疼きだした──。
「やっぱりおまえの仕事に手抜きはねえか」
突如として、あらたな声が闇の奥くで轟いた。金属的で異様な胴間声だった。ピクッピクッと北村の頬が反射的に痙攣した。むおぅと悪臭が漂ってきた。確かめるまでもなく、これが不破だった。
すぐさま南明が出刃包丁を構え直し、船田巡査の屍体が握っていたフラッシュライトを拾うと、玄関通路の奥を照らした。だが一方の北村は、ぼんやりとして
狂乱の木梨川の濁流にしてもそうだ。不破の足元を掬おうと背後から押しよせているが、不破は、まるで気にもしていない顔つきなのだ。むしろ心地よく蹴散らしているようでもあった。
その禍々しい巨漢が、一歩一歩と進むにつれて、北村の双眸はギリッギリッと大きく見開かれていった。不破が両肩に、なにやら担いでいるのがわかったのだ。足を運ぶたびに、それらはぶらんぶらんと重々しく左右に揺れていた。
そのとき、南明の小鼻がヒクついて、冷たく
「──それって、行方不明の中学生たちよね。あんた、一体どんだけ屍体をかき集めれば気がすむのさ」
それを聞いて不破の足が止まった。フラッシュライトの眩しさに顔を背け、目を細めた。
「シ・ン・ガ・イ……って言うんだろう、それ」
実際に不破は、南明の言葉に意外性を感じたふうだった。
「やりすぎなんだよ。わかる?」
と鼻筋に嫌悪の皺を寄せて南明は、足元に横たわる船戸の遺体を
「それはオ・タ・ガ・イ・サ・マかな」
ペッと唾を吐き捨てて、不破は再び歩き出した。さきほどの悠然とした足取りではなく、焦りさえ窺わせる速さだった。だが南明の狙い撃ちしてくるフラッシュライトが、やはり気障りらしい。躱すために、はげしく首を横に振る。
「その骸はどうするんだ。我にくれるのか?」南明が、からかうように言った。
「──もう、たらふく呑んだんじゃねえのかいっ」光線を避けて、とうとう不破はあっちの方をむいていた。
「まだだよ。果てはないね」
ジャボッ、ジャボッ、と不破の撥ね上げる水飛沫が、すぐ近くまで飛んできた。
南明が、おもむろに
暗がりの中で、不破はフラッシュライトを照射されているため、南明たちの様子は逆光で見にくい。そのうえ相棒のはずの南明の態度がおかしいい。経験的に、この間合いは、獲物を狩るときのものだったはずだ。これは何かある。不破が警戒するのは当然なのかもしれない。
距離にしてもう四、五メートルあるだろうか。だしぬけに不破の動作が機敏になった。と同時に、南明も電光石火の動きを見せる。投光器を抱きかかえると、どういうつもりか本体ごと不破へと投げつけたのだ。
投光器はスイッチが入ってなければ、ただの鉄の函だ。まして不破に当たらずに、下駄箱の天井で一度バウンドすると、そのまま廊下めがけて落ちていこうとする。──どうも南明はそこが狙いだったらしい。
つかんでいた投光器の電源コードを引っ張ると、投光器は、むき出しの鉄パイプにコードが絡まり、中空で宙ぶらりんとなった。その後南明は、背にしていた鉄扉の把手に、電源コードを巻きつけ固定した。すると、投光器は重心の偏りで次第にくるりくるりと自転をはじめるのだった。
南明の策が読めない不破は、投光器をどうしたものか考えあぐねていた。だがこれはまずいとばかり、電源コードをつかんで本体を引き寄せようとした。
破壊するつもりだな──北村は、それを阻止しようと投光器のコンセントを探す。だが、この危機的な状況で、すぐに見つかるはずもないが、裸眼の覚醒を得た北村には見えたのだ。ほんの一メートルも離れていない、すぐそこだ。フラッシライトで示してやると、南明は素早くプラグをコンセントに差しこんだ。
だが、投光器がただの函になってることが判明しただけだった。
当然だが、体育館がこの状態で、送配電が正常はありえないことだろう。天も見離したのだ。しかし不破は、そんなことはお構いなし。とうとう両腕で投光器を抱えこむと、光らぬライトバルブに手を伸ばし、破壊にとりかかった。まさにその瞬間だ。一万ルーメンもの光量が不破の面前で炸裂したのだった。
思わず不破は投光器を手放し、呻き声をもらして目を押さえた。自由の身となった投光器は再び自転をはじめ、からかうように、光の鞭が、不破を幾度も幾度も打ちすえた。
不破は光を浴びるたびに、全身を慄かせ、
そのすぐ横で、不破の光景を見ながら、呆然としてる北村の頬を張り倒した。それでももたついているところを今度は蹴りだ。
北村は二度目の蹴りで鼻血を派手に流し、げおっと何やら嘔吐した。少しは正気づいたのか。だが正気に戻ると、正気の分だけ怖気た。ガクガクと顎が震え出し、ぶるぶると両手も震え、とても戦力にはならない。そこで南明が再度平手で頬をひっぱたく。
「これを使うんだよ!」
と手渡されたのは、ずしりと重い金属製の機器だった。
それこそ、不破が欲しがっていた、警察官の拳銃ニューナンブM60だった。
「おおいっ、それはどういうことだ! ええっ」
怒気に咽ぶ不破の声が走った。目くらましを食らっても、南明たち二人の魂胆は見抜いているようだ。
「そいでズドンッとやっておくれ。男ならできるんだろう」
南明が発破をかけた。今の北村ならば裸眼でも充分だろうが、視力で銃を撃つわけではない。生まれて初めて握る拳銃は、グリップが思ったより滑り、不安定なのだ。そもそも拳銃のどこをどうすればいいのか、よくドラマや映画でやってる安全装置だけはわかったが、銃弾が装填されているのかさえ北村にはわからなかった。
「おまえのほうが性に合ってるんじゃないのか」
いつもの他力本願の北村の言葉だった。
「そんなこと言ってると、あいつに首玉もキンタマも引っこ抜かれるぜ」
そのときだ──。不破のあしもとで水飛沫があがったかと思うと、投光器が、やはりクルクル旋回しながら飛んできたのだ。
ギョッとして北村が次の攻撃に身構えた。
だが、そのときはすでに、別の重量感のある物体が、玄関の縁に落ちた後だった。
そのわずかな時間、不破が投げたのものは投光器だけではなかったのだ。黒っぽいものが
玄関の外は薄墨色のモノトーンだが、それでも体育館の中とは違って、その投げつけられた物体は見分けがついた。不破が担いでいた中学生の屍体だった。すべての関節をぐにゃぐにゃに曲げて、屍体に投光器を無理に抱かせたのだ。
「いいか、おれがこいつで、あいつの目玉を見えなくする。そんときにぶっ放すんだ。いいなっ!」
なにがなんだがもう、北村の理解の域を超えていた。子供の屍体をぶん投げてくる化物。そいつに向かって、殺した警官から奪った拳銃を撃てなどと、こいつはもうふざけすぎた演出だ。かえって笑えてくる。と理性が非現実感をなだめていたが、そこへまた不破の奇声とともに、ぶんっと物体が飛ぶ音が急接近してきた。今度は投光器がないぶん、遠く玄関先まで飛んできた。
やはり中学生男子の屍体だった。水しぶきをあげて落ちると、ぐしゃりと半分に折れて、ちょうど顔面が北村の方を向いた。そこには白濁した目玉と、眼球の抜けた眼窩が並んでいた。屍体の右腕は、根元から外れかかっていたが、皮一枚で繋がっていた。肩口に突き出ている白いものは骨だろう。もぎ取られたときに引きずり出された神経や上動脈血管の束が荒縄のように束ねてあった。ご丁寧に、不破がやったのだ。
そこで北村は、南明が、いつか言っていた、不破についての言葉が脳裏を過ぎった。
──よっく聞いておくれ。いいかい、不破さんには特別な力があるんだよ。行方不明になった被災者たちがどこにいるのかわかるんだ、凄いだろう。土砂に埋もれていようが家の下敷きになっていようが、橋桁に挟まれていようが、不破さんはすぐに感じ取るんだよ。なあっ、不破さん。そしてここが肝心なとこだ。生きている間に助け出すのさ、彼は……
ということは、あいつが発見したときは、この男の子たちはまだ生きていたというのか?
そのとき、得も言われぬ感情が、北村の内部に生まれた。今まで繰り返してきた
「どうして? なんで……奴は、まだ生きている人を見つけては殺しつづけているんだ」
誰に向かって問うているのか、北村はつぶやいた。精神的にも肉体的にも、今にも事切れそうな雰囲気だが、南明には何が見えるというのか、鼻で笑っていた。
「それよか、自分の首っ玉がなくならないよう気をつけな」
言いながら、南明は投げ返された投光器の電源をリセットした。改めてその手つきや扱い方を見ていると、神に入っていて外連味がないのがわかってきた。やはり底知れぬ謎の女だ。
ブウオンっと投光器はペットのように身震いで挨拶した。投光器は充電器も併用できるのだ。そしてバッテリーの残存量は五分足らずだった。
「──クッソ、それもこれも計算づくなんかよ」
「結果は結果だ。仕組める奴はこの世にいない」
南明は、電源スイッチをマックスで入れた。
体育館の玄関先だけが一瞬間、真昼となった。
頑是ない幼児のように、北村は何回めかの悲鳴をあげた。間髪を容れずに、その顔めがけて南明のビンタが炸裂する。またぞろ北村の臆病風を殺したかったのだろう。止まっていた鼻血が二筋、どろりと流れだし、おもわず手の甲で拭こうとした弾みに、拳銃がすべって泥水の中に落ちた。
泥流は木梨川が氾濫したものだ。体育館の背後からアスファルト道を削り、呑み込んできた濁流だ。だがここは拳銃を押し流すほどのではない。拾おうと北村が泥水に手を突っ込んだが、砂利だの小石ばかりで何も触れない。
──拳銃なしに不破に勝てるはずがねえんぞ!
周囲の泥水を、すべて掻きだそうと必死の北村だが、
そこへまたもや雨の中を屍体が飛翔してくると、天までとどく飛沫をあげて、中学生の男子が、壊れたマネキン人形のようにバウンドした。それが幸いしたのか、横たわる男子の遺体が、泥水を堰き止める格好となり、そこに拳銃のシルエットを北村は見てとる。
男子の脇の下だ。北村は飛びつくようにして拳銃をつかんだ。すぐに構えようとグリップを握った。すると、北村の足元で何かが動く気配がした。見間違いかとライトを向けたがわからない。流れてきた倒木か何かを見間違ったのだろうか。深夜の降りしきる雨の中、泥流に四つん這いとなって
息を止めて北村は
すると──、
「南明! そいつはまだ生きているからな。おれからのプ・レ・ゼ・ン・トだ、受け取れ」
どういう意味なのか、とっさに北村は推し量ることができなかった。〝そいつ〟とは俺のことか? 南明のことか? 不破の言葉を確かめるべく、まさか……と思いつつも、投げ飛ばされた中学男子に向かって声をかけた。
「おおい、君。大丈夫なのかね。生きているのかね」
間抜けな問いだが、わかりやすい。実際、男子は生きていたから、痙攣しながらも、うなずいたのであった。
うんざりするほど屍体を見てきた北村が、どこか〝死〟に対して不感になってしまったようだった。そのため、逆に生命が、動くことの驚異のほうが怖いくらいに感じたのだった。
なんであれこの子は助けなければ。北村は男子生徒の横に両膝をつき、抱きあげた。中学生の男子ともなると、五十キロは超える。この重さを古雑誌のように投げつけてくるとは、今さらながら不破の異常度は想像を超えるものがある。北村は抱えきれず、ベシャンと尻餅をつくのがせいぜいで、とにかく、身体のどこかに異常はないのかと、ただ触りまくるのだった。
男子の呼吸がひどく弱いことがわかり、まずは顔にべったり張りつく頭髪を掻き分けた。北村のヘッドライトが男子の顔を照らすと、目蓋に反射反応が見受けられた。体温はひどく下がってはいるものの、不破のいうとおり「生きている」のだった。
男子の衣服の胸ポケットに〝名峰市立中学校〟の名入れがあった。
それを見た瞬間、北村の脳裏に記憶が一閃した。
闇の駐車場に数台の自転車だ。北村はそのうちの一台を拝借して乗り回していたが、思えばあのとき、不破と南明も体育館にいたのだ。全裸になって、半狂乱の濡場を繰り広げていたのだ。きっとそのとき、中学生たちは、まだ体育館のどこかで生きていたのに違いない。こんな姿にされるとは思いもせず、少年らしく、ただ救助の手を待ち望んでいたのに違いない。
北村には一粒種の長男がいる。翔馬だ。子煩悩でもなければイクメンでもない北村が、中学男子を抱きしめると、何がどう繋がったのか、うちの子は……いったい何歳になったのだろうとふと思った。唐突で場違いな感傷で、目頭が発火したように熱くなり、ぎゅいと男子を抱き上げ、その子の顔をもっと見ようと、投光器のそばへひきずりはじめた。翔馬より年下のはずだが、もう薄っすら顎には髭が生えていた。毛深い質なのか、まつ毛も眉毛も黒々として多い。それに較べて翔馬は、のっぺりとした京人形のようだった。母親似だった。
──ど、どうして過去形なんだ!
北村はハッとした。まだいるぞ。他の子はどうなのだ、と。向きを変える間もなく、ぶうううんっ、と投光器が唸りを上げだした。えげつない光量だ。それを南明は、不破の真正面に置いて角度を調整する。するとどうだ、肩の上に、あと一体の屍体を抱えていた不破が、とたんに苦しそうに顔を歪め、投光器から顔をそむけたのだ。よほど投光器の光が苦手なのに違いない。それとも、他に意味が秘められているというのか。
かすかに北村も、過度の緊張のせいか、腹の底に鈍い痛み覚えた。皮膚もちりちりとして違和感がしてきたのだった。
──さっきからか? 今思えばもっとまえからか。
そのとき、男子を抱えていた北村の腕が、想像を超えてずしっと重くなった。慌てて男子の様子を見ると、そこには、南明が半裸となって覆いかぶさっていたのであった。
「なんだァ!」
悲鳴のような声で北村が小さく叫ぶ。その顔を下から南明が引っ叩いた。
「見ていんじゃねえよ!」
いや、北村は見ないではおられなかった。投光器の恐ろしいほどの光量はなんとか対処できようが、南明が一体何をしようとしているのか、そちらの方が心を惹きつけるのだ。それは不気味な音のせいでもあった。南明は男子に覆い被さりながら、しきりとグビッ、グビッと
絞め殺している。南明はこの子を殺そうとしている!
「ひぃー」
と男子が仰け反って悲鳴をあげた。すでに男子の身体はチアノーゼと痙攣がはじまっていた。では南明はなにを呑み下しているのか、北村には見えなかった。ただ反射的に南明の蜘蛛の手を外そうと必死だった。喰い込む南明の指先を、むんずと握りしめ、引っこ抜こうと声を張り上げた。すると、
「おまえにはあとでご褒美があるんだ、うっざいことするな」
南明の地を這う声が、そのまま北村の背中に飛び火した。すると、吐き気を伴う悪寒が心の臓まで凍みてきた。とたんに咽喉がぺしゃんと潰れ、吸っても吸っても空気が入ってこない。あえぎあえぎ、目を白黒させて、空を摑み、胸を掻き毟る──。
自分が死ぬような状況に陥ると、もう他はどうでもよくなってくるものか、人というものは。
北村は、とうに中学生の命を手放していた。南明には何一つとして抗うことはできない自身の不甲斐なさを悔やむが、実際は、生贄として捧げてしまえばよいという
北村の等閑さを認めると、すかさず南明は男子にまたがり、むさぼるようにして、再び何かを呑みはじめた。
──いや、まだ。いまなら。やめさせなければ。この子の命を救わなければ。この子から手を離せ。南明! その子を返せ。
そう叫んでいたはずだった。南明の腕を摑んでいたはずだった。男子を取り戻して、胸に抱きしめていたはずだった。
無情にも、すべては幻影であり幻覚であった。
実際の北村が行ったことは。哀れにも傍観それのみなのであった。
何秒間そうしていたのか、北村のいつもの冷めきった精神も凍結されていた。
ほらよ、と南明がわたしてきた中学生の男子は、丸められた絨毯のように成り果てていた。もう命の温もりや尊厳さもない。ついさっきまでの男子とは思えなかった。こんなに軽くなっちまうのかと、これほど冷たく固まってしまうのかと、北村は幾度か揺すっていたが、大きく見開いた、男子の瞼の中には、もう生命の片鱗も存在していなかった。
「実際、あんたらは命と肉体の関係を知らなすぎる。無知すぎるぜ」
南明が見下すように言った。それでも北村は無反応だった。ケッと唾を吐きかけ、南明は北村が抱きしめている男子の胸ぐらをつかむと、毛布のように、片手で脇へ投げ捨てた。
そこへまたもや、体育館の奥から屍体がぶっ飛んできた。また玄関先にでもバウンドするかと思いきや、それは中空で二つに分かれ、いや、三つ、いや四つだ。不破は四つの物体を一まとめにして投じたのだ。
一つ目は避けきれずに、北村の背中に命中した。ごとごとごとごと、と円を描いて転がる物体は、男子生徒の腕だった。
二つ目は南明の肩口に当たり、これは脚だった。そして三つめを南明が躱しているところへ四つめが飛来し、これが投光器を直撃した。光が失せる直前に、その物体は男子の頭部だとわかった。眼窩に眼球はすでになく、後頭部もおおきくえぐれていた。ひどい有様だった。
これで、不破は身軽になったことになる。そのうえ投光器の矢のような光もない。体育館の廊下から玄関までは二十メートル足らず。この短距離を不破という化物は、どんな速度で突進してくるというのだ。北村は防備より遁走だけを考えた。拳銃と二本の包丁があったというのに、もう北村には闘気なぞ微塵も残っていなかった。一時は南明と共謀し、不破を亡き者とするはずだった。それがどうだ、次から次へと矢継ぎ早に屍体を見せられると、戦わずして、すべての武器を投げ捨て、負け犬にみずから志願したようではないか。
気づくと北村は、玄関からアスファルト道路を横断し、一度として振り返ることもなく、ふたたび杉の山の奥深く潜りこんでいた。その哀れな後ろ姿は、いかにも北村らしい。彼にしてみれば、とにかく千堂医院か役場に転がり込めれば、それだけで勝者になったつもりなのだ。柘植が警察無線で話していたとおり、朝一番で県警のヘリコプターは捜査に来るだろう。自衛隊の災害派遣隊も、あながちありえるかもしれない。そうなれば、南明と不破の殺人鬼二人組は、遠からずして身柄は確保されるに違いないのだ。
そんな姑息なことを考えていると、体育館のほうで、パンッ、パンッと
──あの二人が殺し合いになれば、致命傷のひとつやふたつはあたりまえだろう、それも相撃ちにでもなれば、共倒れの可能性も出てくる。結局、あいつらはバケモノのキチガイで、そのうえただのバカかもな。だったらこんなとこで悲観的にならなくてもよかったんじゃねえか。
そこで北村は、薮の中に、すっくと立ち上がった。つい今しがたまで、裏山を迂回して役場を目指そうと考えていたが、この状況なら話はかわる。そう、もし二人が北村の考えたとおりに共倒れにでもなっていれば、山越えなんぞせぬとも、体育館を突き抜けて、そのまま市道を行けば、千堂医院にたどり着けるのだ。
ずりずりと粘土質の山肌を尻っぺたで滑り下り、体育館の正面玄関から目を離さずに、まずは手前に見える物置小屋へ駆け寄った。
体育館は森閑に包まれていた。息を殺しているように感じた。確かに、たった今、背後の薮から不破が襲いかかって来ぬとも限らないのだ。静寂こそが魔の気配だろう。
ここからでは決壊した木梨川からの流木や廃棄物などが邪魔をして、正面玄関の周囲に禍々しいものは認められない。それとともに玄関も含めて、体育館は内部の様子も調べておく必要があると考え、北村は、へっぴりごしとなって、泥水の覆う駐車場を突っ切ることにした。
ときおり灰色の雲間から清浄な朝日が差しこみ、大自然が繰り広げる圧倒的な災害風景を見せつけていた。が、北村の心がなごむ瞬間はなかった。玄関先に中学生たちの遺体の一部分や、殉職者にしては無惨すぎる船田巡査のご遺体が見当たらないのだ。
雨空がふわっと明るさを増してきた。本格的に天気は恢復してくるようだ。
その明るくなった玄関先、そしてその周囲にも、禍々しい物体は見当たらなかった。
──あいつらが片付けたのか。
だが、どこへ?
北村は体育館の玄関の奥を見つめた。
あたりまえすぎるが、奴らはそれなりに知恵を働かす。でなければ、とうに刑務所、いや死刑台の世話になっているはずだ。しかし、玄関に踏みこもうとした北村の足が止まり、ついで体育館の裏手へ延びるアスファルト道路に方向を変え、そして走り出した。
道路のカーブを右側へ回り込むと、左手から濁流の逆巻きたてる轟音が、地響きを伴わせて押し迫ってきた。これだ。これに違いない。
山あいに反響するほど、木梨川の決壊地点からの放水量が凄まじかった。
体育館は木梨川の形成した三角州を利用して建てられている。川上で削り取った地面を、ちょうどこの山間のぶつかり合う地形に堆積させて形成したものだ。ゆえに木梨川の水量が極度に増せば、駐車場がまっさきに削剥され、川底はむなしくえぐられて、その深さは増していくのだ。
もう駐車場の半分は呑み込まれ、跡形無い。
怖さ見たさに、北村が、ちらりとその状況に目をやった。あの駐在所の裏手もこうだった。赤茶色した濁流が棍棒のようになって、削りとられて出来た崖を打ち据えていた。あそこへ屍体を捨てれば、その後に発見されたとしても、監察医がどこまで事実を解明できるか疑問だ。行方不明者のリストと照合し、この肉片はおそらく……と推定するていどではなかろうか。
きっと前方の山を、今度は左に回り込むと、視界は広がり、千堂医院が見えてくるはずだ。ぜえぜえと走りながら、北村は、今後の身の処し方を考えた。ほとんど南明と不破に脅迫された結果だと言い張れば、すべて不起訴になる、と安易に片付けた。それより、ともかく千堂医院に辿り着くことだ。これなしには、自分の人生はない。
もうすっかり雨雲は去り、天空は久々の蒼穹で目に痛い。
杉の木の向こうから聞こえて来たのは、軽快に走る自動車のエンジン音と、土木重機があげる猛獣じみた駆動音だ。草薙町長は体調はよくなったのだろうか。町長が陣頭指揮をとれば、朝一番で、災害現場へ重機の出動はありえる。
もう振り返っても視界に体育館はない。これで自分はゴールだ。心持ち歩速をあげると、穴の開いている長靴がゲコッゲコッと賞賛して鳴いた。
電線と電信柱が、杉林を透いて見える。とたんに山間から抜け出た感があった。
杉の木がまばらになり、まずは赤色の信号機が現れた。青になると、横切る道には自動車や自転車などが往き来し、住宅や商店などが次々と立ち並んだ。見覚えのある看板と標識。あとすこしで千堂医院があるはずだ。
まるで自分の実家に帰ってきた安堵感があった。
千堂医院だ。
玄関先には横付けした自動車から、今まさに、患者さんらしき老爺を介助する男性の背中が見えた。つぎつぎと徐行運転の車が敷地内に現れ、停車できそうな場所を懸命に探している。朝まだきのなか、救いをもとめて、町民たちはすでに医院に押しかけているのであった。
北村も似たようなものだった。救われたい気持ちでいっぱいであった。そこに油断も入り込む。不意にワゴン車が、あわやの近さで鼻先を突き出してきたのだ。北村は、ヒッと一歩引き退り、歩道から車道へ逃げるように踏み出た。
その姿を別の車のフロントライトが掠った。呼応するように、車は進路変更した。するすると速度を落として徐行のまま接近してくる。
人違いでありますように。故意に振り向かないで歩いていると、小さくプップッとクラクションを打たれた。無視するのはもう不自然すぎる。北村はゆっくりと振り向いた。
満面のこぼれんばかりの笑みがそこにあった。副町長の筧と消防団員の食えない顔した本田だった。二人は、ようやく本格的な救助活動や復旧活動ができるぞといった、勇躍に満ちた顔をしていた。市役所や県庁の災害対策本部との連繋役を北村に見たのであろう、気概すら汲みとれた。
「ご苦労様です。お疲れ様です」
窓を全開にして本田と筧が声を揃えた。とそこで北村は後部座席に他にも誰かが乗っていることに気づいた。
「町立体育館のすぐ横で、運良くこちらの方に出会いましてね。まずは北村さんに会いとおっしゃっていたんですよ。こんなときですから、なかなか見つかるかどうかと心配していたんですが、よかったですよ」
体育館?
あの悪臭が漂ってきたのだった。
北村はあえて後部座席を無視して、そのまま千堂医院へ駆け込もうと思った。だが、その腕を車の中から伸びてきた手がつかんだ。
「乗って行きましょうよ。ちょっとお話があるのでねえ」
南明はガッツリと凹んだ投光器を大事そうに胸に抱いていた。
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