第25話

               二十五

                

 ようやく山裾を横切っている道路が目視できた。さっきまでの農道とは違う舗装道路だ。

 道路の状態を車内から確認すると、あちらこちらで、小規模な冠水が発生していた。それでもエンストしそうな水量には見えない。少しばかり遠回りになってしまったが、まだいける。北村は段差を考慮して、ふかし気味に燃料をエンジンに食わせた。

 ぐんっとアスファルト道路に前輪が乗り上げ、ついで後輪がつづいて登り切る。そのはずだった。

 その瞬間。

 地球か、太陽か、車か、それとも北村か、そのどれかが斜めに傾いたのだ。

 反射的に北村はハンドルを逆に切った。それでアクセルを踏んでやればいけると思った。だが違っていた。ただのスリップならば、それで良かったのかもしれないが、その揺れは震災の余震だったのである。

 スズキの軽は後輪が半分水に浸かった状態で、左側にハンドルをきって登ろうとしていた。そこへ横揺れが襲ってきて、後退しそうになった。すぐに右側にハンドルを切って、アクセルを踏んであげたが、強烈な横揺れで、タイヤが空に浮き上がり、一気にバランスが崩れたのだった。

 あっと言う間もなく、車は田圃へと横転した。

 助手席の南明が巧みに這い出ると、泥だらけの北村を野ブタのように引っ張りだした。

 苦り切って北村は車の腹底を睨んだ。何箇所か凹んでいるが、元に戻せば走るかもしれない。あと一人いれば……と南明に声をかけようと振り向いたが、もうそこにはいなかった。アスファルト道路の前後にもいなかった。足音は林立する杉の向こう側だ。声をかけても返事はない。駆け寄って南明の肩口をつかむと、力一杯に跳ね飛ばされた。

「この丘を突っ切るよ。どうだ、違うか!」

 へたりこんだ北村を上から睨みつけて、今にも齧りつきそうな恐ろしげな気配だ。

 言われて頭の中の地図で確かめると、そう、そこに千堂医院がある。

 山道などないが、アスファルト道をそのまま歩けば、小一時間はかかるだろう。山越えならば半分とはいかなくても、三分の二程度で到着できる。四の五の言ってもはじまらないのだ。ふらつく足は、とうに他人のものになっているはずだが、今の北村は、不思議と足腰が力強く応えた。

 自分は地図を見てある程度の地形は掴んでいるが、南明もまたそうなのだろうか。体力の凄さは経験ずみだが、なかなかどうしてどうして、頭の中身も予断できないぞと北村は考えを改めた。背後から見ていると、南明の動きは、杉の間をバランスよく足を差していく感じだ。すいっすいっと下生えの下の地面を捉え、踏ん張って身体を引き上げる。見事なものだ。と、そのとき、南明が振りかえった。

 目が合った瞬間、北村は目線を外した。

「あ、ちょっと待ってくれ。先に行ってていいぞ」

 南明は言うが早いか、北村の脇をすり抜けて、下生えを蹴散らしアスファルト道まで降りた。なにをするのかと見ていると、腰を半分に折り、スズキの軽のなかに頭を突っ込んだ。腰を伸ばした時には、あの工事現場用のライトが胸元にぶら下がっていた。

「ライトがあいつの恋人か」

 南明を待っている意味はない。すぐに追い越されるはずだ。北村は先に登り始めた。

 

 山の中腹にさしかかったところで、またもや空模様が怪しくなってきた。このまま直線で山を踏破できれば都合がいいが、斜面の勾配は想像以上にきつくなっているようだ。もし雨でも降られたら、滑落しかねない。怪我を免れても体力の消耗は絶大だ。コースは変更したほうがいいが、いったいどっちの方角が最適なのかわからない。北村は呼吸を整えて言った。

「ちょっと待て。一直線に進んで千堂医院に着かなくても、結果オーライならそれでいいんじゃねえか?」

「どういうことだ」

 南明が乱暴に聞き返した。

「あそこ、右手の麓のほうだ」北村が左手前方を指差して言った。「……舗装道路が見えるだろ。あれは千堂医院から北三村へ繋がっている道だ。あそこに降りれば……どっちに行くにしても、ここを踏破するより安全だし……ここで雨に濡れるよりはましだ」

 言われて南明は立ち止まった。北村の悲鳴みたいな呼吸と違って、南明の息は、ほとんど乱れがなかった。北村の指差す方向に目を凝らすと、なるほど黒っぽく見える山沿いに、べったりした漆黒の帯が見分けられた。右の山の端から現れ、ゆるくカーブすると、左手からせり出す山の向こうへと隠れている。その手前に白っぽいものが見えるが、何かの施設かもしれない。このまま山の頂きまで苦労惨憺して踏破するより、結果は上々と予想できる。

 ぽつぽつと雨が降り始めると、もう二人は話し合うこともなく、斜めに道なき道を滑り下りはじめた。

 距離はあっても、確かに下りは圧倒的に早かった。とくに南明は翔ぶが如くだ。ぶつかりそうになる杉の木を、左、右と跳躍して躱していく。たちまち北村は置いてきぼりになった。その北村は、もう南明に付いていくのを諦めていた。ひぃー、きぃー、と荒い呼吸は悲鳴と喘鳴のくりかえしであった。一休みしろと南明に怒鳴りたいが、思うだけで口パク状態だ。

 どんどん小さくなってい南明の後ろ姿を見ていて、北村は、ふと警察無線で柘植が話していた内容を思いかえした。

 藤岡は不破と南明に福島で会っていた。そのことを黙っていたのは、十年以上も以前の記憶があやふやなのと、なにより福島の二人は、別人のように若かったからだろう。

 まだ少年の面影を宿す藤岡が、ボランティアの救出劇を目の当たりにして、一種感動すら覚えたのだ、が……その後、何があったのだろうか。

 そして現在、福島のときの若さを身につけた二人を見て、藤岡は同一人物だと断定し、たまさか出会った警察官の吹田巡査に事件のあらましを告発をした。藤岡の告発内容についての真偽のほどははわからないが、彼が不破に惨殺されたことで、そのときの犯行は一種の殺人事件だろうぐらいは推断できよう。確かに最初に会った二人と今の二人とでは──少なくとも南明は──見違えるほどに若い。顔だけではない。実際、北村は南明の肉体の変化を自分の身体で体験している。

 アスファルト道路に下り着いた。南明の後ろ姿を遠くに見て、北村はしみじみとつぶやく。

「下手すりゃ二十歳の女だ」

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