第24話
二十四
千堂婦長のスズキの軽に戻り、エンジンを起動させたが、燃料計の目盛りは上がってこなかった。ともかく行けるところまで行くしかない。北村がバックギャを入れると、その足を南明が蹴りつけた。
「予備のガソリンがあるはずだ。探して」
「役場の横にはGSもあるんだ。わざわざ予備なんて置かないだろう。それに探すと一口で言うが、探してみて、なかったらどうすんだ。時間だけを無駄使いしたことになるんだぜ」
「いいから。行って」
「おまえが言い出したんだぞ。おまえが行けよ」
「この車で奴を轢きつぶしておいてから、包丁でバラすんだよ。燃料は必要だろが。それともあんたの細腕で、あいつの猪首を締め上げられるのかい?」
「だったらあのときのハンマーを持ってくりゃよかったじゃねえか。なんで無線機を殺したんだ。まだ使えたのに」
「だから息の根止めたんだろうが。無線機で応答するやつが、警官だけとは限らねえだろうが」
「不破……ってことか。ケッ。好きにしな」
北村はもう指図はきかないとばかり、クラッチを上げて、車をバックさせた。
その瞬間、南明が動いた。
右肘で北村の左顔面を叩き、上体がのけぞったところを懐に入ると、両腕を伸ばして抱きついた。だが、ただ抱きついたわけではない。南明の両手には、それぞれ先ほどの包丁が握られており、頸動脈の位置を確保しているのだった。もし一気に南明が両腕を引きおろせば、頸動脈は、ぱっくりと口を開けるはずだ。そしてフロントグラスは、噴き出す北村の鮮血で、真紅のカーテンのようになることだろう。
「好きなようにしたよ。で、次はどうしたい」
南明の格好は、見ようによっては、運転席の男の胸に抱きつく女にも見えた。いや、女ではなく鬼女か死神だろうか。
交渉の余地などなかった。北村は憮然と車を降りると、ひとり派出所へ逆戻りした。
ライトを照らすまでもなく、がらんとした玄関は不破の仕業で立錐の余地もない。せめて送配電工事が済んでいれば、赤いポリタンクなどすぐに見つかるだろう。
まずは仕事効率を考えて、ソファやパイプ椅子を移動させ、空間を作り出す必要がある。火の気のない土間に危険物収納ロッカーでもあれば、まずそこだろうが、でなければ屋外の物置小屋か。いや、ロッカーや物置小屋が見つかったとしても、今度は鍵の保管場所だ。執務机か専用の小引き出し。それにも鍵がついていれば、当人が他の鍵の束と一緒に持ち歩いている可能性は高い。
ひとあたり探したが、事務所内には、それらしいロッカーはなかった。
南明の乗る軽自動車に戻ると、北村は開口一番、
「そういえばパトカーが見当たらないんだが。町中でも見かけたことがなかったし」
北村の言葉に南明が顔色を変えた。
「あっ、気づかなかった。だとしたら、不破が乗っていてもおかしかないね」
「なんのために?」
「あいつは勘のいい奴だ。震災で道路が使えないということで、おまわりがパトカーを使わずに、徒歩でパトロールしていると耳にしたら、まっさきにそのパトカーを奪おうと考えるだろうよ。そうすればおまわりは動けなくなる」
「ついでに捜査本部の命令系統もつぶせる、か。というより、おまえたちは端っからこうするつもりだっんじゃないのか」
「そんなことはないね。もともと、わたしたちには車があるんだ、あえてパトカーを奪う必要はないだろう。逃走には不向きだし」
「でも不破は盗んだ。だからなんで?」
「考えられるとすれば、拳銃だな」南明が東の空を見つめて言った。「あいつは、幾度か交番を襲おうとしたんだよ。まえにも話したが、わたしが先に被害者として交番に飛び込んで、他におまわりがいなかったら、後から不破が襲うという手はずだったんだ。けど、大概は二人以上は居たね。多くて五人なんていうところもあった。さすがにすぐトンズラこいたけどさ。ああ見えても、あいつは結構ずる賢いんだ。無理はしない奴さ」
「どうする。予備のガソリンは見当たらないぞ」
「あったとしても、パトカーの中だな。行くか、あいつの懐の中へ」
車のフロントパネルのデジタル時計は、もう五時になろうとしていた。雨はすでに峠を超えて、一気に回復傾向だ。あいかわらず東の山々は闇に沈んでいたが、空ゆく雨雲は、藍色から灰紫色へと衣装を換えはじめている。あの空を背景に、きっと自衛隊や警察などのヘリコプターが、爆音を轟かせて飛翔してくるに違いない。
バックで駐在所の敷地から出ると、北村は素早くハンドルを左にきった。
南明がギロリと北村を睨んだ。
「こっちのほうが近い。急ぐんだろう」
その道は、ここへきたときの道ではなく、未舗装の道路だった。思い返せば、藤岡が運転してこちらへ向かう間、北村は暇つぶしに、もらっていた地図を眺めていた。そのおかげか、小名瀬町近辺の地理を、北村は把握できた。このぬかるんだ悪路を突っ切れば、千堂医院と役場へ通じる岐路に出るはずだ。この後の展開によっては、役場へ向かう必要性が出てくるかもしれない。一秒のロスが原因で、終焉をむかえる羽目になった者は山といる。
いずれにせよ、燃料も時間も後がない。多少の無茶は目をつぶろう。南明もそこは得心がいったか、北村の運転へのダメ押しは途絶えた。
いくら雨があがったとはいえ、増水した支川へ注ぎ込む小川も、とうに許容量なぞ超え、道路は冠水どころか、田畠との境目がなくなっている箇所もあった。なんとかハンドルを慎重に扱い、北村の運転は順調に時間を稼いだ。
突然、北村は車を停めた。
燃料が切れたかと南明はきびしい顔つきだ。
もっと周囲が明るくなっていれば、いくら急いているとはいえ、こんな冒険はしなかっただろう。
フロントグラスからも、青空がちらちらと見えてきた。雲間から暁光がさぁっと射しこんだ。すると、朝陽は天と地に別れたのだった。
北村が希望を託した迂回路は、巨大な沼湖と化していたのである。
一度はバックを考えたが、すこし行くと、山側へあがっていく田舎道が交差するはずだ。そこから山裾を縁取るように走る道路を千堂医院へ針路をとればいい。山際は土砂崩れがなければ、低い土地より冠水する可能性はすくない。高台にでも上がれば、小名瀬町全域の様子も俯瞰できるかもしれない。もっと考えれば、不破の乗るパトカーも捉えられるかもしれないのだ。
とはいえ、道はもう道ではない。セカンドでびじゃびじゃと音立てて、スズキの軽は進んだ。だが、ここで難問が発生した。山裾への道が簡単に見分けられると思っていたが、まったくの湖面状態だ。どこにも標識や棒杭など目印などないのだ。
だが、北村の勘だとそろそろこの辺りだ。右手には杉の山が青々として朝陽を浴びている。その麓を白く横切っているのは道路に違いない。あそこへたどり着けば。
車がほんの少しばかり頭を上げた。平坦だった道が、わずかに高くなっているということだ。交差している道のせいで、この道の高さを調節しなければならなかった。とすれば、ここだ。車幅からして、あと少し。あともう少し。
目に見えぬ道めがけて北村はハンドルをきった。
ガクンと左側に車は揺れ、沈んだ。だが、そこは田畠ではなく、道路だと車のタイヤは北村に告げた。もっと速度をあげてもいいよ。行けるよと。
実際、北村はアクセルを踏んだ。
ちらりと横目で南明を確認する。ふてぶてしい横顔だが、どこか憎めない。
太陽を久しぶりに浴びて、杉の木立は濡れ光る。
なにが幸いしているのか、北村は順調だった。このまま何もかもが、うまくいくと思えた。あの人間ばなれした不破でも、二人でかかればやってやれないことはない! 根拠のない自信が朝陽となって沼湖にキラキラと光の玉を弾ませていた。
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