第23話

              二十三

              

 千堂医院の非常口を出ると、またぞろ雨音が脳天を打ち始めた。

 耳をこするように、どこからか、男たちの忍泣きが聞こえてきて、北村は立ち止まった。聞き覚えのある声たちだ。確かめるまでもなく、消防団員たちだと思う。雨合羽のフードを持ち上げようとすると、その手を南明が強く引っばった。

 北村は雨合羽のジッパーもそこそこに、南明の後について車へと急いだ。

 不破の軽トラは無視して、千堂婦長から借りたスズキの軽のドアを開けた。

 シートに落ち着いたとたん、腐臭に気づき、鼻呼吸ができない。室内が、ぐんぐんと異様な臭気で満ちていくのを肌で感じた。エンジンをかけることも忘れ、北村はすべて南明が原因なのはわかっていた。霊安室で抱いたときの、南明の肉体が放つ臭気は、想像の限界を赦すものではなかったのだ。あのとき、南明の乳房にむしゃぶりつきながらも、北村の精神のほこらは、幾度も幾度も汚物を吐きつづけていたのだ。

 北村は南明の体臭から逃げようと、ウィンドウを全開にした。雨粒に額を叩かれながらも窓外に顔を突き出す。

「線の細い男だね。そのくせ根性は腐っているから手に負えないよ」

 南明があきれかえった様子で、北村の背中に向かって言った。

「ど、どうしてさっきまでは……。おまえはさっきからこんな臭いをしていたのか?」

「それじゃどんな臭いをしていたと言うのさ。気狂ったように、わたしの身体を舐め回していたぢゃねえか。あのとき嗅いでいた臭いだぜ、これは──」  

 そう言いながら、南明は自分の胸をぱんばんと叩いた。

「──不破?」

 そう一言つぶやくと北村は、口内に溢れてきた、ねばつく唾液を駐車場に吐いた。 

「この臭いの出所は不破なのか……」

「何言ってんだ。あったりまえじゃねえか。わたしはあいつの女だよ。飽きるほど抱かれてきたんだ。臭いも糞も染みてあたりまえだろうさ。それをあんたは丁寧ていねいに、その舌で舐めとったんだ。なめくじのようにね。哀れなもんだよ男ってのはさ……。で、どうすんだよ、行くのか辞めんのか」

「ふっ、どうせ人生なんか最初から決まってるんだ。変えられるのはどこで死ぬかぐらいだろう」

「だったらどこで死ぬつもりだい。わたしの腹の上で、おっぱいもんで死ぬ気かい。ケッ、とっとと行けよ。人生がどうのこうの言ってる場合かよ。部下がこわされたんだろう? 上司としても馬鹿みたいに腹が立たねえのかい。あそこだけはすぐつくせによ」

「もう二度と抱かねえから、うるさく言うな」

「できればそうしたいところだろうが……糸は絡みはじめているんじゃないの」

「どういうことだ。この場限りの仲だ。ここを出れば二度はない」

「それであんたはいいのかな」

「……良くても悪くても、生きていくのは俺自身だ」

「自分の力だけで生きてきたようなこと抜かすなよな。不破をミンチにしてから言えよな」

「やるときはやるさ」

 大脳をそそのかして生み出した言葉を、なんとか肉声として吐き出すが、ふたりはひたりと息を止めた。北村はウインドウを全開にしたまま、飽きもせずに降りしきる雨の世界へ、車を突入させていった。

 

 しばしの沈黙ドライブは時間を漂白していった。

 

 自動車の運転で、少しは気が紛れるとでも思っていた北村だが、そこは人間だもの、どんどんドツボの暗黒面へ沈んでいく。ラジオがあるんだと思いついたのは、北村ではなく南明のほうだった。

 カーステレオの操作は不慣れらしく、ごちゃごちゃとスイッチを押したり撫でたり摩ったり、とどのつまり拳骨で華奢なパネルを叩きはじめた。

「人の車なんだぞ。壊れたらどうすんだ」

 その言葉に南明は切れた。

 プロボクサーなみのストレートパンチだ。パンッと乾いた音がして、北村の顔面が瞬間のけぞる。が、ヘッドレストの反撥力でもどってくると、その顔面めがけ、再び拳を打ちこんだ。運転中でなくともかわせるはずもなく、右頬骨にガツリッと響く。舌先がぬるりと滑り、口内に鮮血が溢れ出した。

 急ブレーキはその後だった。

「痛っつ! なんすんが!」

「るせえっ。くたばりぞこないめが。二度と減らず口叩けんように壊したる」

「やめっ! やめっ、やめんか! 山姥の逆襲じゃあるまいに!」

「人肉喰らったことなぞねえくせに。ガキめが」

 そのへんでようやく北村はドアを蹴り開け、回転レシーブでも披露したいのか、ゴロゴロと路上に身を転がした。降りしきる雨の夜、アスファルトの路面で身投げする男は、ぎりりりっと歯を鳴らして怒鳴った。

「不破のまえにおまえを砕いてやろうか」

 と気持ちは奮い立つが、肝心の五体はとうに降参していた。よろぼいよろぼい老婆のように立ち上がるのに精一杯だ。

 その姿を青白い光線の束が打ち据えた。あの南明が携帯していた投光器らしい。いつのまに運びこんだのか、夜闇にうろたえる北村の白いシルエットがピエロじみて可笑しい。

「下手な武器よりこのほうが役に立つんだぜぇ」

 助手席から南明は自慢げに投光器を振ってみせた。

「やめろ! 目が焼ける!」

「先月、清水市内の飯場でくすねてきたスゥエーデン製だ。放牧した牛が逃げたとき、あいつら一晩中抱えて探すんだとさ。ええかい、公務員さんよ、もう同じ穴のナントヤラだかんな。おれの言うことに逆らうとためになんねえよ」

「だっ……だから不破を探しに来たんだだろうが」

「そっ、だから、そこが交番さ」

 言いながら南明は、投光器の馬鹿みたいに強い光の束を、右手前方に向けた。

 ギラギラと濡れ光る道路の突き当たりに、それは忽然こつぜんと現れた。

  

 KOBAN


 無言のまま再び運転席に戻ると、フロントグラスの上辺が薄っすらと明るい。思いなしか雨足も弱まってきたようだ。交番こそがゴールだと言わんばかりに、北村はアクセルを踏みこんだ。

 なにか理由はあるのだろうが、交番は、丘陵の脇腹あたりを削ぎ落としてできたスペースに建ててあった。一見すると廃業店の風情だが、赤い電球と白ペンキの窓枠が、のどかな玄関を醸し出している。手作り感満載のKOBANだ。側道にいくつか並んでいるのは、セメント製の雪だるまか、笠地蔵さんだろうか。

 自動車のヘッドライトを消すと、玄関の白いカーテンが半分開いていることがわかった。いや、カーテンだけではない、ガラス戸が打ち壊されているのだ。

「やばっ、遅かった?」

 南明の動きは、もう戦闘態勢に入っていた。車の助手席側からだと玄関は反対側になる。にも拘わらず、北村より早く南明は、割れたガラス戸の中を覗きこんでいた。

 蛍光灯に照らされて、室内は白じろとしていた。

「居るよ、きっと──」  

 南見の緊迫した声が走る。だが北村の返事はない。いや、気配もなかった。何してんだ! と南明が振り向くと、ぎっくり腰でもやらかしたか、北村は薄鈍な動きで、今ようやく車のドアを閉めたところだった。

「……ちっ」

 南明の険悪な視線を受けて、北村は雨合羽のフードを跳ね上げた。ずれてしまったヘッドライトのベルトを調整しなおすと、痛々しく首を横にふった。だが、歩き方がおかしい。明らかに下半身、とくに股間あたりに異変が発生しているのが見え見だ。

 なにをそこに読みとったのか、南明は再びチッと舌打ちをした。蔑視と嫌悪を冷笑に混ぜて、たっぷりと北村の横面に塗りたくる。ふんっと一つ鼻を鳴らし、北村なぞ待つことなく、小型の懐中電灯を手に玄関の中へ、先を急いだ。

 

 昭和時代の交番は、黒カビと杉材のえたような腐臭で湿っていた。いや、そこに秋刀魚の脂のねばりと、トイレの刺激臭と、整髪料の人工香料などの生活臭も足して、得も言えぬ日常臭となっていた。交番は古びた官舎が併設された駐在所なのだった。

 間仕切りの白いカーテンを押しやると、事務所のカウンターが目に飛び込んできた。応対記録帳や拾得物件預り書の帳面が開いたまま放置されている。折れた鉛筆とボールペンが散乱し、電話機も派手に壊れて床の上だ。むろんここが駐在所だと知っているから、事務所として見ているが、それでも自分の目が信じられない。十人あまりの屈強な兵士が荒れ狂った後だと告げられれば、そちらの方だったら信じられそうな有様だ。

 そのコンクリートの三和土たたきは、巨大な泥の靴跡が行ったり来たりを繰り返していた。むろん巡査のものではない。足跡それ自体が凶暴なのである。

 後から入ってきた北村が、室内の状況を一瞥いちべつすると、

「地震のせいかもしれない……」

 と間抜けて、つぶやきながら、カウンターを回り込む。その間も、空いている右手は忙しく自分の股間を掻いている。その動きを見逃さず、南明は睨んだ。

「──あんた、どうかしたのかい。さっきから歩き方が変じゃん」

「かゆいだけだ。いや、ちと痛いかもな」

「あんなとこで脱ぐからだ。あんたのあそこ、虫に喰われたんだろうよ」

「虫……? まさか、いや、これは違う……」

「あとで診てやるさ。それよか、不破の仕業だと思わねえか、これ」

 南明は荒らされている書類棚やキャビネットを指さした。北村はうなずいた。

「ここは、巡査の家族も住んでるんか?」警戒しいしい南明はつぶやく。

「独身じゃなければな……」

「あんたは嫌な予感がしないのかい?」

 確かにあのモンスターの不破が、ここで、その怪力を余すことなくお披露目すれば、うんざりする光景が広がるはずだ。そういえば、奇妙な生活臭だと思ったが、ここに漂う、えずきたくなる臭いは、南明のそれと似てはいないか。換言すれば、ここは不破に汚染されているのだ。

 右手奥に官舎と事務所を隔てているドアが見えた。ドアは半開きだった。ドアの向こうに明かりはない。そろりと近寄り奥を覗く。ふと、真っ暗なドアの隙間に何かが挟まっているのに気がついてハッとした。

 真っ赤に染まった足だ。それは無惨にも豚のロース肉のように、二枚に引き裂かれてはいたが、白い紐状の健が、二枚をなんとか繋ぎ止めていた。

 ──子供のものか!

 ──いや、違う。

 近寄って見下ろすと、床にも赤い絵柄の子供用のサンダルがぐちゃぐちゃになって散乱しているのだった。四、五人分はありそうなサンダルが、我勝ちと逃げ惑う様子が見えてきそうだ。わずかなドアの隙間にも、身体を押し込め押し込め、なんとか逃げようと必死になっているのだ。その後ろからは、泥だらけの大きな靴が、今にもサンダルたちにかぶりつくように迫っていた。

 ──さんだるでよかったぜ……。

 ほっとした北村の背中だが、やはり精神は恐慌状態で怖気おぞけていた。ひとつ深呼吸すると、彼は喋りだした。

「──推察するには、は、玄関を打ち破ってから事務所で何かを探していたんだ。その物音を聞きつけて官舎の方から家人が出てきた。家人は化物と遭遇し、官舎のほうへ戻った……」

「だったらあとを追いかけて、不破も後を追いかけた、か」

 南明はしゃになってつぶやいた。

 その言葉を耳にしたとたん、ドアを開けようかしていた、北村の手が、ビタッと止まった。

 隣の部屋で物音がしたようなのだ。何かが床に落ちた音だ。そしてひきずるような不気味な音だ。

 北村は息を殺した。そうっとノッブを回すと、そこで再び異音が鼓膜をこすった。

 ドアが作ったわずかな隙間は、すべてが暗闇だった。そこでまたもや、ごそっと異音が聞こえてきた。

 ──このドアの向こうにあるのはなんだ! 

 北村は奥歯を噛みしめて、ドアの隙間に目を凝らした。せめて異音の出所が見たかった。だが、こんどは異音は消えて、なにも聞こえてこない。そうなるといっそう闇の底に神経は研ぎ澄まされる。

 その闇の向こうが、一体どうなっているのか。そのとき、異音とともに、わずかな風が頬を撫でていった。風だ。ドアの隙間から家の臭気が流れ込んでくるのだ。

 北村の嗅覚がハッとして、ヘッドライトと懐中電灯の光帯を、その隙間に注ぎ込んだ。何かしら照らし出してくれるものと期待したが、闇は、やはり闇のままだった。

 またもや既視感デ・ジャ・ヴで胸が苦しくなってきた。臭気は幽かに屍体の体臭を連想させている。間違いない。彼は救いを求めるように、ドアの隙間に目を凝らす。今度こそ暗闇の底を見届けてやろうと、力の限り凝視した。すると奇異は、平然と姿を見せつけてくるものだ。山間の県営団地が墓石に似て、ドアの向こうで連なっていたのだった。

 精神の異常さなど構わずに、北村の意識は市営団地の、記憶の奥へと没入していった。

 そこは限界集落から救い出された低所得者を掻き集めた、もと兼業農家の世帯がほとんどであった。北村が市職員に採用され、職場外研修として後期高齢者巡回に同行した時のことだった。

 国中に点在する負の象徴だ。

 黒カビで覆われたコンクリート壁の各階層には、黒々と変色しはじめた孤独死の遺骸だけが、ひっそりと北村を待っていた。ほとんどが独り身だった。まれに老いた姉妹や兄弟もいた。餓死した猫を抱いた老婆が、ドアのすぐ横で死に絶えていたこともあった。

 この日のは四階の八号室だと、同行していた先輩が、ひとり言のように北村に告げた。難物とは、孤独死の可能性が高い部屋を指す隠語だが、もうそれは目の前に迫っていた。気持ちの準備はまだだ。下階から上がってきて、目線が踊り場と同じ高さになると、いやでも八号室のドアに注がれる。

 言わずと知れたあの腐臭が廊下に広がり、階段を生き物のように降りてきていた。

 先輩がガスマスクをバッグから取り出した。残念ながら私物ということで、北村に配布はない。仕方がないので、厚手のタオルハンカチで気休めに口と鼻を覆うが、かえって息苦しくなり、遺体の掌で口を塞がれているような錯覚がした。だからといって、ハンカチを外せるほどの勇気も根性も諦観もない。

 気づくと先輩はもう玄関のドアを解錠していた。

 手慣れた様子でビニール袋に足を入れて玄関に踏み込むと、驚くことに、狭い玄関には店屋物てんやものの食器とおもわれる皿や、どんぶりが並んでいるではないか。

 孤独死でもなければ、栄養失調でもない、そこは無理心中の家族たちの終焉の場だと北村は思った。だがしかし、北村の耳には、家族たちのさんざめく声が聞こえていた。食器の触れ合う音や、拍手らしい乾いた音もした。

 見ると、先に入った先輩が、八畳間の襖を開けたところで佇立ちょりつしている。北村が肩越しに室内の様子をうかがった。二組の炬燵こたつが中央に並べてあり、それぞれに二人づつが、向かい合わせで座っていた。

練炭自殺なのはすぐにわかった。それに間違いないが、未だに北村の耳には、談笑の内容さえも聞きとれた。先輩もそうだが、気づくと北村も微笑んで、うなずいていたのであった。 

 そのとき、

 ──ガスッ!

 身体が大きく揺れ、そして重々しい痛みが骨をきしませた。もうそこに市営団地もコンクリート壁もない。いるのは苦笑いを浮かべている南明だけで、彼女は拾ってきたような棒切れを握っていた。

 その様子を見て取ってから、だしぬけに肩口から激痛が走ってくるのを北村の神経網は知る。

 痛みで崩れた顔に向かって、すかさず南明は言う。「気いつけな。普通じゃなくなるやつはみんなそうなる」

「……」

「ずれていく、のさ。微妙に大胆にな。おまえ、さっきも幻覚にはまったろう。見入ってしまっただろう? しょせん人の脳ミソなんざ、それで精一杯なんだ。ともかく自分を誤魔化していく。ただそれだけだ」

「──よくわかんないが、だとしてもだ、痛えのは勘弁かんべんしてくれるか」

 北村は、ようやく痛みが引いたようだった。南明が棒切れをポイっと投げ捨てた。

「ずれてしまっても、それはおまえの感覚が、より広く、深く、繊細に感じ取れるという証拠だ。ここは、そこいらに不破の気配がみているからな。けっこうぴりぴりしてんだろう」

 そう言われて北村はしかつめらしく考え込んだ。南明の言う言葉の意味の理解には程遠いが、だからといって、嘘デタラメとは違うことはわかる。なにかが違ってきている。それを知りたいからこそ北村は南明に魅入られたのかもしれない。

 それでも疑うように、北村は南明を睨んで言った。

「だったら……いや、まてよ。ここは正面突破より、背後から奇襲を仕掛けるとこだろう。あの化物なんだ、不意打ちが上々の出来になったとしても、おまえの願いが叶うとは限らんじゃないか。なっ、そうだろう?」

 と南明の同意を求めて、北村が振り向くと、そこにいるはずの女の姿がなかった。北村の動きを監視していたような南明が、いつのまにか姿を消していたのだ。

 さあ、ここで北村は不安に駆られる。自分でも驚くほど心細くなってしまったのだ。

「お、ぅい、お、ぅい……。なぁ、んみょう……」

 どうして呼びかける声が、こうも震えているのか。北村は息を殺し、室内の物陰や、暗がりに視線を繰り出して南明を探した。そのとき、背にしていたドアが静かに開きはじめ、気配で察した北村は凍りつき、慄いた。  

奇襲をしかけるつもりがやられたのだと観念した。あの虚像じみた不破の一撃で、脳ミソが飛び散るぞと覚悟した。だが、なにも起こらない。ただ、ドアは静かに閉まっていき、カチリッとドアノブが閉じたのだった。

 北村は震える手で、再びドアノブを回した。 

 どの部屋も完璧に死んでいた。ただ、真っ正面に、何を反射しているのか、壊れた四角いシルエットだけが闇に浮かんでいる。

 木枠ごと砕けた窓ガラスだった。引き裂かれたカーテンが、吹き込む風で揺れて、レースの布地に挟まった木片が、床の上を行ったり来たりしていた。

 かすかにカレーの匂いがした。 

 ──こいつはキッチンか、食卓だな。ずいぶんと派手に壊したもんだぜ。

 恐る恐る足を運ぶ靴底の下で、ベキャッ、ベキッ、ピリッと食器たちが北村に代わって悲鳴をあげる。一陣の強い風が吹き込んできた。カーテンが大きく揺れて、玄関の脇に建っていた常夜灯の光芒が横切る。射し込む光の帯が、狭苦しいキッチンの全容を、サァッと撫でた。

 右手の板壁に寄せられた食器棚がへしゃげ、並べていたであろう食器が、ほぼすべてなくなっていた。床には大きな泥靴の跡が、くっきりと残っている。合板製の棚板が三枚、まっぷたつに割れている。その真下に散らばる無数の木屑は、その形状からして、もとは椅子だったはずだ。不破が椅子を持ち上げ、一撃のもとに食器棚を破壊する光景が見えるようだ。

 北村は、部屋の隅々まで広がる闇の底に家族たちの気配を求めた。

 だが、床材の色合いに、ふと幾度めかの既視感が過ぎった。

 それは惨たらしい惨殺体の一部ではなく、被害者の喘鳴だった……。

 救出を乞う声や、すすり泣きなどは、瀕死の怪我人には出せない。生きている最後の証でもある呼吸音だけが、彼らの生還サインなのだ。実際に北村は、そうやって孤独死の瀬戸際に沈む寡婦を、その脆い手で、震えながらも、すくい上げた経験があった。聴覚と嗅覚、そして視覚が交差してしまう超感覚的知覚の彼だけが捉えた気貌きぼうであった。

 その聴覚が自身の緊張で震えていた。

 音を噛みしめたのだ。

 ただし、ここで噛みしめたのは、生存者のつぶれた呼吸でもなければ、不破の唸り声でもなかった。

「おつかれさまです」               

 かなり鮮明な男性の声だった。発声と発音が度を超えて正確過ぎて、北村は自分の聴覚が、とうとう狂いはじめたのだと思ったほどだ。

「おつかれ……」

 反射的に北村はつぶやいていた。つぶやいてから首を左右に振った。それはだんだんと加速度も強度も増していく。こらえようもなく早く、早く、首が振られる。

 ──いやいやいやいやいや、いや、そんなことぁないっ! ここで部下の藤岡に挨拶されなきゃならん理由なんぞない? あぁ、耳に聞こえたのはなぁな、今、聞こえたのはなぁ、解剖の途中で捨てられたような、いやいやいや、これはおかしいだろうっ。

 だが、藤岡の声は、その後も、正確な発音で、北村の鼓膜をふるわせた。

「すいませんです。室長にご迷惑かけてしまって、申し開きができませんです  

 北村の首は、ゆるゆると横に振られた。聞きたくはないが、間違いなく藤岡が喋っていることは確かだった。ただし、声質は妙に鮮明で、雑音なぞいっさいない。まさしく鼓膜上の藤岡だ。その声が語るのだった。

「──まさか不破にダンゴムシにされるとは、はっきり言って心外でしたよ。あの力は、人が、なんとか出せる領域を軽々と超えています。つまり、超越しているってことです。この際だ、私たちとは別の種、つまり亜種と表現してもいいんじゃないですかね」

「亜種だとお? バカぬかせ。おめえな、あいつはホモ・サピエンスじゃないとでも言うのか。んじゃあ、あれは、あれはなんだ」

亜種等あしゅらというのはどうです。ふざけちゃいました。なんなんでしょうかね、あれは。だからこそ、あいつの正体を白日のもとにさらし、市議にも認めてもらい、科学的に解明すべきなんです」 

「ふんっ。いや、いや、藤岡、そーんなもん、俺たちが面倒みるもんぢゃねえだろう。いいか、藤岡君、我々に下された業務遂行に遅滞があってはならんのだ。ここが肝心なんだぞ。くれぐれも事態に破綻なきよう、着実にすすめなくてはならんのだよ」

「ごもっともです。彼らを白日のもとに引きずり出して、いったい市民にとってなんの有益になりましょう。ご意見ありがとうございます。それでは不破の件に関しては保留扱いとして、室長もお体を大切に、職務完遂までご慈愛ください。あっ、まだ課長さんでしたっけ」

「またそうやって大人ぶった冗談を言うんじゃねえ。おまえはいつもそうだ。市政に携わる者は、もっと謙虚でなくてはならんのだ! この際だ、胸の中身をぶちまけてみろよ。俺も部下の意見は聞くのが仕事なんでな」

「そ、それでは、お言葉に甘えて、言わせてもらいます。まずあの女には気をつけてください。あの女は不破と同類だと考えるべきです。いや、もっとたちが悪い……」

「誰と話してんだ、ボケが──」

 それは南明の声だった。北村の尻ペタを軽く蹴り上げ、肩を小突いた。

「思ったとおり、おまわりの家族は裏庭に転がされていたぜ。腹いせにあいつ、またずいぶんとひどいやりかただ。それで誰なんだい、さっき話していた相手は。なんだって言ってたんだ」

「なにって……」

 まさか、藤岡の怨霊とその声に、自分は上司として応対していたのだ……とはとても言えまい。また、言ったところで南明の骨っぽい拳を鼻梁びりょうにもらうのがせいぜいだろう。実際、南明は北村の襟首をつかむと、ずいいいっと裏庭へ引きずっていった。


 官舎の裏庭は、弱々しい常夜灯になぶられて見えた。安っぽい子供の遊具が散乱し、その向こうは白ペンキの木の柵が並んでいる。木梨川が増水した場合に備えて、川っぷちでもある敷地の境界には、盛り土が巡らされおり、その盛り土も一部が欠落している。きっと木梨川の魔の爪が削り落としたのであろう。

「不破でなくても、すべてを咥えていきそうだわね、この川は」

 南明は身を乗り出すようにして木梨川を覗きこんだ。だが北村の視線は、さっきから南明の足下に注がれていた。ぱっと見では、その泥まみれとなった物体は、せいぜい流木か廃棄物にしか見えなかった。だが、北村が向けるヘッドライトの角度では、立派に人体にしか見えないのだ。それも、複雑怪奇な形状からして、わけがわからんようになった人体なのは確かだ。

 一歩近寄ると、雨が泥を流した箇所から、着衣の生地と頭髪が現れた。それだけでも女性だと北村は確信した。どこか自分の妻の早苗を彷彿ほうふつとするものがある。早苗の生々しい悲鳴が、聞いたことのないはずの生々しい悲鳴が、濁流の音に混じって聞こえた気がした。

「不破が殺したのか……」

 手の甲で泥をぬぐうと、それは土気色になってはいたが女の耳朶みみたぶだとわかった。

「なあ、これも自然じゃなくて不破の仕業なんか……」

 北村の言葉、それは疑問文でもなければ独白でもなかった。

「口封じだろさ。まえにも何度かあったもんな」

 南明は人ごとのようにつぶやいた。おそらく自分だって手を出したはずだ……のに。

「全部とは言わないが、そのうち不破の罪状を記録として残したほうが身のためになるぞ」

 南明が鼻先でヘッと笑った。「それはあんた自身にも言えるっちゃね。でもこれはあいつがやったんじゃないかもな。あいつだったら、この狂った河に捨てるはずさ」

 確かに川の水嵩は危険水位などとうに超えている。向こう岸に連なる稜丘をも穿ち、この災害が沈静化した後、木梨川は、はたしてどんな姿に変貌しているのだろう。ここに屍体を落とし込めば、間違いなくわずかな時間で、それは土芥そのものに成り果てただろう。

 ──ダレかダレか……いるかヨ……

「おい、いまなんか言ったか」

 それは、いつもの幻聴だ、ほっとけばいい。耳に入る人声を、北村はいつもそう自身に言い聞かせてきた。男の声のように聞こえるが、実際のものじゃない、と。

 だが、南明は電気で打たれたようにターンすると、一気に官舎のほうへ跳ねた。

 その様子を見ただけで背筋が粟立った。

 不破が近くにいる!

 北村も遅れを取るまいと駆け出すが、どう見ても遁走にしか見えない。実際、彼は官舎の前を通り過ぎて、そのまま自動車に乗り込むつもりだった。

 しかし、聞こえてくる男の声は不破とは違いすぎていた。というより、肉声ではなかった、とすれば無線機か。

 台所を過ぎたあたりから、それは確信に変わった。誰かが警察無線で、派出所の船戸巡査に呼びかけているのだ。

 すると北村の足取りが元気を取り戻した。南明の背中は官舎のほうへ向かうが、北村は、あえて玄関へと走った。駐車場の常夜灯を回り込み、すぐ足元まで迫ってきている泥水を蹴散らし、再びガラスの砕けた玄関の土間に踏み込んだ。

 カウンターの右手側からそれは聞こえていた。無線の相手が苛立っていることも手に取るほどクリアだ。いつから男は呼びかけていたのだろうか。

 土間から事務所に入ったとたん、ぶつんと無線が途絶えた。だが、これで無線機は使えることがわかったし、もしやこの連絡内容は、ようやく自衛隊へ派遣命令が発令されたという快報かもしれない。

「不破がつぶしたとばかり思っていたけど……」背後に南明の声がした。「ちゃんとまだ生きてんじゃないの」

「ちくしょっ、どこにやったんだ」

 そんなに小さいわけではないのに、無線機は、あれから押し黙って所在がわからない。倒されたロッカーと執務机の下が怪しいが、不破がやったのだろう、そこにはがらくたと成り果てた事務用品が押し寿司のごとく詰め込まれているのだった。

 それでも北村はロッカーを引きずり出し、小引出しを抱えては、ぶん投げた。

 南明も手伝いはじめると、ようやく壁ぎわに黒い筺が見えてきた。マイクらしい銀色した器物もある。ただしこれは派手に中央部が凹んで、かなりのダメージだとわかる。これがさっきまで声を出していた匣とは信じられない。おそらく不破のことだ、まっさきにこれを壊し、そのうえ用心深く隠したつもりなのだろう。だが、引っ張りだしてみると、なんと電線はそのままつながっているのがわかった。存外、そんなものだと北村は苦笑いだ。

 スチールチェアの座面に無線機を置くと、さてどうしたらよいものか、北村は適当にスイッチを入り切りしていると、

 ──あーっ、こちら中央本部、中央本部、そちらにどなたかおりますか。応答できる方がいますか。どうぞ。

 さっきまで呼びかけていた男の声だ。北村は一呼吸調えてからマイクのスイッチを入れた。

「あ、はい。こちら木梨川の駐在所です」

 なぜか北村の声はかすれ、震えていた。

 ──おっ、つながった。船戸巡査ですか。

「え、いゃ、警察官ではありませんが、怪しい者ではありません」

 ──警察官ではない方が、どうして駐在所の無線機をいじっているのですか。その理由と経緯を話してください。

 すぐ横で、南明が、凝っと北村を見つめていた。まるで誘拐犯が、電話に出した人質を監視しているようだ。北村は無表情のまま、コクリとうなづいて見せた。

「実を言うと、わたしたちも船戸巡査さんに相談したくてここへ来たんです。ところが巡査さんは留守……というより、駐在所そのものが地震と大雨でやられてひどい有様で……」

 ──どなたか知りませんが、これは警察無線です。公衆電話みたいに使われたら困りますな。それで、船戸巡査の行方はわからないんですね。一体どんな用事なんですか、彼に。駐在所は危険なんじゃないんですか?

「ええ、それが木梨川が氾濫して大変なんで……」

 ──ああっ、ちょっと待ってください。なんか聞いたことのある声だな。おたく、もしかしたら、北村じゃねえのか?

「はあ?」

 そのとき南明の手が無線機の電源に伸びた。

「手を出すな」

 北村が蝿でも叩くように南明の手を払い除けた。

「ガッ!」 

 南明が鼻梁を折りたたむように皺を寄せ、ぐいっと北村を睨みつけた。さながら狂犬病の灼熱の眼焔がんえんだ。下唇を露骨に噛みしめ、不気味に咽喉を鳴らし、この瞬間にも齧りついて来そうな緊迫感で、鼻息も吹子のように激しい。

 その異様さに呑まれて、北村の思考は氷結し、息を呑む。喉頸を噛み千切られるという感触だけが大脳を蒼く痺れさせ、瞬く間にその感触は、全身の神経網をも戦慄させた。こいつはやばいぞ。マイクを南明へ差し出そうとした、そのときだ。

 ──おーいっ、北村っ、俺だ、俺。わかんねえのかよ、ボケ。柘植だ。

 その一声で北村の大脳が蘇生した。身震いして精力が無意味に奮い立った。南明に背中を向けてマイクをかばい、握る手に力がこもる。

「つ、柘植か。柘植なのか。俺だ。北だ。い、今、派出所にいる」

 ──やっぱな。で、どうした。どうしてそこに──おっ、そうだったな、おめえたち、仕事で小名瀬町に回されたんだっけな。相変わらず運のねえ男だぜ。それでどうなったんだ。まだ生きてるみてえだが。大丈夫ってことでいいのか。相棒もそこにいるんか、アッハハハハハハ。貧乏くせえ役人たちだぜ。

「あっ……」気づくと北村の視線の先には、怒気も猛々しい南明の視線があった。今にも無線機ごと奪われそうな迫力で圧してくる。北村は、くるりと回り込み背中を向けた。「あ、いや、ここには俺一人だ。さっきも言ったが、船戸巡査に知らせたいことがあって、独りで来たんだ」

 ──なん? で、だから、なに、その用件ってなんだ?

「おう、それは……自衛隊災害派遣要請の件だ。草薙町長さんに、船田巡査のほうから、災害の現状実態報告をするよう頼むつもりで来たんだ。俺のことを草薙町長は、市長の差し金ぐらいにしか思ってないんでな。ここは町長に信頼の篤い船戸さんに掛けあい、口添えでもしてもらえれば、すべてがすんなりと運ぶと思ったわけだ。それで……柘植のほうはなんだ。まさか一課が自然災害あいてに機動捜査するってか」

 ──うっせえな。警察の仕事に茶々いれるんじゃねえよ。

「ここに巡査は一人しかおらんのだぞ。もし俺でよければ、連絡係を買って出てやってもいいがな。彼の居所はおおよそ見当がついているんだ」

 そこで柘植は黙った。刑事一課が手がけている案件の捜査内容とその現状況を、事件の重要性がどうであれ、市役所の一職員に話してしまってよいものか思案したのだ。しかし事態は逼迫していた。ここは高校時代の同級生のよしみで、信頼してもよかろうとの決断も早かった。

 ──いいか、ほかの人に言いふらすんじゃねえぞ。

「ああ、わかった。巡査にしか言わん」

 ──ついさっきのことだ、県境に設置してあったNシステムに該当車らしきものが発見された。県外での動きは推定していたんだが、震災が発生した時点で行方がわからなくなってな。そいつらが走りそうなコースを洗い出すために、防犯カメラすべてを調べてきたのさ。結果、通称花田街道と県道十二号線とが交差するあたりのローソンの駐車場で確認がとれたんだ。

「逃走犯って、こと?」

 ──十年越しで追ってる凶悪犯だ。そいつらが向かう先は、コースと予想経過時間からして小名瀬町だとおれは読んだ。

「わざわざこんな災害三重苦の錆びれた町に逃げこんで、そいつらどうしょうってんだ?おまえの読みはおかしかないか」

 ──いちいち他所様のやり方に口出しすんじゃねえ。あいつらがもし小名瀬町に逃げこんだら、まずはてめえたちが、ひでえ目に遭うはずなんだぜ。

「おうか? だったらよ、ひでえ目に遭った、そんときはどうしたらいいんだい」

 北村がそこでくるりと一回転し、南明の燃立つ兇貌と対峙した。今にも取って喰われそうな剣呑な気配が北村を包みこむ。だが、北村の生臭い眼光と不気味な笑みが、南明の態度を変えさせた。なんと毒っぽい笑みだと感心したのだ。存在そのものが劇毒だ、と。

 むろん、そんな変化を無線機の向こうにいる柘植には知る由も無い。

 ──そうだな、まず逃げられるもんなら逃げるのが、一番てっとりばやいが、無理とわかっているなら、まずは先手を取られないことだな。あとは当意即妙の機動性だ。

「ありがてえ助言に聞こえるが、まずは丸く収めることに専念することかい。全部丸めてゴックンって呑み下してみろか」

 と喋りながら、北村の瘴気で爛れたような目つきが、冷え冷えと冴えていく。見つめ返す南明もまた、返歌とばかりに、ククククククッと唇をひきつらせた。そこへ柘植の声が楔のように食い込んだ。

 ──おい、北村よ、おめえ口を合わせて喋っているがよ、もしかしたら、もうとっくにそいつらを知ってんじゃねえのかよ。だとしたら、おっ、一つ訊くぞ。おまえの課の部下に、藤岡ナニガシというのがいるはずだが……まさか、そいつ、今回の相棒じゃねえだろうな。

「はぁ? 藤岡……?。ああ、あいつな。そいつだったら、今頃は本部付でテントの中だな」

 ──本部ってのは県庁のとこか。

「おうよ。俺とここにきた可哀想な相棒はだな、奴は金井、金井徳也という中途採用者だ」

 ──おかしいな。他に災害対策本部から小名瀬町に向かった職員はいないのか。フジオカという姓の職員だぞ」

「だからそいつは本部に──」

 ──まっ、いいから聞けや。そのフジオカ何某がだ、つい一時間ほどまえに、そこの船戸巡査に会ってな、事件の捜査を要請してきたんだとよ。俺が直接無線に出たわけじゃないから詳しくはわからんが、巡査が県警本部に伝えたきた事件の概要はだな──ひとりは女で、姓名はナンミョウ、名前のほうはフ・メ・イ。もうひとりはフワ・ユウジ、こいつは男だろう。推定年齢は五十代後半、あるいは六十代前半だということらしい。そしてこの二人は、藤岡とは過去に出逢っていたらしいんだ……。

「なっ──」 

 北村の聴覚が驚きで縮こまり、柘植の声が遠ざかっていった。

 藤岡が? なんてこったい。どうして、また、どうして……。

 ──おーいっ、ドタマのいい、北村さんよう。聞いてんのンか!

「すまん、すまん」北村は南明の様子を伺いながら言をつないだ。「こっちに連れてきた部下の方からの通信が混信したようでな」

 すらすらとデタラメが口から流れ出る。

 ──金井とかいった奴か。

「ああ。金井だ。そいつは町の役場で熱出して寝こんでいるんだがな。まった、そんなことはいいとして、つづけてくれ。その藤岡なんだが、船田巡査になんだと言っていたんだ。そのナンミョウとフワらしき者たちと、いつどこで会っていたと話したんだ」

 ──ええっとよく聞けよ。こちらの電話記録によればだ、場所はだ、東日本は岩手、そしてときは、あの忌まわしい2011年の三月十一日だ。そのとき藤岡は陸前高田市に臨時職員として働いていたんだ。何箇所かの福祉施設を、仲間と一緒に巡回している最中に、大地は揺れ、津波が地面を殺しにきた。当時の状況は、本件とは直接関係ないから割愛するが、仲間を津波で失った後、正確には翌日の午後から開始された救難活動は、次元の超えたものだったらしい。そこへ突然と現れたのがナンミョウとフワたちだ。彼らは自分たちはボランティアだと言い張って、救助中の陸自の制止を無視しながら、倒壊寸前の住宅に踏みこんでは被災者たちを救出していった。それはもう、神懸かり的な働きだったらしいぜ……。

 シチュエーションは似たようなもんだな。北村は瞼を閉じた。

 柘植の語りは、北村の大脳を当時の陸前高田市へと引きずりこむのに抵抗はなかった。北村の痛んだクラゲのように広がった神経細胞は、ざらつく氷混じりのアスファルトに頬ずりし、青く明滅するシナプスは、遠くに被災者たちの叫びと血の匂いを嗅ぐ。北村の透けた魂は、空を見上げると、大気は焦げた潮の香りで燻されていた。燃えながら流されていくタンクや、逆さになったまま、瓦礫へと崩壊していく新築住居たち。漁船とトラックが民家の屋根を貫いていく様など、すべては神の力によるものだと改めて識らされた。

 いったい、なにがどうなっているんだ!

 北村の大脳は焦るばかりで、まったく見当もつかなかった。大気とアスファルトの間で神経細胞を伸ばそうと力んでみた。だが無駄な行為だとすぐに気づいた。瓦礫を蹴散らして逃げていく人々の足が、もうまもなく、北村の大脳を魂ごと踏みつぶすのが見えたからだ。

 柘植のざらついた声が響いた。 

 ──フワたちの救助活動が人間離れした展開を見せたとき、それまで忘れていた藤岡は想い出したんだ。いや、すべてが既視感そのものだ。彼は信じられなかったんだ。過去も現在も同じ人間など存在しないはずだ、と。おそらく藤岡は彼らの年齢のことを言ってるんだろうが、過去も現在も確かな情報なんかねえだろう。みんな今だ。見たまんまが事実だし、今だけしかねえさ。

 長靴の底で、つぶされた北村の大脳は、アスファルトの上で泥混じりになった。だが、まだ越前高田市に彼はいた。おそろしくも寒い。存在してない手足も凍りついてしまいそうで時間はいない。

 その感覚を共感したのか、屍体の漂う岸辺に、南明が氷の結晶となって再生してきた。彼女の手には、歪んだプラスチックの破片が握られている。凍てつく岸壁の縁で見つけた、北村の大脳を汚泥と一緒にすくい上げた。しかし、大脳はもう腐っている。びたびたびたと大脳のしずくが海へと垂れていった。

 ──おーいっ。北村っ! 眠ってんのか! 生きてんのか!

「寒い。だが生きてる」

 北村は改めて襟元を引き寄せた。すぐよこで南明が鼻息で嗤っていた。

 ──だったら、ここからが本題だ。よっく聞け。藤岡が船田巡査に話した越前高田市のボランテアの二人は、おそらく、俺が追ってる奴らと同一人物のはずだ。あいつらが何年もまえから国内中を逃走している犯人なんだ。この国は、このところ立て続けにでかい自然災害に打ちのめされて、九州だろうが東北だろうが中部だろうが、どこでも簡単に人は死に、街は破壊されている。もし無辜のボランティアたちが懸命に被災者たちを応援していなければ、この国はとうに再起不能になっていただろう。ボランティア活動はこの国の誇りだ。だがな、その暗部には人に非らずの行為も多いと聞く。奴らの行為がいったいどんなものだったのか、すっかりと調べ上げなくてはならんのだ」

「それで柘植はこっちに来るんか」

 ──船戸巡査と連絡がついた時点で捜査体制を変更するだろうが、俺としては今すぐにでも乗り込みたいがな。おまえに渡された無線は消防とも共有しているタイプの筈だ。船戸巡査とも話せるはずだぞ。

 そんなもの、もうどこにやったのかわかんねえよ──北村は胸中で呟いた。

「ともかく巡査を探すぜ。それから村長のところへ戻って、その偽ボランティアたちの行方について役場で相談だ。あいつらだったら顔を見ている人はいる。すぐに情報は集められるはずだ」

 ──それは頼もしいぜ。そんじゃまたな。連絡くれ。

 ぷつりと音がして、柘植の声は耳の底に沈んでいった。

「不破を探すのかい」南明が無線機をつぶすようにして睨んでいた。「あいつを壊さなければ、おらたちがバラされる。身を守るというより、あいつをバラす武器がいるな」

 そう言うと、南明は再び官舎へ急いだ。勝手知ったるなんとやらで、わずかな時間だけで、出刃包丁を二本、それとハンマーをぶら下げて帰ってきた。ずいぶんと重々しいハンマーだなと北村が見ている間に、南明は、実際に無線機を叩きつぶしはじめた。たった二回で無線機は平たい奇物と化した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る