第22話

              二十二

             

 どうしてこうなったのか、今更だが、ほんのすこしまえの自分が信じられない。

 北村は南明に手を引かれるままに自動車に乗りこむと、千堂医院へとんぼ返りした。運転している最中も、南明の露骨な色仕掛けはあぶらぎって露骨だった。

 医院の関係者専用口から忍び込むと、まっしぐらに霊安室へと向かった。鍵は開いているのだと信じて疑わなかった。わずかの躊躇もなく、南明はレインコートを脱ぎ捨てた。やはり、その下には下着しか着けていなかった。北村も衣服を脱ぎ捨てた。その間、目線は暴力的に南明の身体をでまわしていた。

 想像以上に若々しい肉と肌だった。

 その後の視界は肌色のモノトーンが揺れるばかりで定まらない。耳障りな女の吐息と無骨に響く物音たちが神経を逆撫でる。それは、あの体育館の準備室で覗き見た、溶けあう肉塊を思い起させた。不破の筋骨と南明の弾ける裸体が融け合わさり、ひくつく性器とよだれの臭いが今も記憶の中で鮮明に強烈だ。その記憶の襞から、突如として、肉塊の触手が伸びて来、北村の思考に絡みつくのだ。

 快楽中枢と視床下部を電撃が襲う。もう尋常な思考力は熔解し合って無力と化していた。

 十代のころの強靭で弓のような背筋と、板バネじみた骨盤の力強さ。引き千切るように鷲づかみにした南明の乳房をしゃぶり、そのあえぐ口に吸いついて唾液を飲み干した。

 犬より早く北村は果てた。

 室内は薄明かりのモノトーンに沈んでいるが、北村は自分で脱ぎ捨てた雨合羽をドアの下に見つけた。急いで拾うと、哀れな少女のように身に着けはじめる。

 その間、目線は、何度も、何度も、しつこいほど室内を走査していた。ここに収容された遺体たちの放つ体臭と、不破の体臭の違いがわからないのである。

 ──いや、この死臭は俺のものかもしれんな。

 すぐ足元に横たわる南明の背中が仄白く浮かんでいた。その背中に、幾度も爪を立てたように憶えているが、見たところ、ミミズ腫れの痕すらない。もっと近くで確かめようと屈む北村。すると、

「気がすんだぁ?」

 振り向きざまに南見が言った。その顔は言う及ばず、汗か雨水か、あるいは互いの体液か、ぬらぬらと濡れそぼっていた。男女のまぐわいの余韻はいまだに熱く、うなじをたっぷりと濡らしながら、頸から鎖骨へ、脈を打って流れていった。

 北村が腕時計にチラリと目をやる。ここへ忍び込んでから十五分と経っていなかった。

「獣たちの交尾でも、もっと情愛が感じられるぜ……」

「あーら。随分と溜まっていたんだ。餓えたケダモノというけど男はどれもいっしょね」

 南明が、ドアと並んで設置してあるリネンケースから、無造作にタオルをひっぱり出すと、自身の股間にあてがった。

「そっちから誘ったんだぞ」

 下着をつけはじめる南明の仕草を目で追いつつ、北村はつぶやくように言った。

「こんな場所でやるなんて、あんた、ほんと、いっちゃってるんじゃない? いい年齢こいてさ」

 性的エネルギーに年齢の差なんかあるか──北村はそう言いかけたが、ふと自分の下半身を見下ろして気がふさいだ。

 そこで室内に充満している、お線香の匂いに気づき、北村は顔をあげた。新しい〝ほとけさん〟がここにいるのだ。その視線の先には、壁際に二つ、遺体が仲良く並んでいた。確認せずとも長谷川夫妻のものだとわかった。あの消防団の帽子が置かれていたからだ。

「あいつらもう亡くなっているのを知っていながら、どけどけと悪し様に運びこんだんだ」

「ふんっ、そんなもんだ。で、どうしてわたしを抱く気になったのさ」

「だからそいつはそっちが……」

 そのとき北村は、ストレッチャーの下に素手では触れたくないほど、汚れの目立つレインコートを見つけた。南明が長椅子にしんどい様子で腰掛けながら、タオルを投げて寄こした。そのとき北村は気づいた。今自分が見つけたレインコートは自分のものではなく、藤岡のものだった、ことを。

「ねえっ、どうしてわたしを抱いたのさ」

 自分のレインコートを拾い上げると危機管理防災室の腕章を外し、ポケットに仕舞った。

「まさか金を請求するんじゃないだろうな」

「くれるならもらっておいてもいいよ。でも、この後の二人の関係はどうなんのさ」

「それは俺とおまえの関係か、それとも不破とおまえの関係か」

「不破とわたしの関係? いまさらどうでもいいことさね。それより、だから、どうしてわたしを抱く気になったのか、それを訊いてんぢゃないのさ」

 南明の質問に、下手な言い訳を巡らせたが、北村の大脳は、いまだに不破の気配を嗅ぎ取ろとう躍起になっていた。というより、

 ──あいつはここにいる!

 北村の何かが、さっきからしきりと叫んでいるのだった。

 ──あいつはここにいる。

 だからといって、そう広くもない霊安室だ。あの不破の巨体が隠れる空間はさしてないだろう。それでも北村には感じるのであった。いつになく過敏になった彼の部分が、不破の気配を幻影として嗅ぎ取っているだけかもしれない。

 いまだパンツさえも履いていない北村の、哀れなほどに萎びた彼自身から、ほんの十五分以前の、たくましく怒張した雄姿はとても想像ができなかった。あの、まるで高校生男子のように、砕けよとばかりに腰を狂振し、涙まじりに射精した瞬間の疾走感。男の性とはなんたるかを改めて感じた一瞬間。それは、なにかを放出し、なにかを代りに受け入れた瞬間でもあった。

「あいつからわたしを奪うつもりはないかい?」 

 そのときの南明の微笑が、戯言なのか意図的なのか、北村にはわからない。ただし、脅迫していることは自明の理だ。

「とにかくさっさと服を着なよ。出すもの出したら、男ってのは理性的になるんだろう? または卑怯で腰抜けで愚鈍になるのか」

「もう馬鹿にされるのは慣れっこだ。だがよ、馬鹿ほど怖いもんはないんだぜ」

「そうさね。不破がそれだったよ。それはそうと、あんたまだやる気があんのかい」

 そう言いながら南明は北村の股間を指さした。いつのまにか、よぼよぼの爺いだった北村自身が、しっかりと肉棒の様を見せていた。頭ではそんな気は微塵もないが、久しぶりの鋭気を南明の肉体から戴いたようで、陰茎は力強く脈打っているのだ。

「本当に奴はここにいないんだな」

「さあ……。あいつのことは、とうとうわからずじまいってとこだね」

「じまい……ってなんだ」

「もうこれ以上長く付きあってられんじゃん。長い間、一緒に暮らしてきたけどね、なにを考えているんだか。わかったことなんてこれっぽちもありゃしなかったよ」

「わかったこと……て」

「そうさね。そこがなんていう村で、なんていう時代だったか忘れたがよ、不破に導かれるままに山道を降っているときさ、道が凍って盛り上がっていんのさ。あまりに寒いんで凍った自分の後ろ髪が襟首に突き刺さってさ、流れ出た血が凍って、丸い玉になっていやがんのさ」

 その後、南明の話は脈絡もなく続いた。あちこちの街だの村だの、ふざけた不破の道案内に、酔うように南明は引っ張りまわされたようだ。北村は事務的に時間軸を遡及して、南明と不破の生きた過去を摑もうとして聴き入っていたが、つぎつぎと展開する時と場所についていけず、そのうち妙な違和感が疑問となった。

「ひとついいかい?」

「──つまんねえか、わたしの話しは」

「いや、そもそもの不破との出会だよ。そしてどうして連れ添って旅をすることになったかだ」

「へっ。あいつがいれば教えてくれたかもな。そのまえに首っ玉引っこ抜かれるけどな。わたしから言い寄っていったのか、あいつが強姦したついでに逃走しているだけなのか、いまとなったらわかんねえなあ」

「はぁっ? ぢゃっ、なんで逃げないんだ。助けを求めればいいだろうが。ここは日本だぞ。治安だけなら、どの国にも引けを取らないはずだろ」

「これでもやれることはやったつもりさ。あれは関西のなんたら商店街の交番だったな。外でよ、ちょうどデブの警官が一人で外で突っ立ってるのが見えたから、トイレしたいと不破に嘘ついたんさ。交番とは目と鼻の先だから、わたしが助けを求めることぐらい誰でも察するだろうに、あいつは正直に停めやがった。そのときはシメタと思って、わたしは必死こいて交番へ走り込んださ。『助けて!』と叫んでね。そのへんでやめておけばよかったのに、わたしはデブの警官に不破が誘拐犯人だと指さして教えたんだ」

「で? どういうこと? あいつ逮捕されなかったのかよ」

「──撃ち殺せばいいものを、警官はしたくても、そのときはもう手が無線機ごとつぶされていたのさ。そのあと、わたしは軽トラに急いで乗り込んだから、警官の頭は手つかずにすんだってこと」

「なぜ逃げなかった。商店街なら他に買物客たちや警官もいただろうに。不破から逃げるには絶好のチャンスだったんじゃねえか」

「あんたさ不破という狂った悪魔を知ってるのかい?」南明の声が突如と湿った。「あいつはなにができる男か、そこは見ていたよね? あのおぞましい腕力が人のものじゃないことぐらいわかっていんだろう。だったら、あのままわたしが逃げ出したら、行く先、行く先で、人は壊されてしまうことぐらいわかんだろうっ!──わたしさえ大人しくしていれば、悪魔は狂ったりしない」

「……あえて不破に捕まった?」

 南明は、ため息まじりにうなずいた。「でも怖かあねえよ。怖じ気ついたら負けなんだよ。誰も勝ち目はない」

 瞬間、初対面のときの不破の無表情な双眸そうぼうを思い出す。魂も心も感情も抜けた狂気がいると、あのとき北村は思った。

「確かに不破が狂ってるのは、初対面のときに、なんとはなしに気づいていた。だとしてもだ、警察官を手にかけたなら、もう逃げられんだろう」

「ああヤクザなクソ野郎はみなそうだ。それは間違いないが、ながいこと逃げ回っているうちに、奴らもたいしたことねえとわかったさ。生きて行きたきゃ、誰も手を出さねえさ。ただよ、なんであいつは狂ったようにわたしを手篭てごめにしているのか、わかるか」

 北村は、男と女の間でなに今更訊くのか?──さも言いたそうな顔をした。南明は、ふんっと鼻で笑う。

「人の心はわかるもんじゃねえが、これだけは確かだ。あいつはわたしを必要としている。だからわたしがいなくなると、あれは狂ったようになる」

 ──なんだ、こいつ。なにが言いたい! 

 北村は皮肉ぽい苦笑いひとつで、南明の与太話を止めさせようとした。だが、次第に話の筋が、とめどもなく、果てしなく、おぞましくなっていくばかりで、とうとう北村の苦笑いは、鎮痛なこぐらがえりになった。

「なんだ結局、警察に行かんで俺にたすけろってことかい。あのバケモン相手にしばき合いしてどうすんだ、俺自身がくたばってしまえってか」

 南明の目がじっとりといぶかる。

「あんたわたしの身体を抱いたのと違うんか」

「……」

「そこまで男を棄てて、この後どう生きていくつもりなんか?」

 さっきから、うすうす北村は勘づいていた。理由はなんであれ、俺は嵌められたんだ、と。南明の話しを鵜呑みにすれば、彼女自身は性的暴行をうけ、その後は、恐怖の呪縛で拉致されている被害者に他ならない。ふつうの社会では、そのまま警察署に駆け込めば、すぐさま身柄は保護され、被害者の証言をもとに、不破は即時逮捕されるか広域指名手配されるだろう。だがそれは出来ないのだと彼女は言う。なにがどう出来ないのか、北村は訊いた。

 すると南明の小指がつんっと立った。

「一度でもその腕に抱いた女が、この後も、手篭めにされて暴力で縛られ、火事場泥棒を生業として生きていっても、あんた、なんとも思わないのかい」

 ──だから不破から、おまえを救い出せ……ってか。責任をとれってか? 

 まったく腑に落ちない事態だと北村は痛感する。

 ──このまま警察へ行って、憶えていること全部、洗いざらい話すだけでいいぢゃないのかい。

 その言葉は、今にも口から釘のように撃ち出てきそうだった。

 ぐっと言葉の釘を飲み込んだのは、やはり室内に充満する気配のせいだった。

 北村の視線は、せわしく霊安室の中を嗅ぎ回った。

 唐突すぎる「死」に呑みこまれた四体の魂が、葬儀の手配を待っている。その魂たちは、あまりの理不尽な運命に付いていけず、ただ呆然と自身の遺体を見おろしているのだろう。

 北村の視線は、当然ながら、藤岡の四体めの亡骸に吸いつけられた。

「あんたの部下だったよね、生きていた時分は」

 そう言いながら南明が立ち上がった。長椅子が甲高くきしんだ。その音にハッとして北村も立ち上がった。

「訊いてもいいかい、死因は何さ」

「おっ? それは……」

 北村は、よもや南明の口から、そんな質問が出るとは思ってもいなかった。それは不破の相棒のおまえのほうがよく知っているんぢゃないのか。そう答えてしまいそうだった。その意念と気配を読んだが、南明は気色ばむ。

「ばっか──言っておくが、わたしは知らんよ。あいつが単独でやったこった」

「だったら、いつどこで不破と別れたんだ。もしこのまま刑事事件で事が推移していけば、身を守るめにアリバイは必須なんだぞ。あとで二転三転しないためにも、ここで話してみろよ」

「あの千堂って医者のところで飯を喰ってからだ。わたしは二、三軒の留守を探し回って……言いにくいよね。忘れた。でも、あんたの考えは遠からず……だよ。ここは役人として、人として、人の親として……ああ、そういえば、あんたにも家族があんだろう? 子供もいんだろう?」

 その言葉に不意を突かれ、ぐうっと自己嫌悪の槍が背中に食いこんできた。えぐるような酸っぱい痛みだ。北村は躱そうとしたが、もう遅い。脳裏に広がる大スクリーンいっぱいに、殴られて赤く腫れ上がった妻の顔が鮮烈に映し出されたのだ。その細部描写は、白目にうねって走る細い血管の形さえ描けそうだ。あのとき、リビィングのドアのすぐ横で、無様に震えていた息子の颯太がいたことも忘れていはいない。

 こんなはずじゃなかった。こんな人生を自分は望んでいなかったはずだ。だのに、どうしてこうなった。妻と息子、あの二人は、かけがえのない人生の主題だったのではないのか。それがどうして、どうして……。

「家族のとこに帰りたいんか」 

「ああ」と答えておきながら、今度は北村の眉が力んだ。「そのためにも不破をなんとかしなきゃな」

 南明はそこで鼻先に苦笑いを寄せて、「わかっていんじゃんか。そういうことだね。不破をとっちめてやんなきゃね、……ね」

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