前日譚

Mißgestalt

Prolog――


 大地の神を崇める西の国では、最近、海を荒らす怪物、クラーケンに頭を悩ませていた。

 幾人もの騎士や冒険者たちが退治を試みたが、大海を自由に動き回り嵐を呼んで船を沈める巨大な怪物が相手となれば、人の手で討伐を試みるのは難しいように思われた。

 国王や国の人々は、神に祈った。

 西の海を傍若無人に荒らす怪物、クラーケンの退治を。

 かくして、神によって導かれた三人の勇者が海の怪物討伐に向かう。



Mißgestalt――


 嵐の中、一艘の船が大海原を進んでいる。

 外洋に出るには明らかに小さな船は、簡単に転覆してしまいそうな見た目をしていたが、不思議と荒波に舵を取られることなく真っ直ぐに進んでいた。

 船の舳先に居る人物もまた、嵐による暴風と豪雨に圧倒されることなく真っ直ぐ立つと、船を目的地に向けて進めていた。この人物は、道具に頼ることもなければ、自らの体を動かすこともなく船の操縦をしていたのだ。

 最も、船の中に居る者は、そうはいかなかった。

 大剣を携えて長いマントを羽織った剣士も、頑強な鎧に身を包んで盾を持った戦士も、ローブを身にまとった魔法使いも、皆、高波に呑まれまいと必死に船に捕まりながら、お互いを支えあっていた。

「来る」

 舳先に立っていた人物が言葉を発した瞬間。船の目の前が泡立ち、轟音と共に次々と水柱が立った。

 立ち上る水柱の一つ一つを避けながら、船は沸き立つ波の合間を滑るように走り抜ける。

 危険地帯を通り抜けて船の舳先を返すと、水柱が消えた場所に巨大な怪物が姿を現していた。

「あれが、クラーケン。この辺りの船をことごとく沈めていた海の怪物だ」

 嵐を呼び、嵐の中で暴れる海の怪物。

 そのなりは巨大な烏賊といったところか。十本もある足は、どれも大木の幹より太く、その背は国で一番高い塔よりも大きい。

「勇者たちよ。私が居る限り、お前たちが海に落ちることはない。臆せず戦うと良い」

 三人は頷くと、事前に立てていた作戦を行動に移す。

 まず、魔法使いが、剣士に俊敏さと機敏さの祝福を与えた。

 祝福を受けた剣士は軽やかに船から跳ぶと、怪物の足の一本に乗った。剣士の履いている靴は、ぬめりのある怪物の足の上でも滑らずに走ることが出来るものだ。剣士は、船を狙って大きく振り上げた足を見つけるなり、大剣で怪物の足を斬り落とした。

 しかし、斬り落とされた足の断面は、すぐにぶくぶくと膨れ上がったかと思うと再生を始める。ただでさえ足が多いというのに、いくら斬ってもきりがないというのが、この怪物の特徴だ。最も、足の再生には時間がかかる。根元に近い場所で斬り落とせば更に時間は稼げるだろう。

 剣士は次に、自分に向かって攻撃してきた足を返り討ちにした。攻撃は綺麗に入ったものの、斬り落とすことが出来たのは足の中ほどだ。これではすぐに再生してしまうだろう。剣士はもう一度、同じ足の根元を狙って大剣を振りかぶる。俊敏さが必要な仕事ならば扱いやすい片手剣を使いたいところだが、丸太ほどもある足を一思いに斬り落とすには大剣を使うしかない。狙い通り根元に近い部分を斬り落とすことに成功した剣士は、すぐに三本目の足に狙いを定めた。

 一方。

 船では、戦士が船に積んであった長い槍を手にし、魔法使いが自分と戦士に守備を高める祝福を与えていた。こちらは俊敏さよりも敵の攻撃に備える必要があったのだ。

 続いて、魔法使いは次の魔法の準備に取り掛かる。強力な魔法を放つためには少々時間が必要なのだ。

 舳先で船を操っていた人物は戦士の準備が整ったことを確認すると、攻撃をかわしながら船を怪物の近くまで寄せた。十分な距離まで近づくと、戦士は怪物の胴体に向かって槍を突き刺す。

 今まで剣士の動きに気を取られていた怪物は、巨大な瞳で船を睨みつけると、その胴体を更に海の上に引き上げ、口を開いた。小さな船なら簡単に一呑みに出来るほど巨大な口の中には、剣や鎌のように尖った鋭利な牙がずらりと並ぶ。戦士はすかさず、開いた口の中、下顎に向かって長い槍を深々と突き刺すと、その手を離した。

 怪物は明らかに一度怯んだものの、構わず船を呑み込もうと海水を吸い込み始めた。しかし、口の中に入ってくるのは海水ばかりで、船が中に流れていく様子はない。船は同じ場所から動くことはなかったのだ。怪物はとうとう諦めて口を閉じようとしたが、今度は戦士が突き刺した槍がつっかえて口を閉じることが出来ない。怪物は口の中に刺さる槍の痛みで暴れだした。

 舳先に立つ人物は船を退避させると、怪物の上で戦う剣士に目をやった。剣士は軽やかな動きで怪物の足を斬り落としている。海へ落下する気配は今のところないが、いつでも救出できる場所に船を寄せておく必要があるだろう。それに、剣士が集中して戦えるよう怪物の注意を引き付けておかなければならない。

 舳先の人物は怪物へと視線を戻し、船を怪物の近くに進めた。

 作戦は万事順調に進んでいる。

 誰も大きな怪我を負うことなく、各々の役目を忠実に果たしている。

 ようやく強力な魔法の準備を終えた魔法使いは、巨大な炎の魔法を怪物の口の中めがけて放った。

 口の中を炎で焼かれた海の怪物は苦しみに悶えた後、その瞳の色を真っ赤に変えて激しく怒り、船を沈めようと複数ある足のすべてを船に向かって伸ばそうとした。

 しかし、根元に近い部分で斬られた足はどれも攻撃に役立つほど再生されていない。唯一長く伸ばすことが出来た最後の一本も、振り上げると同時に剣士によって斬り落とされた。怪物は、十本もあった足をすべて失ったのだ。

 役目を全うした剣士は、怪物の胴体から跳躍して船へと移動する。

 味方が無事に戻ったことを確認した戦士は、船に積んであった斧を持つと、怪物に強烈な一撃を与える。その衝撃で、怪物は仰向けに倒れた。大きな波飛沫が上がったものの、その体は海の中に沈むことなく海上に浮かんでいる。

 勝敗は決した。

 この怪物が海の中に戻る為には足か胴体を動かさなければならなかったが、足の再生には時間がかかり、口の動きを槍に封じられた状態では胴体を動かすこともままならない。

 相手がどれだけ巨大な存在であろうとも、動けないのならば御すのは容易いことだ。舳先の人物は船を怪物に寄せた。徐々に再生を始める短い足の攻撃を戦士が盾で防ぎ、剣士と魔法使いが怪物に攻撃を加える。

 多くの船を沈めてその腹に呑み込み、船乗りのみならず国中の人々に恐怖を与えた海の怪物は、今、三人の勇者によって葬られようとしていた。

 怪物は徐々に暴れる力を失い、傷ついた体の再生速度も落ち、瞳が放つ力も弱々しくなっている。

 そして。

 勇者たちは、怪物に最後の一撃を放った。

 大海原に海の怪物の断末魔の声が轟く。

 嵐が止み、雲が晴れ、空から光が射しこんだ。

 清浄な光に照らされて、怪物の体が崩れていく。

 勇者たちは、海の怪物討伐を成し遂げたのだ。

 穏やかさを取り戻した海を見渡した後、舳先に立った人物が勇者たちの方へ振り返り、微笑む。

「ありがとう。勇者たちよ。これで海の平和は……」

 魔法使いが甲高い悲鳴を上げる。

 言葉を途中で失った人の胸から槍の頭が顔を出し、そこからは血が流れているのだ。

 剣士と戦士は慌てて武器を構え直して怪物を見たが、その姿はすでに輪郭もわからないほど崩れている。

 最後の一撃を放つ力を残していたとでもいうのだろうか。舳先の人物の胸を背後から貫いたのは、戦士が怪物の下顎に刺していた槍だ。

「すまない。槍の回収を忘れたのは私のミスだ。皆が無事で良かった」

 舳先の人物は自らに刺さった槍を引き抜くと、槍を船の中に置いた。

 胸を押さえながら立ち上がったものの、その顔は青白く、流れ出る血が止まる様子はない。

「案ずることはない。この体を失ったとしても、お前たちを安全に港まで送り届けることは可能だ。国へ帰って報告すると良い。怪物は討たれ、海の平和は取り戻されたと」

 船は誰も操縦していないというのに、港に向かって動き始める。

「この体は役目を終えた。後のことは頼む」

 舳先の人物は、その体を海に向かって倒した。

 小さな波飛沫が上がり、海中に死を迎えた体が沈んでいく。

 勇者たちは神へ祈りを捧げた。

 海の怪物討伐の為に勇者たちを導き、舳先に立って船を操っていたのは、この国が信仰する神の化身だった。

 

 

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ヨルムンガンドの国 智枝理子 @kotokotomoeda

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