みどりの鮫小紋
増田朋美
みどりの鮫小紋
その日も暑い日であるが、朝晩はなんとか涼しくなってきたかなと思われる日であった。もう中秋の名月も過ぎて、月見団子も食べてしまって、さてこれからはお彼岸である。全く日本の季節行事というのは正月から始まって、春夏秋冬、本当に多い。省略しても良いのではと思う季節行事であっても、日本人は大事にしていることもある。それはある意味、大事にしているというより、縛られているような気がする。
その日、杉ちゃんと水穂さんは、製鉄所の中で、カールおじさんこと増田カールさんの、着物の訪問販売を受けていた。眼の前には、銘仙の着物が何枚も置かれている。杉ちゃんの隣には由紀子がいるが、由紀子はなぜか難しい顔をしていた。
「全く。」
と、由紀子はつぶやいた。
「新しい着物を着てくれれば、少し気持ちも変わってくれるかと思ったのに、こんなことになっちゃって。」
「まあ、気にするなよ。」
杉ちゃんは由紀子を慰めた。
「でも、水穂さんには、銘仙の着物ではないものを着てほしかったわ。そうすれば、もう少し、楽になれる気がしたから、カールさんに来てもらったのに。」
「まあしょうがないじゃないかよ。水穂さんには、あたらしい着物のことなど通用しないよ。それに、羽二重とか、そういう高級な着物きたら、水穂さんぶっ倒れてしまうよ。だから、しょうがないものは、しょうがないよ。」
杉ちゃんがそう言うと、由紀子ははあと大きなため息をついた。それと同時に、製鉄所の玄関の引き戸がガラッと開いて、
「こんにちは。浜島です。ちょっと相談に乗ってもらいたくて来ました。私の着物のことで。」
と、サザエさんの花沢さんの声ににた女性の声が聞こえてくる。
「良いよ、はまじさん入れ。」
杉ちゃんがいうと、咲は、
「言われなくてもそうするわ。」
と言って、製鉄所の縁側にやってきた。確かに、着物姿ではあった。だけど、絹のような裾が触れ合う音もしないし、着物に光沢がなく、また地紋もないので、正絹の着物ではないことがわかった。なぜか、顔中に汗が吹き出ている。
「浜島さん一体どうしたんですか?なんかすごい暑そうだけど。」
由紀子は思わず聞いてしまった。
「そうでしょう。暑いわよねえ。だけど、苑子さんと来たら、うちの教室に来るときは、暦通りに着物を着なければだめだって言うのよ。だからこんなに暑いのに、もう袷の着物なのよ。」
と、咲は、花沢さんに似たような声で、そういうのだった。
「今お前さんが着ているのは、正絹の着物ではなくて、ポリエステルの着物だよな?それで怒られたのか?」
杉ちゃんが聞くと、
「ええ、あたしはね、汗が出てたまんないから洗える着物で出勤したの。だけど苑子さんたら、羽二重の色無地か江戸小紋を着てこなければだめだと言うのよ。あたしたちは、お琴で遊んでるわけじゃない。ちゃんと、お琴を誰かに伝授しているんだって。確かにそうかも知れないけどさ、こんな暑い日なんだもん、洗える着物だって良いじゃないの。それはいけないことなのかしら?」
と咲は、そういうのであった。
「まあ確かにそうかも知れないけどねえ。お琴教室の苑子さんの気持ちもわからないわけではないし、難しいところだなあ。確かに、もう彼岸も近いし、袷を着ることは、着る季節なんだ。それに、汗が出るから洗える着物を着たいという理屈もわかる。だけどねえ、、、ポリエステルを、着物の仲間として認めないという人もたくさんいる。」
と、杉ちゃんが腕組みをしていった。
「そうですね。正絹の着物を作る側としては、ポリエステルにそれを盗られてしまって恨んでいることも確かにあるでしょうね。」
水穂さんがそう付け加えた。
「そうなると、やっぱり暑くても正絹の着物を着なくちゃならないのかしら?」
咲は、不服そうに言うと、
「まあそういうこっちゃな。それに、着物は洋服の感覚で着れるということは、まず無いからねえ。着物と洋服は、切り離して考えなくちゃ。だから、いくら洋服で半袖を着ていていいとしても、着物では袷を着なくちゃだめってことは、多いんだよな。」
杉ちゃんがそう説明した。
「きっと、着付け教室行ったって、そういうこと言われると思うよ。」
「そうかあ、、、。」
咲は、大きなため息をついた。
「だけどねえ、今の私を見てくれてもわかる通り、汗が吹き出てたまんないのよ。なんとかならないものかしらね。正絹の着物だと、しみになっても洗えないでしょ。それじゃあ困るじゃない。なんとかそれを解決できる方法が無いかなってそれを相談に来たんだけどなあ。まあ確かに、あたしの仕事じゃ、着物で出勤しなくちゃだめってことはよく分かるけど、こんな暑い中袷の色無地で出勤なんて、もう気が滅入ってしょうがないわ。」
「まあ浜島さんの気持ちもわからないわけでもないですが、ここにいる由紀子さんだって、どんなに暑くても、制帽を被らなければなりませんよね。それと一緒ですよ。」
水穂さんがそう言って咲を慰めた。確かに、由紀子は、駅員の制帽をかぶっている。それは、岳南鉄道に所属しているだけではなくて、仕事への気を引き締めるためにかぶるものでもあった。
「そうかあ。せめてヨーロッパ人みたいに、合理的になんとかとか、そういうわけにはいかないのかしらね。まあ、日本人は、変化が下手だって言うけど、苑子さんみたいな人は、一層下手になるのかしら。」
咲としては、この暑さでの愚痴を、言いふらしたいようであった。確かにそれを言いたくなるほどの暑さである。だけど、苑子さんのような、日本の伝統にがんじがらめになっている人は、、、そういうわけには行かないという気持ちになってしまうのかもしれない。
「ちょっとまってください浜島さん。」
と、着物を畳んでいたカールさんが言った。
「僕の店でも、そういう相談が続出していましてね。この夏は正絹の着物があまり売れないという、現象が起きてしまったんですが、それではいけませんから、化繊の着物を多く入荷するようにしたんですよ。確かに、明らかに化繊という着物もあるのですが、中には東レシルックのような、正絹と見分けがつかない洗える着物もありますよ。それをつかったらどうですかね?」
「よしなよしな、化繊でごまかそうって言ったって、そうはいかないよ。必ずどこかでバレちまうよ。いくらポリエステルが頑張っても、羽二重には勝てないよ。」
杉ちゃんがそう言うが、
「それって本当にあるのかしら?」
咲は、カールさんに聞いた。
「ええ、うちでも結構売れてて、評判なんですよ。中には、結婚式に着用していった例もありますから、帯を豪華にしたりとか、ごまかすことも可能なんじゃないでしょうか?」
と、カールさんは答える。
「例えば、咲さんが、お琴教室に通勤するとき使うんだったら、こういう感じの江戸小紋はいかがでしょうか?」
カールさんはトランクを開けて、着物を一枚出した。確かに、緑色で、鮫柄と言われる細かい点を敷き詰めた、一見すれば鮫小紋と思われる着物である。
「こちらの着物は鮫小紋の柄なんですが、素材は東レシルックです。どうでしょうか?これなら、正絹のように見えるでしょう?」
「まあ、確かにさらりとした手触りだけど、光沢が無いよ。すぐバレちまうんじゃないの?」
杉ちゃんは、着物を触ってみてそういうのであるが、
「でも、紋意匠は地紋のみが光りますし、一越の生地は全く光りません。正絹でもそういう生地があるのですから、それと同じだと言って、誤魔化せませんかね。」
と、水穂さんが言った。
「ああ無理無理。化繊はね、まだ着る人の主観がすべてで、着物としての市民権は得ていません。だって、道路歩いてたら、着物お直しおばさんに、化繊をやたら着るなって、注意されたっていう人の話を聞いたことがあるよ。いくら紋意匠だ、一越だって言ってごまかしても、化繊は正絹には追いつかないよ。着てみたらすぐわかることじゃないか。正絹を着たときの感触は、絶対再現できないって言われるじゃないか。」
杉ちゃんは心配そうにそういうのであるが、
「でも、あたしに取っては切実な問題よ。だってこんな暑いのに正絹着ていくなんて、着物にもあたし自身にも、良いことじゃないわよ。そういうことなら、この着物、買っちゃおうかなあ。カールさんこれ、いくらするのかしら?」
咲は、グリーンの鮫小紋を取って言った。
「ええ、どうせ売れる見込みがないので、2000円で結構です。鮫小紋はもともと人気のある柄じゃありませんからね。一応、年齢未婚既婚関係なく着られると言われますが、若い人は礼装にするなら振袖が入手できるので買わないですし、年輩の方もこれではつまらないと言って、他の着物を買ってしまうので、すごい不人気なんです。」
「は。はあ、2000円!全く可哀想な値段ねえ。じゃあカールさん、2000円出しますから、領収書をお願いします。」
咲は、カバンの中から財布を取り出し、2000円をカールさんに渡した。カールさんは、今日は商売大繁盛だと言って、咲に領収書を書いて渡した。
「ありがとうございます。じゃあ、明日はこの着物で出勤してみよう。苑子さんの目をごまかせたら、もう最高!」
「そうだねえ。化繊はバレるとその時が本当に怖いから、袋帯の豪華なやつ、例えば松とか梅とかそういうやつをつけて、やる気あるんだってことを示すと良いよ。」
杉ちゃんがアドバイスすると、
「わかってるわよ。杉ちゃん。あたしのところにあるのは、作り帯ばかりだけど、その中に松の帯もあるから、それで、頑張ってごまかすわ。」
と、咲は着物を受け取って、にこやかに笑った。
「まあ、着物っていうのはね、難しいところもあるけれど、それが楽しいと思えるようになるのが、偉い人からの注意を退けられるコツだよな。」
杉ちゃんはボソリと言った。
その翌日、咲は、昨日買った東レシルックの鮫小紋を着て、背中部分に大きな松を入れた、名古屋帯を締めた。性格には作り帯で、一重太鼓の作り帯である。胴に巻く部分をまき、そこに、お太鼓を差し込み、帯揚げに包んだ帯枕で固定し、帯締めをつけて完成。非常に簡単である。それがあるから咲も着物が着られるのだった。もし作り帯がなかったら、こんな仕事できなかったかもしれない。
咲はカバンを持って、フルートも持って、自宅を出た。苑子さんがいるコミュニティセンターは、バスで20分ほど行ったところである。咲はバスに乗って、コミュニティセンターの前で下車した。そして、コミュニティセンターの入口をくぐって、貸し会議室である、1号室へ入る。ちょっとここに入るには緊張するのであるが、咲は、ドアも叩かず入ってしまった。
「おはようございます!苑子さん!」
咲が部屋に入ると、苑子さんは部屋の中にいた。すでに琴を三面準備している。もう琴柱を入れて、調子笛で音を調整しているほどであった。
「あら咲さん。今日も一日、よろしく。」
という苑子さんであるが、咲が緑色の鮫小紋を着ているのを見て、表情が急に険しくなった。そして、
「また化繊の着物を着て!」
というのであった。咲はもう頭に来てしまってそれでは、本音を言わなければならないなと思って、
「こんな暑い日に、正絹の着物なんて着られるわけ無いじゃありませんか!だって、汗が出て、襟とか裾とか汚れてしまうでしょ。その手入れだって正絹では不可能に近いのに、なんで化繊の着物ではだめなんです!」
と言ってしまったのだった。
「日本の伝統には、ポリエステルなんてものはなかった。」
苑子さんは言った。
「そうかも知れないですけど、でも、こんな暑い中正絹の着物なんか着ていかれませんよ!」
思い切って咲は言ってしまう。
「もう、暑くて仕方ないですから、正絹より化繊のほうがずっと良いじゃありませんか!」
「そうかしら!」
咲がそう言うと、苑子さんも言った。その顔は、これ以上同じことを言わせるなと言う感じの顔であった。苑子さん自身は、こんな暑い日なのに、黒留袖に袋帯を結んでいる。咲にはそれが信じられないのであるが、確かにエアコンが効いているとはいえ、本当に暑いと思う。
「それでは最初の生徒さんがやってくるわ。喧嘩している暇はないわよ。今日はそれで良いから、ちゃんと正絹の着物を着てね。最初の生徒さんの曲は、夏の曲だったわね。」
苑子さんが教えているお琴の曲は古典箏曲であった。苑子さんは流行りの現代箏曲を一切教えない。例えば沢井忠夫とか牧野ゆたかのような人物の作品は、お琴の作品ではないと言って、一度も取り上げたことがない。よく演奏される春の海も、取り上げたことは無いのである。咲にしてみれば、尺八のパートを吹くのが仕事であるが、古典箏曲の尺八パートは、なんだかどの曲も同じような動きで、つまらないものがあった。
「おはようございます。」
と、最初の生徒さんがやってきた。生徒さんは、よく苑子さんが用意した規律を守る人で、やはり羽二重の色無地を着用している。
「おはようございます。よろしくお願いします。えーと、今日お稽古する曲は、夏の曲ね。じゃあ、一度やってみましょうね。」
と苑子さんは琴の前に座った。咲も急いでフルートを組み立てた。生徒さんは、頑張って夏の曲を弾きながら歌った。古典箏曲にはだいたい歌がついてくる。それを歌うのだって結構高度な技術が必要であるが、生徒さんは一生懸命やっている。一生懸命やれば当然、汗もでる。どうしてこんな時期に袷の色無地を着させて、こんな汗を出させるのだろうかと、咲はフルートで尺八部分を吹きながら思うのであった。
「そうね。よくできているけど、ちょっと、割爪が少し詰まるわね。もう少しゆっくりやってみて。」
苑子さんは、そう彼女に言った。どうしてそんなことがわかってしまうのだろうかと咲は思ってしまうが、苑子さんにはそう見えるのだろう。苑子さんは、ゆっくり手本を示しながら、割爪の技術を教えていった。
「あとは歌のところで、少し間違っているところがあるから、それも一緒に歌ってみましょうね。」
苑子さんは、そういった。生徒さんと一緒に琴を弾きながら歌っている苑子さんを見て、咲は、なんだか苑子さんが、孤立しているというか、孤高の理想主義者みたいなそんな感じがしてしまった。咲も、山田流箏曲の重要な出版社である博信堂が潰れているとか、山田流の爪や琴柱と言った部品類が殆ど入手できないことも知っていた。だけど苑子さんは絶対生田流の部品で代用しようとか言うことはない。楽譜だって、自分の持っている楽譜を手書きで書き写して、生徒さんに渡している。そういうことからも、苑子さんが他の流派に譲歩しようと考えない理由が咲にもわかるような気がした。
「ありがとうございました。今日も琴を教えていただいてとても楽しかったです。」
と、生徒さんは、頭を下げて帰っていった。60分の稽古ではまだ見きれないほど、夏の曲は大曲である。一度やっただけでも20分はかかってしまう。奏者によっては、繰り返しを省略するなどしているようであるが、苑子さんは絶対そういうことはしない。そういう態度からも、咲は苑子さんが必死に古典箏曲をなんとか維持したいと思っているんだなということがわかった。
しばらく休憩して、2番目の生徒さんが来た。この生徒さんはまだ初心者で、やっと六段の調べが弾けるようになったばかりだ。その女性にも苑子さんは容赦しない。やはり羽二重の色無地を着ることを義務つけている。どんなに彼女が間違えても、必ず羽二重の色無地を着てねと叱る。しかし、羽二重がどんな生地であるのかとか、着物の細かいことは一切教えなかった。そのあたりは、自分で調べろと言うことか。そんなに厳しい苑子さんであっても、生徒さんが集まるのは、山田流を教えている音楽教室が非常に少ないこと、他の教室が、高齢化で廃業したりすることが多いことが理由であった。そういうことならもうちょっと時代にあわせてもいいのになと咲は思うのであるが、苑子さんは一切そういうことはしなかった。
生徒さんが帰っていって、琴を片付けている苑子さんに、咲は、なにか声をかけようとしたが、苑子さんも黒留袖に汗びっしょりである。そういうところから、咲は、苑子さんも苑子さんなりに、辛い気持ちでいるのかなと思った。咲は、そうねと小さい声で言って、琴を片付けている苑子さんに、こう聞いてみた。
「私の着物が正絹じゃないって、苑子さんどうしてすぐに分かってしまったのですか?」
「だって、名古屋帯、一重太鼓は、江戸小紋につけるものじゃないからよ。」
苑子さんは即答した。
「そ、そうなんですね。」
咲は、もう苑子さんに反抗はできないなと思って、はあと一つため息をついた。
「そうですか。あたしもまだまだ、勉強が足りてなかったわ。もうちょっと、着物に付いてしっかり勉強しなければだめね。日本の伝統ってのは、ホント、難しいわ。」
「そうだけど、日本人である私達が、理解しなくてどうするの?」
咲がそう言うと、苑子さんはそういった。そのセリフは非常に重いものがあった。確かに、日本の伝統は、誰のものでもない。他の国の人のものでもない。だから、暑い季節であっても、汗が体中から流れ出ようとも、正絹の着物を着なければならないんだと咲は身を持って知った。
その日、咲は、仕事を全部やり終えると、まっすぐ自宅へ帰らないで、別のバス停でバスを降り、カールさんのやっている増田呉服店に立ち寄った。咲がカールさんの店に入ると、売り台の着物を整理していたカールさんが、
「ああ、浜島さん。どうでしたか?着物、バレちゃいましたか?」
と、優しく声をかけてくれた。
「ええ、やっぱり、日本の伝統は、難しいわ。帯の結び方で正絹ではないってバレちゃった。まあ、あたしも勉強不足ねえ。」
咲が苦笑いすると、
「そうですか。やっぱり、着物は新しい文化というか、そういうことにはならないですかねえ?」
とカールさんは聞いた。
「そうね。着物で、いろんなことしていくのは確かに難しいかもしれないわね。」
咲は、そう言って大きなため息をついた。みどりの鮫小紋は、確かに羽二重そっくりに見えるのだが、それでは行けないのかなと咲は思った。
みどりの鮫小紋 増田朋美 @masubuchi4996
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