第5話

 チャイムの音で目が覚めた。みんなから少し遅れて起立、礼。同じような生徒が数人。あなた達は夢を見た?私は見たよ。もう忘れたけど。

 佳をお昼に誘ってやらなくちゃ。意味ないんだろうけど。

 あいつ、結局中学の頃と対して変わらないような友達作って、一人になった時にすごく疲れた顔してる。どうせそうなら初めから身の丈に合った高校にしておけばよかったのに。でもそれは私も一緒か。中学生の頃がすでに恋しい。友達がいて、あいつも私を見てくれて。「お昼一緒にどう?」なんて台詞を言うのが、悲しい日課になって、毎日一人でお弁当食べるくらいなら、最初からこんな所に来るんじゃなかったな。

 高望みはやめられない。

 自分の中の少女は愛している、短く儚いものだから。でもわがままな子供みたいなところは大嫌い。それなのに、体も心も佳の方へ向かっていく。

 始業の前から一切変わらない机の上のあれこれをそのまま残して、あいつの席まで行く。教室の風景はさっぱりとした透明。あいつ以外のクラスメイトはまるで透明人間。色付く余地はまるで無し。その隙間をするすると縫って、あいつの所まで一直線。自分でも怖くなるほど病的だ。私の奥底で燃える、少女の短い命。その煙を吸い込んでトリップ!原色の風が吹く目が回るような青春!佳!あんたも連れて行ってあげるから。さあ、今日こそは!もう何度目だろう。意味もなく意気込んで。

「佳、お昼一緒にどう?」

 川田の声も、その上を流れる言葉もいつもと変わらないのに、嘘みたいに大きい心臓の鼓動が邪魔をして、まるで幻聴、頭の中から聞こえるみたいだった。自分の心臓の音って聞いたことあっただろうか。俺、なんか変だ。川田の声が聞こえてから何秒たった?ずっと固まってる。気がつけば机もほとんど片付いていない。ノートだけは閉じておいてよかった。時間の感覚が狂う。何秒たった?何か言わなくちゃ。誘いを断る以外の言葉を必死に探して、呼吸の隙間に滑り込ませた。

「……いいけど、ここじゃなくて外で食べよう。俺いつも中庭だから、教室じゃ落ち着かない、ほら、雨も止んだし」

 危うく麻薬の効果が切れるかと思った。いや、もうそんなもの必要ないのかもしれなかった。ずっと固まったままで機嫌が悪いのかと思ったら何考えてんの、こいつ。いいの!?脳内を過ぎる、何度も見た幻覚の先の理想の現実。虚しいものじゃない、質量を感じるほどの高揚に襲われて、頭がどうにかなりそう。でも、高望みは駄目。落ちてしまってはきっと怪我どころの話じゃない。「いいの!?」なんて口には出さない。無邪気さだけが少女ではない。

「わかった。でも佐藤くん達はいいの?教室に居ないし、先に行ってるんじゃないの」

「今日くらいはいいよ」

「そう、じゃあ行こう、外、カバン取ってくる」

「うん」

 川田が真っ直ぐ廊下へ向かう。一度もあいつのことを見なかったことを除けば、思ったよりも自然に会話ができた。おかげでやっと体が動きそうだ。底が見えない谷底に飛び込むほどの決意のもと放った俺の言葉に対する反応が、全く釣り合わない冷静なものだったのも、もどかしさもあったけれど安心した。この後の結果がどうなろうといいんだ、そうだろう?でも、できれば、なんて思ってもいいだろう?あの頭の中で見た映像、あいつの隣に俺が居てもいいだろう?

 すぐに立ち上がって、川田の背中を追いかけた。

「行こう」

 教室前の廊下から、中庭の真ん中に咲く薄い赤紫の紫陽花を見下ろしていると、声が聞こえた。振り返ると佳が立っていた。どうも意識がぼやけている感じがする。風景も人も、拍車をかけて無色透明。好都合。幻覚が現実に飛び出した時にそれらはきっと素晴らしく彩られる。

「うん。でも外ってどこ?中庭意外にどこか座れるところあるの?まさか立ちっぱなしで食べるとか言わないでしょう!?」

 視線が上がらない。振り向いた川田のスカーフばかりに目がいってしまう。そこだけに色が付いている。今日は赤だった。昨日見た中庭の紫陽花に似ている。頭の中で見たものよりもずっと淡くて、少し紫がかっていた。

「第二体育館の裏。あそこなら屋根があるし座れる」

「ああ、なるほど」

 佳が先に階段の方へ歩き出す。視線を上げろ!目を見て話せ!なんて言えないけれど言ってやりたい。そんなんじゃ昨日までと変わらない。展開が違う分、余計な不安が過ってしまう。そこで絶縁の話でも切り出すつもり?まさかね?こんな不安で、せっかくの気分の高まりを邪魔しないで。

 目を見て話せ。目を見て話せ。階段を一段一段踏み抜く足音が聞こえるたびに、頭の中で響く。俺の足音なのか、すぐ後ろにいる川田のものなのかはわからなかった。目を見て話せ。なんでもいい。とにかく、今すぐ振り返って、目を見て……。そう思って、つま先から視線をあげた瞬間、水滴がぽつぽつと張り付いた窓の外に、紫陽花が咲いているのが視界に飛び込んできた。淡い赤紫、中庭のやつだ。いつの間にか一階に着いていたようだった。ここからでも見えたんだ。閃光、何かが弾けた。考えるよりも先に体は動いて、振り返っていた。川田は思ったよりもすぐ後ろを着いてきていて、俺の肩が川田の鼻先をかすめそうになった。自然と顔を見ていた。

「うわっ!びっくりさせないでよ、何?」

 急に止まって振り向くものだから、本気で心臓が止まるかと思った、ことなんてすぐに忘れてしまった。佳の二つの瞳が私をみていた。身長差があっても、こんなに見上げるような距離で佳と目が合ったこと、今までなかった。

「見て、紫陽花が咲いてる」

 それを言うために急に振り向いたわけ?咲いてることなら知ってるし、何より目の前に佳がいて見えない。

「あんたが邪魔で見えないよ」

 呆れたように笑いながら、弾むような無邪気な声でそう言いながら、川田は体と首を傾けて、覗き込むように俺の後ろの方を見る。その顔と声に表情を見るのは、なんだか久しぶりな気がした。さらりと流れる宝石みたいな黒い髪に吸い込まれてしまいそうだった。

「ああ、ごめん」

 そう言って、佳は一歩後ろに下がった。少しもったいない気がして、苦笑いで離れていく姿を追いかけてしまいそうになった。窓の向こうに見えた紫陽花は少し遠くて、水滴にいろんな光が反射して、あまりよく見えなかった。

「ほんとだ!咲いてる。ねえ、もっと近くまで行かない?ここじゃ遠くてよく見えないよ。せっかくなのにもったいない」

 川田の視線が窓の外と俺を交互に行き来する。そして窓の外の方へ行くたびに、潤んだ瞳に小さく紫陽花が映った。色も形もはっきりとはしていないのに、それが綺麗だと思った。

「すぐ近くで咲いてるよ」

「え?」

「川田が外の方をみた時に、川田の目の中に咲くんだよ、すごく綺麗に」

 ずいぶんと趣深いことを言うじゃないか。口説き文句に使えそうだ。あと少し、幻覚の先。

「川田さ、いつだったか、紫陽花が好きって言ってただろ。俺も好きだよ、漢字でだって書ける。本当はその時に言えればよかったんだろうけど、さっき授業中にそのこと思い出して、ついさっき好きになったんだ。まだ紫陽花は好き?」

 言えた。後はどうなったって構わない。瞳に咲く紫陽花が、震える雫に移って、川田の頬を流れては消えた。それをずっと見ていた。

「……好きだったよ、もちろんずっと。……そう言ってくれるのを待ってる間もずっと。でもちょっと待たせすぎだと思わない?ねえ!」

 視界が滲んで、白さえ透けてしまいそうだった世界に色が戻ってくる。少女の命がただの幻覚剤として燃え尽きてしまう前に、ようやく、たどり着いた、いや、連れてきてもらった現実は、原色に彩られた華やかな幻覚の世界よりもずっとくすんだ色をしていて、美しかった。小さな熱の塊が頬を滑る。佳の顔を見れなくて、代わりにずっと、窓の向こう、遠くに咲く紫陽花をみていた。けれど、久しぶりの色の付いた世界は、それもこんなに滲んで震えているんじゃ、距離感が少しおかしくなってすぐ近くで咲いているように見えた。水に絵の具を垂らしたような、すぐに消えてしまいそうな繊細さで咲いていた。今はそれが透明にならずにちゃんと見えた。その隣で、視界の隅で佳が笑った気がした。私の瞳に咲くという紫陽花は、こちらを見るその瞳に、まだ映っているだろうか。

 


 




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

瞳に咲く のぞむ @yohiranoniwa

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ