第4話
川田はまた居眠りしている。ほとんどの授業でそうだ。それなのに、内容についていくのに必死になって息切れしてもギリギリ真ん中くらいの順位だったこの前の初めてのテストも、あいつは当然のように一位だった。県内ならどこの高校だって行けただろうに、こんな所にいるのがやっぱり不思議だ。似合わない。辞書を枕にして寝てる奴は教室に数人いるけど。川田がそうしている姿にはなぜか少し腹が立つ。それは俺の中にある川田への何らかの感情の裏返しみたいな感じがした。愛おしさなんだろうか。
「役者のつもり?下手くそだよ」
いつだったかな、一度だけ川田に言われたことがあった。誰かといるときに、ほんの少しだけ感じる息苦しさみたいなのを、何気ない感じで見事に言い当てられた。そんなことを言ってきたのはあいつだけだった。でも、みんな気づいていたんだろうか。俺がどうしようもない見栄っ張りだって。気づいていたと思いたい。その上で関係を続けていてくれたんだって思いたい。そうじゃなきゃみんな下手な役者の友達なだけで、俺の友達なんて一人もいなくなってしまう。息苦しさは辛くても、友達がいることは嬉しかったんだ。傲慢だろうか。
授業は退屈だ。小説ならまだまし。でもましってだけで、娯楽として読むのとは違う。授業はストーリーを読ませてはくれない。湧いてくる感情なんて置いてけぼりで、どこまでも合理的に読まされる。そんなのは今やってるみたいな評論の授業だけでいいんじゃないか?駄目なのかな?よくわからないけど、退屈な授業、せめて小説くらいはもっとラフでいいんじゃないか?俺だって寝たい。気がつけば授業なんてどうでもよくなっていて、窓の外ばかり見ていた。相変わらず雨だ。この季節、地味であまり好きじゃない。陰気な感じがして嫌だ、何もかも。同族嫌悪的なものなのかもしれない。そんなふうに思った。
川田は好きなんだっけ、梅雨。なんで?俺みたいだから?違う、自意識過剰だ。なんで?
「わたし、あじさいが好き」
そうだ、あじさいだ。だからさっき今日しかないと思ったんじゃないか。自分の言葉さえすぐ忘れるの、いい加減どうにかならないかな。
授業中、一度も使ったことのない、それでも一応現代文の時は律儀に準備しておく国語辞典を開いて、あじさいを調べた。漢字でどう書くのか、なんとなく知りたくなったから。
紫陽花。シ、ヨウ、カ。
なるほど、こんな字なんだ。
紫陽花紫陽花紫陽花紫陽花……。
ノートに何度も書いた。歪んだ下手くそな字でも、紫、陽、花の並びがなぜだかとても美しく見えた。俺も紫陽花が好きかもしれない。それ自体が好きなのか、この字が好きなのかはまだわからないけれど。
川田よいち
隣の行に、川田の名前もひとつ書いた。汚らしい震えた線。中学生の頃から何百、何千と同じ名前を、気がつけば書いていた。それなのに、今日もうまく書けない。きっと他の文字、言葉より何倍も多く書いてきたはずなのに、それの何倍も線が歪んで這い回る。川田みたいに字が書きたい。あいつが「川田よいち」って書くみたいに、あいつの名前を書いてみたい。
紫陽花
川田よいち
大村佳
並べて書いてみた、なんとなく。頭の中に、モノクロームの紫陽花の隣に立つ、セーラー服姿の川田が見えた。背景の無い真っ白な空間で、川田の顔だけが、あいつのいろんな表情を混ぜたみたいにぼやけていた。川田のスカーフに色を付けてみる。水色なら紫陽花も水色に、赤なら赤になって、なんと言うか、綺麗だった。めくるめく色を変える小さな花びら。その花びらを無数に携えた紫陽花も、その隣に立つ川田も好きだった。でも顔だけがずっと……。笑顔を想像してみても、怒った顔を想像してみてもずっと……。川田の隣に自分を並べようとしてみてもずっと、並ぶのは歪んだ大村佳の文字。
川田の頭の上に文字が浮かぶ。
『人を好きになるって、その人が好きなものを好きになること』
『わたし、紫陽花が好きなんだけど』
『佳もそうだよ、だってわたしのことが好きだから』
『少しは素直になってみたら?』
チャイムが鳴った。どこか遠くで鳴ったみたいに他人事に感じた。
「起立」日直の号令の声、遠い。でも身体は勝手に動いてくれる。
「礼」遠い。でも動く。心ここに在らず。それどころじゃないんだ。
そうか、川田は。そうか、ずっと川田は、紫陽花が好きだって言って欲しかったのかもしれない。もしそうなら健気な奴。
一目惚れだったんだ、大人っぽく見えたから。セーラー服だけが川田の少女性で、それがあいつの大人の面影の中で輝いて見えたから。ずっと、そのセーラー服に恋をしていただけだと思っていたから、後ろめたさがあった。でも、川田以外の女子のセーラー服姿を見たってなんとも思わなあったし、たった今、紫陽花が好きになった。花が好きなんて考えたこともなかった。
川田が今でもセーラー服なのが不思議だったけれど、もしかしたらあいつも俺のこと……。
恥ずかしい妄想でも、思春期の粘ついた熱に当てられただけでも、今はどうでもいい。どうなったっていい。そう思っていても、心臓は高鳴り続けて、決して落ち着かなかった。いつのまにか雨が止んでいて、灰色の空が妙に近くに見えた。
戦闘、開始!どこかで読んだ。
戦闘、開始!戦闘、開始!戦闘、開始!鳴り続ける。戦闘開始。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます