美の標本
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美の標本
【1】
静まり返った小さな部屋。締め切ったカーテンから僅かに光が漏れている。
暖炉でパチパチと弾ける火の粉。微かに聞こえる家鳴り。静かな部屋だからより明瞭に聞こえる。
部屋には家の主である男とその妻がいた。
妻は静かに眠る。寝息も立てず静かに。二度と目を覚ます事はない。
その様子を隣でただ眺める。悲観する事なく、項垂れる事なく、ただその事実をどこか他人事のように俯瞰する。
男の妻は病であった。不治の病。若くして体を悪くした悲しい女性。
彼は妻の為に身を粉にして働いた。働いていたと自負している。その甲斐が実り、貿易という分野で成功を治め、最近新たに大きな事業を計画していた。その矢先の出来事である。
男は妻の危篤を聞き、夜中であるにも関わらず隣町から山を抜け、一目散に駆け付けた。その甲斐あり、事切れる寸前、瞬く程の間……会話を交わすことが出来た。それが丁度二時間前。
男から見る妻の表情は穏やか。まるで眠っていて、やがて目を覚ますのではないかと思ってしまう程に自然。吐息の幻聴が聞こえてきそうになる。一種の芸術品の類と言われたら「そうだろう」と納得する。
芸術。
脳裏に浮かんだその言葉は、山を抜ける途中出会った、とある魔女と芸術家の少女の事を思い出す。
奇妙な出会いを思い出す。
【2】
妻の体調が悪化した事を聞いた男は馬車を走らせる。
彼がいる町から妻のいる村まで、距離はそう遠くはない。しかし町と村の間には山があり、大きく迂回する必要がある。
焦っていた男は山を迂回するのではなく、越える事を考えた。そうすれば距離が短い。早く辿り着ける。そういう思考に囚われていたのだ。
馬車で通り抜けられる道を知るという青年を雇い、男は山道を走る。
周囲は深い夜が覆っている。木々の輪郭もぼやけるほどの闇。月明かりを鬱蒼とした葉や枝が喰らう。頼りになるのは青年の勘とささやかなランタンだけだった。
フウフウと馬の上がった息が聞こえるが、それよりも胸を打つ心臓の早鐘の方がうるさい。悪路で弾む車輪よりも心は大きく揺れる。
それくらい、男は焦っていた。
彼が馬車に乗って一時間程経った頃、突然「バコン」と破裂音に近い音が響く。
馬車は止まった。男の心情を裏切るように。
「車輪がイカれましたね」
悪路が祟ったのか、日頃の整備が甘いのか、そんな事は男にとってはどうでも良かった。重要なのは動き出せるか否か。その一点に尽きる。
「手持ちで直せるかどうか。しばらく掛かってしまうかもしれません」
「それほど待っている訳にはいかないんだ。今この瞬間にも妻は苦しんでいるんだぞ」
「そんな事を言ったって状況は変わりません。そもそもこんな悪路、馬車で行く方がおかしいんだ」
「こっちは金を払っているんだ。お前の抱えているその大金は、私が妻に会う為に払った代金だ。それが叶わないんじゃ、ただじゃおかない」
「だからこうして修理している。何もできないんだからびいびい喚くよりも、静かに座ってくれていた方が僕としちゃあ助かるんですけどね」
普段は温厚な男だが状況が状況なだけにイラつく気持ちを抑えられない。青年の煽りも相まったのだろう。男は青年からランタンをひったくると、一人で森の中へと入って行く。
「ちょっと、何やってるんですか! 戻って来て下さい!!」
「ちんたら君の修理を待っていられるほど、私に余裕はない」
「この森、あまり良い噂がないんだ! 夜な夜な色白の女が現れて消えるって、魔女が住んでいるんじゃないかってもっぱらの噂なんですよ!!」
「それは弱者の戯言だ。何でも妄言に縋って現実を直視できないんだ。だからそういう奴らは日陰で物事を語る。日を浴びる事すら恐れている愚か者達なんだ。そんな奴らの言葉に私が揺らぐはずがない。する必要もない」
男は吐き捨てると、森の中へと消えていった。
残された青年は暗闇の中で途方に暮れる。光源がなければここは何も見えない暗闇。修理しようにも手元すら怪しい。仕方なく近くの木を探って馬を括ると、馬車の中で夜が明けるのを待つ。
あんな身勝手な男、魔女に喰われてしまえば良い。
青年は心の中で毒づくが、男の言葉が頭の中で反響する。その反響に気分が悪くなったので、帽子を顔に掛けて眠る事にした。
「無事に越えられると良いですね」
青年の声に感情は微塵もこもっていない。
【3】
森の中を迷いなく突き進む。まるで、自分がこの森の強者であるかのように。胸を張って威張る熊のように。ズンズンと森の深い所まで歩いて行く。
自分は他の奴らとは違うのだ。自分は大成し、金や権力という力がある。酒場でひもじく泥水を煽る奴らとは違うんだ。あの若造もそうだ。あんな噂を鵜呑みにして自己がないような、適当に生きている奴なんかに、一体私の何が分かるというのだ。
そういう思考がグルグルと巡る。
ピィウィーーン!
動物の声。鳴き声からして鹿。
しかしその声を聞いた男は心底びっくりして声のない悲鳴を上げた。喉元で引っ掛かったのだ。大の大人がこの程度でどうして悲鳴を上げる事があると、歯を食いしばって声を飲み込んだ。一緒に飲み込んだ唾液は固い。
強気に内心で吐き捨てるが、既に男の苛立ちは収まりつつあった。現実に戻ってくるには十分な衝撃を、あの動物の声は持っていた。
正気に戻った男はようやく自分が道に迷っている事に気付く。
ここはどこだ。自分の位置を明らかにしたいが、足どころか腰まで飲み込む夜の闇の中で自分がどこにいるのかなんて分かるはずもない。
頼れるのはランタンの光源だが、その光がさらに森の闇を深くする。自分が孤立しているのだと実感する。
怖い。そんな思考がよぎる。
怖い。抜け出したい。この闇から一刻も早く。ジタバタと彷徨う男の姿は、水に溺れて藻掻く虫のよう。けれど恐怖で気が狂うよりは、狂ったように動く方が、まだ正気でいられた。
森の中を狂ったように駆けずり回ると、闇の奥で小さな光が見える。月明かりとは違う光。
しめた、誰かいる。
男は走る。見失わないように。血の気が戻ってくるような感覚がする。
けれど近づく程にその光が奇怪である事に気付く。
なんだ、この光は。
炎ではない。揺らめきがないからだ。
月明かりではない。朧げな光とは違い明瞭だからだ。しかし月光のような、白く冷たい光を放っている。
段々不安になってくる。この世の摂理とはかけ離れた何かが発する光なのではないか、と。魔女の呪いの類ではないのかと。御者の青年の、在りもしない話を信じてしまいそうになる、弱い自分が顔を出す。
違う。自分はそんな日陰者ではない。男は虚勢を張り、何なら私が正体を暴いてやるという気持ちで光に向かう。
そうして辿り着いた。
そこにいたのは老婆だった。
「へぇ、こんな時間に散歩かい。キノコ狩りには時期が早いだろうに」
「なっ!?」
男の頭に浮かんだのは魔女という言葉。しかしそんなものはいないと振り払い、目の前にいる老婆を良く観察する。
顔の皺からしてかなりの高齢。しかしその姿勢というのは若者と引けを取らないくらいに若々しい。女性には似つかわしくない上着、そして生地の固そうなズボンを履いている。
老婆が着ている上着はレザージャケット、履いているズボンはジーパンである。しかし、そのどれもが大航海時代に住まう男にとっては見慣れぬものであり、遥か未来に到来するファッションである。だから老婆が手首に括るデジタル時計と言うものも、男にとっては魔女が持つ水晶玉と何ら変わらない代物に見えたに違いない。
人は理解の出来ない、得体の知れない女を魔女と呼ぶのだ。
「貴方は魔女か?」
「ああ、そうさ。私は魔女。運命の魔女さ。そしてアンタはこの森に迷った愚かな男に見える」
「あ、ああ。私はこの森に迷ってしまった。ここから出る方法を知らないか?」
ポケットから煙草を取り出した魔女は、それに火をつけて吸う。そして煙を吐く。
「教えたところでこの暗闇から出られる保証はないねえ。方向を言ったところでまた迷うのが目に見えている。……ついて来な。この先に家がある。私のものではないがね。そこに住む人間にわたしゃ用があるんだ。家の主に頼んでみたら、案外入れてくれるやもしれん」
「こんな山に、家ですか。一体誰の」
「言って伝わるか知らんがね。フランシスっつう芸術家の家さ」
「フランシスだって?」
魔女の言葉に男は反応する。彼がその芸術家を知っていたからだ。
そのフランシスという芸術家は、人間の美を題材にした作品を多く世に出す人物で、ここ最近現れた。
一体どんな人物なのか。年齢はおろか男なのか女なのかすら分からない謎多き人物。けれどその芸術家には二つの特徴があった。
一つ目は人体の構造に深い知見があるという事。その芸術家が手掛ける作品は人体の一部、あるいは全身である事が多い。そしてどの作品もまるで本物と見間違える程にリアル。
二つ目は必ずどこかに傷や痣といった醜い要素を、作品に取り入れるという事。美しい女性の彫刻を作ったとしても体の一部、特に顔などには大きな切り傷であったり、火傷の痕のような細工をする。美形な女性の頭部の彫刻にしても顔は苦悶で歪み、後頭部は抉られ、頭部の内臓が細やかに造形される。
独特な世界観を展開している。
美というものを対比にある醜さによって際立たせ、より対象を美しくさせる。それが男の見解だった。
万人向けという作風ではない。しかし刺さる者には刺さるという魅力は持ち合わせていた。カルト的に信仰する者も、またいた。他ならぬ男もその一人である。
得体の知れない老婆について行ってしまうくらいには、心酔していたと言えるだろう。
【4】
男と魔女が山中を進むと、やがて家が現れる。
家は二階建て。壁はあらゆる場所から蔦が伸び、一面覆っている。まるで家が衣を被っているようだ。
その前にはそれほど高くない塀があり、それらを束ねる頭目のように錆びた門が鎮座する。
ポストもある。しかし誰も訪れなかったのだろう。ポストは錆に塗れていた。
魔女は乱暴に門を押すと「ギギギ」と不快な音を立てて開く。中には小さな庭があった。野放しにされた家の壁や門に比べ、手入れが行き届いている。金属製の美しいテーブルとイスが、静かに茶会を催していた。
玄関前の扉まで来る。扉の前にぶら下げられたベルを鳴らす。自分の音を思い出せないのか、ベルの音は鈍い。
扉の奥から階段を下りるような音がする。すりガラスがはめられた扉に人影が映ったかと思うと、扉が開いた。
現れたのは金髪の少女。男は少女を見て美しい人形だと感じた。瞳はガラス細工のように繊細な青。きめ細かい肌。月光によって光を帯びる金の髪。これら全てが自然に生まれたなんて思えなかったからだろう。レースが使われた可愛らしい衣装も、それを後押しする。
「やあ、こんばんは魔女さん。そちらの方はどなたかしら」
開いた口から発する声は鈴のように綺麗だが、大人びた印象も感じる。
「ああ、森で迷っていた遭難者だ。フランシス、どうやらこいつはお前さんのファンらしい。こいつにも招待状を送ったのか?」
男はその事実に驚いた。男の想像していたフランシスは皺の多い老人だったからだ。しかし動揺を顔に出す事はしない。それが礼儀であり、信仰心の示し方だからだ。
男は深くお辞儀をすると自己紹介をする。汗ばんだ手をハンカチで拭き手を差し伸べる。
「初めまして、フランシス様。私はヘンリー。お会いできて光栄です」
男の挨拶にフランシスは微笑し、差し出された手と握手する。
「ご丁寧にどうも。そう畏まらないで良いというのに。貴方からしたら私という存在は、山に籠る世間知らずの子供としか見えないでしょう?」
「そんな事はありません。私はこれまでの貴方の作品を見て、尊敬に値する人物であると思っているのですから」
「それは作品を見て貴方が想像した私の幻影を、現実の私に投影しているに過ぎません。実物である私が、貴方の想像する私を超える事は決してないでしょう」
彼女の謙虚な物言いの裏には、どこか他者を見下すような、あるいは避けるような気配があった。男はそのように受け取った。
きっと、彼女が出会って来た信奉者というのは、芸術を利益に絡める下世話な人間達だったに違いない。だから自分を警戒しているのだ。
彼は、自分がいかにフランシスという芸術家を信仰しているかを語って、敬虔な信徒である事を証明したいと思った。
しかし、それはあまりにも唐突が過ぎると思った男は、先程魔女が言っていた事を尋ねる。
「先程言っていた招待状というのは?」
「私の新作発表への招待の事よ。今回出来る作品はきっと、最高傑作になると思うわ。そして最後の作品にもなるでしょう。けれど貴方には関係ない話だわ。貴方に招待状を送っていないもの。でも安心して。家から追い出すなんて事はしないから。部屋を一つ貸しましょう。夜が明けるまで大人しくくつろいで下さいな」
男の返答を許さないよう一気に語ると、案内を始めるフランシス。まるで干渉するなと言っているようにも映る。
男はフランシスに連れられて階段を上って目の前にある一室に案内される。そこは客室のようで広さは二〇平米ほどの部屋。扉を開けて正面の壁には窓。その下にベット。左には壁にぴったりついた机とイス。
「何かあれば下の階にいる魔女に尋ねると良いわ。この家をよく知っているので。それでは」
フランシスはそう言い残して扉を閉める。
男は閉められた扉を少し開け、感謝を伝えようとするがフランシスは右に伸びる廊下の一番奥の部屋に入ってしまう。伝える事は諦めた。
男はベットに寝転がろうと思ったが、高揚する気持ちが抑えられず部屋をグルグルと落ち着きなく歩く。神のように崇めていた人物との出会いによる興奮と、邪魔者のように客室に追いやられた苛立ちから来る高揚。
私は他の人間とは違うというのに。下卑た眼で見ているのではない。私こそ、正しく貴方の作品を読み解く事が出来ように。男はそういう思考で頭がいっぱいになる。
男は見てみたかったのだ。フランシスという少女が最高傑作にして最後の作品と謳うそれを。だというのに、こうしてのけ者にされているのが悔しくて仕様がなかった。
自分がいかにその作品を見るに値する人物であるか証明しよう。彼女に私の信仰心を伝えるのだ。
思い立った男は部屋を出る。そしてフランシスが入った部屋を思い出しながら、ドンドンと足音を鳴らして向かう。フランシスが入った扉の前まで来ると、身なりを整え、ノックする。
扉が僅かに開く。そこから少女が顔を出した。
「どういう要件ですか? 先程も言ったように用があるのなら魔女にと」
少女は微笑む。その顔は呆れを含んだ笑みだった。
「フランシス様、お願いします。どうか私にも貴方の新作を見させてください。私は貴方が出会って来た信奉者とは違い、貴方が創り出す作品の良さを本当の意味で理解しています。ですのでどうか、どうか私にも立ち会わせて頂きたい」
「大人しくと言ったのに子供のよう。言ったでしょう。貴方に招待状は送っていないと」
フランシスは無表情で言う。
けれどその後、上目遣いで天井を見て、少し考える。
やがて口を開いた。
「こちらへ」
フランシスは男を自室に招いた。男は言われるがまま部屋の中へと入る。
中は客室よりもうんと広く、作りかけの石膏や
その中にはいまだ発表されていない作品が多数見られ、男の心は踊る。
そしてその作品群の中心に立つ彼女は、彼等の主である事を納得させるほどの魅力、貫禄といったものが混ざった、極彩色のオーラを放っている。
「貴方は言いましたね。自分は私の作品を理解していると。……では問おう。私は何を伝えようとしているのか」
口調から少女らしさが抜け落ちて、芸術家としての、力強い彼女が露になる。
男は一瞬気圧されて固まるが、ハッとして問いに答える。
「人間の美です。人と言う存在の美しさを醜さと対比させる事でより際立たせている作風が貴方の作品であり、人体の形状、状態によって天気のように様変わりする美しさか伝えたい事であると私は見ます」
少女は黙る。判断するように。
やがて話す。
「人体のプロポーションによって見せ方は変わってくる。何を強調したいのか、どこを見せたいのか。そういう点は意識しているし、それは正しい見方だ。君の言う『醜』という奴も美を強調するために取り入れたものであるのも、技法としては正しい」
「では……!」
「しかし君の言い分は全て技法的な考え方だ。君の言うそれを訳すと『醜というのは美を引き立てる舞台装置である。醜そのものにはさして価値がない』という事になってしまう」
「しかし、芸術家というのは美しいものを造るのが使命なのではないのですか?」
「それは偏見だ。いや、正しいくはある。しかし社会や大衆が思う『美しさ』を作っているのでは決してない。私が美しいと思ったものを形にする。だから、君の言う『醜い』というのは、私にとっては違うやもしれないという思考に、何故至らない。それは理解に程遠い。何故そこに至ったのかを考えるこそが理解だよ。その意図を君は度返しにして『理解した』と誇り、私にではなく、その良さが分かる……いや、分かったつもりになっている自分に心酔している」
男は少し呆然とし、段々と顔が熱くなる。
羞恥心。隠していた、隠し切れると思っていた、何なら本人ですら自覚していなかった本心を言い当てられてしまったという、羞恥心。
裸の王様が子供に裸であると指摘され、これまでの凱旋が痴態であったと悟ったような、そんな気分に近い。
そんな彼を見て、フランシスも少し言い過ぎたと思ったのだろう。口調を和らげる。
「作品の見せ方としての比率として考えるけれど、美醜に対する考え方は違うと言えるね」
フランシスは近くにある女性の人形を撫でる。
「君は美とは何か考えた事はある? 醜とは何か考えた事は?」
「あまり深くは……自分には縁遠い憧憬のようなものとしか」
よそよそしい口調で男は言う。自分も知らなかった正体を暴かれ、その時自信も落としたと見える。先程の傲慢な姿から一変し、ただの平凡な男になっていた。そしてフランシスにとって、おごり高ぶった態度よりも、どこにでもいるような平凡な姿の彼のほうが好印象だったりする。
少女は出来の悪い子に優しく教える教師のように語る。
「私の見解は美とは整う様、醜とは歪んだ様と言うんだ。そしてそれを人間に置き換えるとこうなる。整うとは無個性、歪みとは個性である、とね。人の有様は綺麗な肌よりも深く刻まれた傷にこそ宿る。卑下するものでは決してない……彼女達もそうあればきっとこのような事にはならなかっただろうて」
「彼女達?」
「君が見惚れていた、この人形達の事だ。この人形はね、女の死体で作られているのだよ」
突然のカミングアウト。男は驚きのあまり女の人形を凝視する。先程まで美しく笑みを浮かべた人形が、恐ろしい笑みを浮かべたものに見えてきた。
身体の芯が冷えていく錯覚に陥る男。恐れから来るものだが、それが何に対しての恐れなのか、男には分からない。生理的なものなのか。倫理的なものなのか。猟奇的殺人者を目の前にした為の警鐘なのか。
「死体、ですか」
男は声を絞り出す。恐れる男を察してフランシスは説明する。
「私が進んでやったって? そんな事はない。これは彼女達の望みだよ。美しくありたいという、女なら誰しもが持つのやもしれん欲望。それを私なりに最大限引き出した姿がこれだ。それを叶えられなかった女性達がどういう訳か、この家に訪ねて来てね。そのどれもが魔女の噂を聞きつけてなのだけれど。いつから私は魔法使いになったのかしら」
愛おしそうに人形を撫でるフランシス。男はそれを見て嫌悪や恐怖は薄れる。作品となった女性を憐れむ少女の様が美しかったからだろう。
「私が作る新作は彼女達の系譜を含んでいる。それでも、君は見たいと思うか」
「……」
男は声が出なかった。見たい気持ちはあったが、受けた衝撃を処理しきれていない。頭が真っ白なのだ。
フランシスはその様子に呆れる。自分から来ておいてこの様なのかと呆れ返る。
「言葉は無しか。まあ、良い。発表は一時間後。見たければ下にある広間へ勝手にくれば良い。招待するよ。案外世間の反応を直に知れるというのは、私にとっては貴重なのかもしれないからね」
【5】
男は部屋に戻るとベットに寝転ぶ。熱はとっくに醒めていた。
そこにいるのは事業で成功した偉大な人間ではなく、猟奇的な芸術家を狂信する人間でもなく、どこにでもいるただの人間だった。
天井を見つめる男。やがて視界がぼやけてくる。意識が外ではなく、内側に走っているのが分かる。
冷静になった男は自身を俯瞰した。現状を整理する為だ。
私は一体、何をしているのだろうか。何故こうしてベットに横たわっている。
何が弱者だ。信奉者だ。自分は妻の病を憂い、馬車を走らせたのではなかったのか。旦那として夜など気にせず飛び出すのが、正しい姿なのではないか。それが伴侶としてあるべき姿ではないのだろうか。
男は寝返りを打つ。男の思考は現状の整理から、自問自答に変わっていく。
けれどアイツは、妻はどう思っているのだろうか。私を相応しい伴侶だと思っているのだろうか。
幼い頃からの仲ではある。不治の病というのも知ってて娶った。
短い命の妻。彼女との関係が長くない事は承知していた。妻がその事で後ろめたさを感じていて、私はそれをよく否定したのを覚えている。けれどそのやり取りの後、決まって空気が重くなる。だから「仕事」と言って自室に籠った。
私に気を遣うよりは、いない方が妻も楽だろうと思ったからだ。仕事を増やしたのも、家にあまり帰らなくなったのも、隣町でほとんど働いているのも、全て妻の為を想っての事である。
違う。
瞑っていた目を開ける。けれどその目には、何も映っていない。それが見ているのは、心の深層にいる自分。深層で俯く彼は、誰にも聞こえない声で
分かっている。逃げている事は。分かっているのだ。
私は周りに流されやすい人間だ。それは自分に重みがないからだ。矮小で、自信もない、駄目な人間だからだ。自信というのは、裏付けがないといけない。だから、功績に縋る。威張る。自分の矮小さを隠す為に。
けれど、どうしても隠せなくなる。それ等全てが虚栄である事を知っているからだ。根本は変わらず、流されやすい人間だからだ。
妻を娶ったのは「先の短い人生を歩む人は果たしているのだろうか」という周囲の空気がそうさせたのかもしれない。彼女と仲が良い人間は自分しかいないから。
だから周囲に流された結果でしかなく、愛などは微塵もないままに状況が進んでしまっただけなのではないか。
愛なんて見えないものを信じられない。裏付けがないからだ。
時折思う。この女がいなければ自分はもっと自由だったのではないか。血と汗を掻いて働く事もなかったのではないか。私は、妻を本当に愛しているのか。前提すらも疑ってしまう。そういう問いに恐怖する。
衣を脱がされ、裸になってしまった男はあらゆるものに不信感を抱く。その不信感は指を指した子供に対して振るう人間不信ではなく、自分の愚かさを呪う自分不信であった。
愛していないから、私は妻から逃げるように自室に籠ったのではないか。
愛していないから、私は家を留守にしたのではないか。仕事に没頭したのではないか。
愛していないから、こうしてベットに寝転がっているのではないか。
私は怖い。妻が死んでしまう事よりも、妻に「愛している」と心から言えないかもしれない自分が。最低な自分が。心底恐ろしい。
【6】
やがて時間が過ぎる。男は結局フランシスの家を飛び出す事はなかった。飛び出したところで迷ってしまうと理性が焦る気持ちを抑えたのだろう。
男はゆっくり体を起こす。
一時間が経とうとしている。フランシスの言っていた、例のお披露目がある時間。
興味がないと言えば噓である。素材が何であれ、猟奇的であれ、彼女の技量、才能は本物だ。思考を巡らしても現状は変わらないなら、彼女の作品を見ている方がきっと気は楽だろう。
男は立ち上がると部屋を出て、階段を手摺に体重を掛けながら下りる。
広間は階段を下りて右にある。扉や壁のような仕切りがない広々とした空間。そこにはソファーや小さなテーブルが不自然に壁に寄せられて、真ん中にポツンとイスが置いてあった。
ああ、そうか。会場になるからそうなっているのか、と男は後になって気づく。
広間には既に魔女がいた。彼女はソファーに腰掛けスキットルに入った酒を飲む。この時代にスキットルはないが、アルコールの匂いから酒である事が男にも分かった。
彼は魔女の座るソファの隣に立つ。
会話しようにも思い付かない。けれど、じっとしていると頭の中に裸の王様が現れそうになって、男は無理矢理話題を捻り出し、魔女に話し掛ける。
「貴方もフランシス様の信者なのですか?」
「わたしゃただの友人さね。信仰もないし、リスペクトもない。ただ共感できる点が他より多いだけの友人さ」
「私は、分からなくなってしまった……」
魔女はちらりと男を見て「ふうん」と一言呟く。聞いてやる、と無言で言われたような気がした男は、続ける。
「貴方には、私が敬虔な信徒に見えるのでしょう。けれど、今の私は分からない。分からなくなってしまった。彼女がどんな存在なのか、芸術とは何だったのか、信仰とはどういうものだったのか。全部です。こうして疑うという事は、信仰する者としては不健全と言えるではないでしょうか?」
「懺悔でもしたいのか? シスターの対義語みたいな魔女に。まあ、そうさね。私から言わせてみれば、妄信する馬鹿よりはよっぽど健全に見えるぜ。今のアンタはさ」
スキットルの中の酒を飲み干した魔女は、蓋を締めてポケットにしまう。
ちらりと、手首に付けた時計を見た。
「さあて……そろそろか」
魔女の言葉を合図にするかのように、右の壁にある扉からフランシスが現れる。
その姿に、男は目を見開いた。
何故なら、現れたフランシスが裸だったからだ。
男は目を奪われる。彼はそれを性的なものとしてではなく、もはや芸術作品として見ていた。高揚はあったが興奮はなかった。そう思わせてしまう程に、彼女は美しかったのだ。
日を知らぬシルクの様な白い肌。純金の糸を編み込んではないかと思わせる艶やかな金髪。身体のくびれ一つ一つが織りなす動作が、どの偉大な芸術家にも表せない、美の極致に達しているのではないかとさえ、思ってしまった。
「大変お待たせした。これよりこの私、芸術家フランシス最後の作品のお披露目といきましょう」
フランシスは華麗にお辞儀をする。そして魔女に目配せをする。
それを察して彼女は懐から小さな瓶を取り出した。瓶の中には紫色の液体が躍る。
「本当に効果があるんだろうね?」
「私の見たてじゃ確かだぜ。それより、約束の品はちゃんとあるんだろうねえ」
「ああ、勿論」
フランシスは紙で出来た袋を差し出す。魔女は中身を確認する為に取り出した。出て来たのはワイン。それも随分と値打ちが付きそうな風格がある。
「確かに」
にちゃりと笑る魔女。
得体の知れない女達の交渉は終わる。
フランシスは受け取った瓶を開け、飲み干した。とてもじゃないが身体に良いようには見えない。味も酷いようでフランシスは「うえぇ……」と声を上げた。
けれど彼女は満足そうな笑みを浮かべる。
男は今のやり取り、フランシスが飲んだもの、最後の作品はいつ来るのか、全てが分からなかった。男だけが分かっていなかった。
やがて答え合わせの時がやってくる。
フランシスはどこからかナイフを取り出した。鋭利なナイフはギラリと光る。
やがてナイフはフランシスの腹に銀の虹を架ける。フランシスが自らの腹を切っ裂いたのだ。
縦に。
真っ直ぐに。
切り裂いたのだ。
男は何が起きたのか理解できない。処理が追い付かない。あらゆる異常が通常通りに流れている。処理など追い付くはずがない。
ジャアジャア、ジャアジャア。血が流れる。
ボタドタ、ボタドタ。血が滴り、内容物がこぼれる。
フランシスは不思議そうに顔を傾げる。痛みを感じている様子はない。
やがて彼女は「ははっ!」と声を上げた。
「痛みを感じないというのは実に不思議な薬だ。しかしなるほど。血が流れるというのはこれほど不快な気分だったのだな。喪失感に近い。痛みがこれほど強烈なのも頷ける。確かにこれは気色が悪い」
「どうして、こんな……」
男は何とか言葉を捻り出した。理解が出来ない状況で、彼が紡げる言葉なんて、いくらもない。
そんな男の言葉に、フランシスは自分を裂いたナイフの刃を観察ながら答える。
「言っただろう、彼女達の系譜であると。……いやこの場合は、どうしてその系譜に至ったのかというのを、説明した方が良いのだろうね」
彼女は話始める。まるで、楽しかった思い出を語る老人のように、目を細めて。
「私の家がまだ山奥になく、町の郊外にあった頃だ。私の父は、剥製を作る事を生業にしていた。熊や梟、鷹、狐、蛇。まあ、手広くやっていた。父は狩りもしていたから、取って来た動物を剥製にする事もあった。仕事だからやっていたのではなく、完全に趣味だったのだろう」
フランシスは窓辺をちらりと見る。男も彼女の視線を追った。視線の先には立派な鷹の剥製があった。まるで今にでも動き出しそうな躍動感。羽根の艶も、力強い剣幕も、爪の鋭さも健在だった。
これを見るに、かなりの腕を持つ職人だった事が伺える。鷹という素材のポテンシャルを、ここまで引き出せる職人というのも、そういないだろう。
「ある時父は、女を連れて来た。正確には女だったものだ。とっくに死んでいたのだ。どうしてそうなったかは分からないが『ああ、殺したな』というのはすぐ分った。生まれた時から、あの人の顔を見ていたからね。しばらくしてアトリエに並ぶ動物達に紛れて女の剥製が一体増えた。それが私の系譜の起源」
フランシスの人体に関する知見はそれが原点。フランシスは不快そうな顔をする。何を思い出したのかは分からない。
しかし、余程おぞましい環境にいた事は察せる。けれどそれまでだ。詳しいディテールまでは全くもって想像できない。男にとって、それはあまりにも異常な環境だったからだ。
「その事件があってしばらくして、また女が来た。今度は生きていた。剥製でも買いに来たのかと思ったが、どうも様子が変だった。話を聞くと『女を美しくしてくれる秘術を持ったお方がいると聞いて』と話してね。大体の事は察したよ。そうか、父は悪魔に魂を売ってしまったのだな、と。あるいは取られたのやもしれんがね」
フランシスは血で濡れた手で肩をさする。鳥肌を立てていた。あのフランシスが、だ。声も僅かに震えているようにも、聞こえた。大人びた少女が、一瞬小さな等身大の姿に見えた。けれどすぐに消え失せる。
「父が私を見る目も変わっていった。確かに人形のように愛されていたが、その日を境に愛らしい人形を見るめになった。比喩としての人形ではなく、人形そのものになってしまった。いつ殺されるか分からない恐怖というのは、普通に生きていれば中々に感じる機会はない。耐えられるものでも、ないのさ」
彼女の持つナイフがヌメリと光った。
「だから私は、父を殺した」
フランシスはナイフを地面に捨てると、ナイフは床に突き刺さる。彼女は冷たい視線でそれを見た。この時彼女が見ていたのはきっと、ナイフが刺さった誰か影。
死人の影を見ていたのだろう。
【7】
「私は父を殺してすぐに逃げた。当てはあった。この家だ。ここは、父が用意したものだ。やり過ぎている自覚はあったのだろう。逃げる場所を用意していたという訳だ。私も手伝っていたから、場所はしっかり把握していた」
どうしてこんな山奥にあったのか、男はようやく理解した。確かに、誰もこんな山奥にいるなんて思わないだろう。そもそも少女が人を殺すなんて、誰も思い至らない気もするが。男はそう思った。
「そこから何週間と時間が経って、突然私の家に女が来た。それも見知らぬ女だ。いやまさかと思って訪ねた理由を聞いたら、父の客だった。私が殺していなければ、腹を裂かれてオブジェになっていたであろう被害者の類だったのだ」
「それで、貴方も父のように依頼を受けたのですか?」
男は問う。
フランシスは首を振った。
「まさか。父の愚行を丁寧に説明して断ったさ。そうすればきっと帰るだろうと思ってね。けれど女は帰らなかった。それでも良いと、女は引き下がらなかった。だから渋々作った。さっき首を振ったが、まあ受けたといえば受けてしまったのだろう。それからだ。私が人の剥製を作る様になったのは」
手に付いた血の感触で遊ぶように、指と指を擦る。まるで当時の気持ちを思い出すように。楽しそうに、話す。
自らの父をおぞましい悪魔のように語っていた少女だが、確かにその血は彼女にも受け継がれている。ただ、方向性が違うというだけで。確かに。
「そして、意外にもそういう女は多かった。全員ではないが、三割の人は話を聞いた上で依頼した。『それで美しくなれるなら』とね」
生より勝る人の欲。執着。そういう歪んだ輝きを見たのだと、少女は言う。
男には、その感覚は分からなかった。けれど少女にはそれが分かった。
自らの腹を裂ける人間と、裂けない人間くらいの些細な違いである。
「ある日、訪ねて来た女にこう言われた。『貴方は美しいから、醜い私の事など理解出来ないだろう。醜いという屈辱がどれほどのものか、理解できるはずがない』と。私は思った。醜いというのは悪なのだろうか、と。生まれてこの方、人形のように育てられてきた私は、確かにその女の苦悩が理解できなかった。美というのは整う様だと、君に言っただろう。整っているものなんて、替えが効いてしまうものだ。何だったら作れてしまう。絵画であったり、石膏であったり、木片であったりでね。可愛らしく美しい娘が欲しいなら、言葉を交わす人形でも、人は作れば良いのだよ」
フランシスは傷口に手を入れて開き始める。
自らの腹をまさぐる少女を見て、男は腹をさする。自分の腹をまさぐられているのではないか。そういう気持ち悪い感覚を、ありもしない感覚を、男も抱いたからだ。
「彼女らの言った醜さというものを、否定したかった。それは醜さと言うのではなく個性であり、色であり、価値あるものだと、知って欲しかった。元々思考の中にはぼんやりと存在したが、あの女の言葉でハッキリした。君は『美』を強調する為に『醜』を舞台装置にしたのではと考えたが、私がやろうとしていたのは、その逆と言えるだろう。美という平坦、無個性、社会的価値を敷く事で見えてくる、人間誰しもが持つ特有の歪みを賛美する。それが私のやりたかった事であり、芸術家としての起源だ。私が本格的に作品を作る様になったのも、あの醜さを呪った女の言葉がきっかけからだった」
やがて開かれた傷口から、内臓が丸見えになる。
「題材を美女にし続けたのは、きっと私の意地のようなものだろう。あの女の言った『美しい者には分からない』という奴に対する反骨精神だ。歪みというのが容姿だけではないというのを言いたい。美女だって……いや、私だって歪んでいるのだよ。特に思考というのがね。年齢に相応しくないという歪みがあった。劣等感ではないけれど異物として扱われる事があって、それを私も自覚していた。寂しくはなかったが孤独は感じた。友人と言う存在がいたら、一体どんな感性に育ったのだろうと、意味もなく考える事は、一度くらい、あったと思う」
「それを、悔いた事はない?」
男は尋ねる。できる限り簡潔に。この彼女の語りが、星が砕ける最後の瞬間の輝きである事を、察していたからだ。
「ないね」
即答する。死にゆく者が見せないであろう、爛漫な笑みで。
「その歪みこそ、私の個性。私そのものだからだ。多くの人は美を、整っている様を、それだけを価値をしているが……そんな事はない。歪みも、醜さも価値があるものだ。愛して良いものだ。それに見ろ」
フランシスは腸を、肝臓を、膵臓を、肝臓を、子宮を、引き出して見せつける。
「美人と、人形と……褒められた人間の中身なこれほどまでに気色の悪いものが詰まっているんだ。これに比べたら人の顔など些細な差でしかない。けれどこの内臓も私は恥じては……いない。よく見ると綺麗な色をしているじゃないか……はぁ、はぁ……」
息切れ。力が抜けていく感覚。死の予感。
先程まで腹を裂きながらも堂々と歩いていた少女は、とうとうイスに腰かける。力なく、ぐったりと。けれど笑みは忘れずに。
「私が言いたいのは……ああ、そうだ。人間という存在の美しい部分も、醜い部分も全て愛すべきものである、という事だ。これは種全体の事もそうであるし、個々人の事でもある。君は誰かを卑下し、自分を大きく見せようとする。自分の思いを殺し、理性的であろうとする。自分には役割があり、脇役であると思う傾向がある。けれど決まって……そういう人というのは自分が嫌いで、周りをちゃんと見れるほどの余裕がないだけだ……」
少女の言葉を中盤まで聞いて、ようやく男はこの言葉が自分に向けれられている事に気付く。男の鈍さに少女は聖母のような優しい笑みを浮かべた。
「この世界はあらゆる人の手によって回っている。自分はその一人に過ぎないというのは、当然の考え方なのかもしれない。けれど、だからこそ、世界の中心は自分であると言わなくてはならない。自分の生きる道筋は、他者に決められたものではないのだと、誇らなくてはならない。私という人生を私が回すように、君の人生は君自身で回さなくてならない。この世界は丸いのだとフランシス・ドレイクが証明したんだ。平面であれば中心は決まっているが、もう、そうではない。新時代だ。自分が中心であると、誰もが世界の中心であると、言って良いんだ……」
フランシスの目から光が消えかかる。頭を起こす力もなくなり項垂れるフランシスの前に、男は跪いてしっかりと目を見る。耳を立てる。一言一句、聞き漏らさないように。
「そうして……自分が愛せるようになったら、自然と周りを愛せるようになる。卑下するのではなく肯定し、手を払うのではなく、抱きしめられるように。きっと……ね」
「どうして、私にそこまで気を掛けてくれるのですか? 私はただの、まだ会ったばかりの……ただのどこにでもいるような、男だと言うのに」
「ただ……私という人間を、誰でも良いから知って欲しかったのかもしれない。貴方や、ただ一人の友人である魔女ヴァイオレットにも。……私が人間であった事を、きっとそう。……ああ、そうに違いないわ」
フランシスは首を上げる。まるで神の声が聞こえたかのように。一段と明るい、今までで一番少女らしい純粋な笑顔を、天に向けて。
彼女は事切れた。
死に際がこれほど愉快な人間を誰も知らない。芸術家と名乗り、自らを作品にしてしまう、芸術にしてしまう人間を、愉快と言わずして何と言う。
芸術家とは、有から無を、無から有を見出す存在だ。石に誰かの影を投影し、線の群生から解を得る。リンゴを青に、草木を赤に。価値あるものを無価値と愛し、無価値なものを価値へと昇華する。そんな人間を指す言葉だ。
そして、その在り方が染みついた作品に、人々は魅了されるのだ。
それを踏まえて、これほど美しい人間を、男は知らない。その体が、考えが、生き様が、在り方が。その全てが、芸術のような少女。
男は彼女の在り方に憧れた。他者とは違う感性を持ちながら、それ卑下するのでもなく、見下すでもなく、肯定するその精神性に。信仰心ではなく、一人の人として、彼女の在り方に憧れた。
影響を受けるな、と言っても無理な話である。これほどの衝撃を、これまで受けた事がなかったのだらか。そしてこれからも、これを超えるものは現れないだろう。
フランシスと男の一連のやり取りを静観していた魔女は、やがて立ち上がる。トントンと軽い足音を鳴らし、男の後ろに立つと『フランシス』という作品をまじまじと見た。絵画を眺めるように、手を顎に添えて。
「ふうむ、悪くない。ちゃんと薬が馴染んでいるな。アイツが飲んだ薬には二つの効果がある。一つは無痛になる事。もう一つは防腐の役割だ。生前の姿で残り続けるように、との依頼だったからな。きっと綺麗な標本になるだろうさ」
「美の標本……」
男は徐に呟いた。何を考えたわけでもなく、ただ自然と言葉が漏れた。
「へえ……良いじゃないか。美の標本。自身を美の模範解答のように謳い、名付けたみたいに聞こえてさ。実に傲慢で愚かな人間に映るだろう」
きっとアイツもそう名付けるだろうさと、魔女は言う。
男も、その言葉に同意した。
【8】
日が昇る。気づけば男は下山していた。どのように下りて来たのかは彼自身、よく覚えていない。あの魔女と芸術家の出来事が、夢だったのではないかと思うくらいに。現実味がない。
けれど男は確かに覚えている。
そして、自分がどうしてここにいるのかも、覚えている。
男は走る。妻の元へ。
風景には見覚えがあった。ここは村の近くの林。迷いなく走る。
やげて男は村に着いた。着いて早々、一直線に自宅へと向かう。家の前には近所の村人が立っていた。男に気付いて村人は男の自宅の扉を開け、飛び込むように入る。
妻の部屋に入ると、寄り添う医者と事切れる寸前の妻。彼女は男を見つけると目に涙を溜める。
「貴方、ごめんなさい。私を娶ってさぞ苦労したでしょうに。こうしてあっけなく逝ってしまう。貰うばかりで何も与えられない私に愛想も尽いたでしょう」
妻は悔いていた。負い目を感じていた。自分が男の足枷になっているのではないかと言う考えに、ずっと悩まされていたのだ。彼女が男に向ける愛情は本物で、その愛が自分の不自由さを許さない。
男の苦悩を知っていて、何もできない自分が、何も与えられない自分が心底嫌いだった。
もっと尽くしてあげたかった。もっと手を握っていたかった。もっと、もっと……と虚しい欲が沸き立つのだ。
男はその悲痛な叫びを、彼女の涙に見る。彼は、妻の手を優しく握った。そして彼女の想いを抱きしめる。
「そんな事はない。お前からは沢山のものを貰ったとも。些細な事に揺れる私を、お前が引き留めてくれた。私がこうして大成したのも、お前がいたからだ。穏やかな会話も、仕草も、共に食べた食事も、全てお前から貰ったものだ。愛想が尽きる事は決してない。お前にそういう思いをさせてしまったのは、私が未熟だったからだ。お前が悲しむ時に涙を拭けず、逃げてしまった。その事がやるせない……」
妻の涙が溢れ出す。ようやく何かから解放されたように。ただ嬉しくて、けれどやはり寂しくて。溢れるような感情が、涙が、後悔を抱きしめていく。
「ああ、その言葉だけで涙は全て拭えましたとも……」
彼女は目を細めた。その頬を優しく撫でて、男は最後に言う。
「愛しているよ」
男は心の底からそう思った。
そう思って言えたのだ。
その言葉を聞いた後、妻は眠る様に息を引き取った。
【9】
男はイスに座って、静かに天井を見つめている。
妻の葬儀を終えて二週間ほど。妻の遺品の整理をようやく終えたところだった。意外に時間が掛かってしまったと、男は思う。妻の私物を見るたびに、穏やかな日々を思い出していたからだろう。時間が掛かった事が、男としては嬉しい。
どうして自分が、あれほど妻に対する愛で思い悩んでいたのか、不思議に思うくらい、彼は妻を愛していた。そんな家だった、ここは。
けれど、そろそろ仕事を再開しなくてはならない。
「少し家を留守にするけれど、週末には帰るさ」
男は妻の座っていた、お気に入りのイスに向かって言った。以前の彼であれば、こんな事は言わなかっただろう。魂があるような、今も妻が見てくれているような、そんなスピリチュアルな事は、決して。
今もそれほど、信じている訳ではない。けれどそれを許容できるようになった。そういう余裕が彼の中に、生まれていた。
きっとこれは、あの芸術家の少女のお陰だろう。
男はそんな事を思いながら、家を後にした。
家の前には見覚えのある帽子を被った青年がいた。山道を知る、御者の彼だった。男は彼に町までの馬車を頼んでいたのだ。
馬を撫でる青年は、男に気付くと帽子を脱いで、お辞儀する。
「旦那、お待ちしておりました。ささ、どうぞお乗りください」
「ああ、世話になるよ」
男は馬車に乗る。男が座った事を青年はしっかりと確認すると、彼は手綱で馬に合図する。馬はゆっくりと、歩き始めた。
馬車にしばらく揺られる。村はもう見えなくなり、やがて山が目の端に入ってくる。多くの動植物が芽吹き、育ち、土に帰る、力強い自然の化身。緑が萌える山。夜に入った山とこうも印象が変わるものなのかと、感慨深くなる。晴天である事も助長しているのだろう。
「良い天気ですねえ」
青年はこちらに聞こえるよう、大きな声で言う。
「そうだな」
男も、それに同意した。
新しい馬車にご満悦なのか、上機嫌に男に問う。
「山を越えて行きますか?」
冗談で言っているのだろう。以前の男であれば、不快に思っていたかもしれない。けれど、今の彼はその問いを静かに吟味する。
やがて、彼は首をゆっくり振った。
「……いいや。魔女に出会ったら、敵わないからな」
私はもう、充分に満たされているのだから。
男は金髪の少女を頭に浮かべながら山を眺める。
夢見心地のような穏やかな顔で。見えなくなるまで見続けた。
見えなくなっても、眺め続けていた。
【10/2019】
路地裏でひっそり営むバーのカウンターで、魔女とその友人は静かに団欒する。
バーの中には、バーテンダーの魔女と友人のみ。
バーテンダーとは言ったものの、彼女に魅せる技など何一つなく、ただ自分がこの雰囲気に浸りたいだけで買った場所。いわばままごとのようなものである。
友人の彼は、魔女が肴の代わりに語る芸術家の話を、聞き終えた。
「それで、お前が持っているのがフランシスから貰ったワインか」
「飲むか?」
「いや良い。お前の語る話は、些か血抜きが足らないように聞こえたから」
今飲んだら血の味がしそうだ、と友人は思う。
「しかし気になるんだが、何故フランシスは死んだんだ?」
「ああん?」ワインを一杯飲み干すと彼を見る魔女。
「これまで女の死体で作品を作って来たのだろう? 言い方は悪いが材料というのも定期的に供給されていたと言える。なのにどうして自害したのだろうと、疑問符が絶えなかった」
友人は思う。
供給が途絶えたというのも考えたが、この女に薬を頼んだという時点で計画的な行動だった事が伺える。この魔女は、気分が足を生やして歩いているような女だ。いつ気が乗るかなんて分からない。今回は早かったのかも知らんが十年、二十年待つ事だって十分あり得てしまう。アレを友人と紹介した少女であれば、それを理解しているはずだ。絶対に作るという信念がないと、無理な話なのである。
しかし計画的だったとしても解せない。どうしてフランシスは自死を選んだのか。
「そいつはきっと、あの女が最後に気付いた事が関係して来るだろうよ」
「最後に気付いた事?」
魔女はワインを注ぐ。
「ヒントは、アレは生まれた時から美しかった。周りから人形と言われるほどに」
「確かにあの少女は、自分が特異な気質を持っている事を理解していたね。寂しくはないが孤独は感じていたと」
そして家に来る女達からも、穢れを知らぬものとして扱われた。フランシスが本格的に芸術になろうとしたのもその時だと語っていた事を、友人は思い出す。
「その劣等感から来るものなのか……いや、彼女は否定した。他者を見下すというのも違う。そういう人間であれば、あんな結論にはならないだろう……」
ブツブツと呟く友人。魔女はその横でタバコに火を付ける。
「劣等感を否定していたが、まああながち間違っている訳じゃないだろうねえ。……そうさね、言うなれば『憧れ』って奴さ」
「女性達に対してか?」
「人間に対してさ」
煙を吐く。そして続ける。
「生まれてこの方『人形のように』ではなく『人形として』扱われてきた奴だ。その影響は、人格を歪ませるほどにはデカかったのさ。素質はあったにせよ、あれほど達観な思考……アイツに言わせてみたら歪んだ思考になったのは、それが原因さね。アイツも言っていただろう? 『友人と言う存在がいたら、一体どんな感性に育ったのだろう』とね。無意味な仮説だが、それに気づいていないところを見ると、無意識だったんだろうぜ」
「人として扱って欲しかった、と言う事か。それはとても、やり切れないな」
だから少女は、人形ではなく、人間である事を証明しようとした。
人形は、人間に成ろうとした。
その為の人間賛歌。人は余すことなく価値があるものであるいう仮定。憧れであったから。これから自分が成るものだから。そういう風に仮定した。
彼女の話だとそうなる。
「けれど、死を選んだ答えにはならないだろう」
「死と言うのはね、詰まるところ『発言力』なのさ。自殺をする人間と一緒。『自分はこんな世界では生きていけない』というメッセージを『自死』という、人間が持つ大きなメガホンの一つで伝える。作家や芸術家が『命を削って創った』という奴も一緒さね。その言葉を添えるだけで、声が良く通る。芸術家であるフランシスが取れる最大の手段だったんだろうぜ」
「まるで悪魔の契約だ」
「まるで、ではなくその通りだとも。アイツは契約したのさ。悪魔に命を担保にして、力って奴を」
そんな事で命を捨てられてしまうものだのだろうか。芸術家ではない友人はいまいち納得ができなかった。
けれど、それがきっと正しい感覚なのだと、友人は考える事を放棄する。芸術の何たるかを知らない、どこぞの馬の骨なんかに、フランシス本人も理解されたいとは思うまい。
「しかしアレの最後は芸術家としては半人前だ。芸術家であれば作品で、今回で言うのなら有様で示すところを、ああもペラペラと語るとは。幼稚と言っても良い。愚かというか、何というか。勿体ない気分になるねえ」
魔女はため息をつくと、グラスに入ったワインを飲み干した。
けれどその言葉を聞いた時、友人には何となく分かるような気がした。
少女は幼稚になりたかったのだ。芸術家として完成されたものではなく、未熟なものになりたかった。等身大の、年齢に相応しい、ありのままの姿。
人形ではなく、人間でもなく、少女は少女になりたかった。
ありのままの自分を、愛したかっただけなのだ。
彼は、そう思った。
けれど友人は、それは話さない。これは彼が解釈した彼女の姿だからだ。正しいとは限らない。芸術とは、作品とは、人によって解釈が異なるものだ。作品の見方は、いわば自分の投影であり、鏡だ。
それを話す事は友人の彼にとって、恥ずかしい事だったのだろう。
けれど……。
「なあ、ヴァイオレット」
「何だ?」
「やっぱり自分も、一杯飲ませてくれ」
「ふうん……グラス貸せ」
魔女は空になった彼のロックグラスに、ワインを注ぐ。魔女と友人は乾杯した。
流れ込むワインの味は深く、渋く、僅かに酸味。そしてそれらを包み込む芳醇な香りは、飲み込んだ後も残る。
その色は深い赤。血潮のような深紅。その色に、少女の影を見て、思い耽る。
美の標本 yagi @yagi38
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