第4話

 親父は訝しみながらも、岩場で落とし物をしたという言葉を信じてくれた。どうしても拾えないから少しだけ石を砕きたいと言うと、小ぶりなハンマーを貸してくれた。すぐに返すと礼を口にし、真斗は民宿を出た。

 午後の陽射しに、海はきらきらと輝いている。ゴミ一つない海岸に、穏やかな波がちゃぷちゃぷと打ち寄せては引いていく。綺麗な美しい島の海。だが、湊がここに溶けてしまうだなんて、受け入れられるはずがない。

 砂浜を歩きながらガラス玉を握る手が震え、一度砂の上に落としてしまった。膝を折って拾い、ハンマーを片手に提げたまま海沿いを行く。足元に丁度よい具合に平たい岩が頭を出しているのを見つけ、片膝をついた。

 自分を呼ぶ声に振り向くと、砂浜を必死に駆ける少年の姿があった。カーディガンを脱ぎ捨てた湊は、青に染まった腕を振って全力で走り寄ってくる。

「湊……」

 走り慣れていない彼は、ようやく追いついて足を止めても息を切らし、声も出せずにいる。その顔も手足も陽射しを受けて痛々しいほど真っ赤に腫れていた。全力疾走に加え、過敏症の症状に彼は苦しそうに顔をしかめている。

「湊、早く家に帰れ。おまえ、肌が」

「お兄さん」

 真斗が右手に握るハンマーに気付いた彼は、顔と声を引きつらせる。頭を左右に振り、力無く項垂れる。もういいよという言葉が、膝をつく真斗の上から降ってきた。

「僕は、もう助からない。分かるんだ。もう手遅れなんだ」

「なんで諦めるんだよ、これを壊したら、きっとまだ間に合う!」

「消えたいと思ってたんだ」

 湊の声は震えていた。見上げる真斗には、湊の瞳が涙を零すのが見えた。大粒の水滴が、乾いた砂の上にぽたぽたと落下する。

「望むことなんてない、僕は明るい陽射しすら受けられない。消えたいと思ってた。ぼんやり、ずっと思ってた。だから、そのガラス玉が、希望を与えてくれたんだ。どうせ消えるなら、僕は海に溶けて消えてしまいたい」

「馬鹿言うな、湊の病気は治る。消えたいなんて言うなよ」

 なんて薄っぺらい言葉なんだろう。真斗は無力感に押し潰されそうな気がした。ほんの数回会って言葉を交わした程度の自分に、何年も消えたいと願って生きてきた彼の何が分かるというのだ。湊は希望を持とうとしてきたに違いない。だが、その微かな想いすら断たれて、衰退するだけの島に送られた。絶望してしまっても仕方がない。

「俺が面倒見てやる、島を出て、住む場所も見つけてやる。俺の部屋に来たらいい。湊にはやるべきことがたくさんあるんだ」

 彼の絶望を断ちたい一心の言葉だった。湊に未来を与えるためなら、何だってできる。こんなに澄んだ心を持った少年が、希望を失くして消えてしまうのを見届けることなどできない。

「島を出よう、湊。街に戻るんだ」

 少し収まりかけていた湊の涙が、再び溢れ出した。なんとか笑おうとしているのか、頬を無理に上げた変な表情で、彼は涙を流している。赤く腫れた両手で目元を拭うその腕が、真っ青な海に染まっているのを見て、真斗は決心した。

 ガラス玉を平らな岩の上に置き、右手のハンマーを振り上げる。彼の悲しい希望を叶えようとする、その元凶はここにある。

 湊を生かす。ただそれだけを願い、真斗は右手を振り下ろした。

 青いガラス玉が粉々に砕け散ると共に、周囲は紺碧に包まれた。

 それはガラス玉から噴き出した海だった。まるで深い海中に放り込まれたように身体が浮かび、全てが青の中にある。懸命にもがくが、激しい水流に身体がどこかに押し流されていく。ぐるぐると回る、上も下も分からない。魚もいないがここは海だ。解放されたまっさらな海の中にいるのだ。

 水中へ差し込む眩い光の中、薄く白い手のひらが見えた。紺碧をかき分け、真斗は懸命に手を伸ばす。湊の指に指先が触れる。

 しっかりと握りしめたと同時に、その手は青の中に消えた。右手は海水を握りしめた。海に溶けてしまう瞬間、確かに聞こえた湊の声は、ありがとうと言っていた。


 また、夏が巡ってきた。

 電車を乗り継いで辿り着いた海岸。海の向こうの闇に紛れているが、この方角には昨年宿を取っていた小さな島がある。適当な岩に腰掛け、真斗は立てた蝋燭に火を点けた。

 袋から取り出した一本を手渡すと、湊は嬉しそうに笑った。去年と同じ姿の彼は真斗のそばに腰を下ろし、花火の先を蝋燭の火にかざす。しゅーっという音と共に白い煙と炎が噴き出した。ウインドブレーカーに隠れがちな白い肌が、蝋燭と花火の灯りにぼんやり照らされる。

 楽しげに笑う湊に、真斗は近況を語る。学校のこと、アルバイトのこと、実家に帰省した時のこと。相槌を打つように頷く湊の手から、やがて線香花火の丸い灯火が砂浜にふっと落下した。ぽたりと、聞こえないはずの音が微かに聞こえた気がした。

 同じように、声も音もない湊の言葉が真斗には届いた。海に溶けて、今は自由にどこへでも行くことができる。海が続いている限り、昼でも夜でもどんな遠くへも泳いでいくことができる。初めて見る景色や人々に、決して飽くことはない。

 それでも、やっぱり夜の花火が好きだと湊は言った。世界で一番心の惹かれる光だと笑った。

 真斗も笑い返し、しばらくして静かに海へ帰っていく湊を見届けた。一度振り向いて大きく手を振る湊の影は、まるで初めてその姿を見た時のように、今は波の合間に揺れている。

 黒い影が波間に消えて朝陽が昇る頃になっても、真斗は光に煌めく海の前にいた。少年を宿し輝く青い海を、ただじっと見つめていた。

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青に溶ける ふあ(柴野日向) @minmin

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