第3話
それから三日間、湊は姿を現さなかった。
あの晩、海に溶けてしまうと言った湊が無事に泳ぎ終わって帰路に着いたのを見届けている。海水に人間が溶けるはずなどないのに、真斗は本当に彼が海に消えてしまったのではと嫌な想像を膨らませた。あと一週間ほどで自分はこの島を去ることになっている。別れ道で笑って手を振った湊と二度と会えない不安に、居てもたってもいられなくなった。
民宿の親父は、湊の現状は知らなくとも、彼が厄介になっているという親戚の家は知っていた。商店のある通りを一本逸れ、緩やかな坂を上った先に、古ぼけた小さな家はあった。
田舎らしく、家の戸口は不用心に大きく開け放たれていたが、真斗は手前でごめんくださいと声を掛けた。明るい陽射しの降り注ぐ外からだと、室内はよけいに暗く見えた。正面に細い廊下が奥へと伸び、左手には襖、右手には二階への階段がある。蝉の喚きを背に、真斗は腹に力を込めてごめんくださいと繰り返した。
微かな足音が聞こえたかと思うと、階段を下りてくる白い足が見えた。黒いハーフパンツに、白いシャツとカーディガンを羽織っている。青白くも見える顔色の中で、湊は驚きに目を見開いていた。
「いや、最近来ないから、心配になって……」
決して彼は責める目をしていないのに、真斗は言い訳をしている気分になった。湊が倒れて入院しているのではとも想像していたから、今更ながら過剰な心配だったのではと、ばつの悪い気持ちがあった。
だが、正面に立つ彼は嬉しそうに微笑み、ごめんなさいと言った。
「ちょっと体調が悪くて、行けなかったんだ。お兄さんに伝えられなくて、ごめんなさい」
「いいよ、それより起きて大丈夫なのか」
「うん」
真斗は遠慮がちに室内へ視線を巡らせる。他に人の気配も物音もしない。
「今、他に誰もいないのか」
湊はこくりと頷いた。
「おばあちゃん、買い物に行ってる。一度出かけたら長いから、きっと夕方まで帰ってこないよ」
呆れた表情をする真斗を見て、湊は可笑しそうに笑う。
「僕の不調はよくあることだから、ずっと看てる必要なんてないんだ。看病させ続けてたら、おばあちゃんが倒れちゃうよ」数歩近寄り、真斗の片腕を軽く握った。「折角だから、上がって。ジュースぐらい出せるから」
「病人にそんなことさせられないよ。湊が大丈夫なら、安心した」
そう言って腕を引こうとしたが、湊は力を入れて離さない。先ほどの笑顔を引っ込め、彼は思い詰めた表情でぽつりと呟いた。
「……もう、会えないかもしれないから」
オレンジジュースと氷の入ったグラスを運んできた湊は、座布団を勧めてくれた。居間には座卓とテレビと扇風機しかなかったが、縁側から入る風は心地よく、汗がすっと引いていくのを感じた。
からからと氷の音を鳴らしてジュースを飲み、座卓にグラスを置いた湊が真斗を見上げる。そして右手の細い指でカーディガンの裾をつまみ、そっと捲った。
現れた左腕を見て、真斗は絶句した。
彼の腕は青色に染まっていた。それは青白いという意味ではない、彼の肘から手首にかけて、まるで青い水が腕の形をとっていた。腕の中はゆらゆらと揺らめき、彼の一部が海に変わってしまったように見える。縁側から差し込む光を反射し、細い腕は煌めいてもいる。
「僕、もうすぐ溶けるんだ」
真斗は了解を得て彼の腕に触れてみたが、そこには確かに骨と皮と僅かな肉の感触があった。普段の彼の腕と触り心地は変わらない。だが、透けた皮膚の中は深く碧い海の姿なのだ。
「痛くないのか」
変なことを訊いている実感はあるが、実際に起きているのが変なことなのだから仕方ない。湊は一つ頷いた。
「痛くもなんともない。気付いたら腕の一部が青くなってて、それが段々広がっていって……」
「だから来られなかったんだな」
「会いたかったよ、お兄さんには。だけど、びっくりさせちゃう気がして」
「他に知ってる人は」
「隠してるから」
湊は一人で悩んでいたのだ。こんな異常を他人に見せてよいものか、不安だったのだ。共に暮らしている身内にすら言えないのだから、どれだけ心細かっただろう。
「会いに来てくれてありがとう。困ってるうちに気分も悪くなっちゃって、今朝まで寝込んでたんだ」
「どうして、こんなことに」
真斗ははっと息を呑んだ。
「そうだ、あれの仕業だ、湊が拾ったって言ってたガラス玉」
湊は一度上目遣いに真斗を見上げ、ズボンのポケットから以前見せたガラス玉を取り出して座卓に置いた。その中には相変わらず揺らぐ海がある。湊はこれを見ている内に海に入りたくなり、溶けてしまう気持ちに襲われたのだ。そして実際、その身体は海に溶けようとしている。
「これは俺が捨てる」
真斗がガラス玉を握りしめると、湊は息を呑んで身を乗り出した。
「捨てないで」
黒く濡れた様な瞳で見つめ、彼は必死な声で訴えた。
「僕は溶けてもいいんだ。このまま溶けてしまえたらって思うんだ。最後にお兄さんと話せたら、もう満足なんだ」
「いいわけないだろ、このままじゃ……」
死んでしまうという言葉を辛うじて飲み込むが、続く台詞を悟った湊は僅かに目を細め、震える唇の端を少しだけ上げる。
「これは最初で最後の、僕の希望なんだ」
小さな少年の言葉に、真斗は奥歯を噛み締める。いいわけない、そんなこと、あっていいはずがない。
真斗は卓上のグラスを倒す勢いで立ち上がり、部屋を飛び出した。湊が呼ぶ大きな声を背に、玄関で靴を引っかけ外へ出る。途端にシャワーのように蝉の鳴き声が降り注ぐ。鼓膜をわんわんとつんざくような大合唱をくぐり抜け、坂道を駆け下りた。激しい日光が未舗装の道を眩く照らしている。
まだ助かる。湊を助けることはできる。そう自分に言い聞かせ、ガラス玉を握ったまま駆け続けた。
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