第2話

 時間通りに真斗が砂浜を訪れると、湊は既に待っていた。

「夜に出てきて、家族に怒られないか」

「大丈夫」

 彼が伸ばす手にビニール袋を渡してやる。中には昨日の花火の残りがまだ十数本残っている。真斗が蝋燭を立てて火を点けるのを、彼は興味深げにじっと眺めていた。

 手持ち花火は二人で分けるとあまり残らなかったが、それでも一人で眺めるよりはずっと楽しく感じられた。しゅーっと音を立て、煙と共に色鮮やかな火花が夜闇に向けて放たれる。夜に色を着けているような感覚に、手を軽く振ると明るい光が線を作る。初めて海岸で花火をするという湊は、嬉しそうにはしゃいだ声を上げて見惚れていた。

 再会から三十分も経たないうちに、全てが燃え尽きてしまった。線香花火の球がぽたりと砂に埋もれるのを見届ける。すぐに帰るのももったいない気がして、真斗は砂の上に腰を落とした。

「今日も泳いでたのか」

 傍らにタオルが置いてあるのを見つけて尋ねると、湊は頷く。よく見ると髪は湿っていて、潮の香りが漂っている。今日もぶかぶかのウインドブレーカーを羽織った彼が、蝋燭を挟んで座り込む。彼の真っ白な足と頬がちらちらと揺れる蝋燭の灯に照らされて、黒い瞳の中にも橙が宿っている。

「なんでこんな時間に泳いでるんだ。夜の海なんて危ないぞ」

「昼間は、泳げないから」

「どうして」

 彼は上着の裾を捲り、自分の白くほっそりした手首を見せる。何が言いたいのか分からず首を傾げる真斗に、「陽射しが駄目なんだ」と言う。

「真っ赤になって腫れちゃうんだ」

「日焼けしやすいってことか」

「そんなものじゃないよ。アレルギーなんだって。頭も痛くなって、気持ち悪くなる」

 日光へのアレルギーがあることを、真斗は彼に聞かされて初めて知った。そのうえ身体が丈夫でなく、以前は街に住んでいたが中学卒業と共に島の祖母の元にあずけられたのだという。養生だと家族は言ったそうだが、真斗にはどう考えても厄介払いだとしか思えなかった。

「だから、泳ぐには夜しかないんだ」

「それでも夜は危ないだろ、溺れても誰も見つけてくれないんだから」

「いいよ」

 ぎょっとすると共に、嫌な予感が真斗を襲う。まさかこの子には自殺願望、もしくはそれに近い思いがあるのではないだろうか。

 だが、希死念慮とは遠く見える笑顔で、彼は言った。

「海に溶けたいんだ」

「海に溶ける?」

「泳いでたら、そのうち海に溶ける気がするんだ」

 彼はウインドブレーカーのポケットに手を差し入れた。開かれた手のひらには、青いガラス玉が一つ載っている。

「この中にね、海が閉じ込められてるんだ」

 何のおとぎ話を始めるつもりだろう。からかってやろうかと考えたが、彼の全くふざけた様子のない口ぶりに、真斗は黙ってガラス玉を見つめる。

「お兄さんには特別だよ。よく見て」

 差し出された薄い手のひらから受け取ったそれを、親指と人差し指で挟んだ。月と星灯りにかざすと、ガラス玉の中で青いグラデーションがゆっくりと揺蕩い巡っているように見える。

 どういう仕組みだろうと首をひねる真斗に、湊は誇らしげに笑った。

「見えるでしょ。海の動きが」

「光の具合だろ」

「違うよ」彼は満足そうに微笑んでいる。「この中には、海が入ってるんだ」

 変なことを言う子だ。曖昧に鼻を鳴らしてガラス玉を返してやると、湊はそれを大事そうに手に載せてじっと眺める。見惚れているという方が近いのかもしれない。蝋燭の炎が、白い頬にちらちらと揺れている。

「海岸で見つけたんだ」

「これと、海に溶けるっていうのが関係あるのか」

「この中を見てると、無性に海に入りたくなるんだ。そして泳いでたら、段々海に溶けていく気がする。僕も海の一部になっていくみたい」

 彼は恐らく想像力の豊かな感受性の強い子どもなのだ。真斗はそう決着をつけた。まるで五歳児の妄想のようなことを平気で口にし、実際に夜の海で泳いでいる。奇行とも呼べる行為だ。だが、少なくとも希死念慮からそんな行動に出ているわけでないことを知り、少しだけほっとした。

「でも、夜の海なんて危ないと思うんだけどなあ」

 それでも、いつか本当に海の藻屑となってしまいかねない。彼の夢を壊さないよう気を付けた忠告に、湊はそっと握ったガラス玉をポケットにしまって頷いた。

「だから、波が穏やかな夜だけだよ」

「万が一足がつっても、誰も気付いてくれないだろ」

「……準備運動、してるから」

 湊は長い睫毛を伏せて言い淀む。危険なことをしている自覚はあるらしい。

「そんなら、俺が見ててやるよ。少しは泳げるから、溺れたら助けに行ってやる」

 ばつの悪そうな顔が心苦しく、ついそんな台詞を口にしていた。湊は僅かに曇らせた表情をぱっと輝かせ、「いいの」と聞いた。

 島の生活に飽き始めていた真斗は、いいよと答えた。


 天気の良い昼間が続き、それは夜も同じだった。それから真斗は夜になるたび民宿を出て、途中で待ち合わせた湊と共に海辺に向かった。彼が海で泳ぐ時間はせいぜい二十分ほどで、それからは浅瀬で遊んだり、綺麗な貝殻を探したり、砂浜に座って他愛のない話をして過ごした。真斗も湊もお喋りな方ではなかったが不思議と気が合い、いつも気付けば日付が変わる頃まで一緒に過ごしていた。

「夜は、あんまり出かけん方がいいんとちゃいますかな」

 その晩も外へ出かけようとする真斗に、民宿の親父が声を掛けた。

「もし事故になんか遭うても、誰も気付いてくれませんで。ただでさえ人の少ない島ですから」

「はあ、まあ約束してるんで……」

 約束、と親父が繰り返すのに、失敗したと真斗は思った。湊と海で遊んでいることを知られて良いことはない。適当に誤魔化せばよかった。

「約束って、こんな夜更けに誰としてらっしゃるんや」

 案の定、興味を引かれたらしい親父に、仕方なく真斗は答える。

「島の子です。子どもっていっても、高校生くらいの……」

「そんな歳の子、島におったかな」

 親父が首を傾げるのに、奇妙な感覚を覚える。この小さな島で、島民同士が認識されていないはずがない。つい真斗は、湊の名前を口にしていた。

「ああ……そういえば、今年の春に越してきた子やな。そうかそうか、なんや、太陽に弱い病気やっていうてたな」

 合点がいったという様子で親父は何度も頷いた。どうして真斗が陽の暮れた時間に外出するのか、納得したようだった。

「そんでも、あまり遅くなったら危ないで。気いつけてな」

「はい、気をつけます」

 心配の言葉に軽く頭を下げ、真斗はそそくさと民宿を後にした。

 親父が納得したとはいえ、胸の中にはしこりのようなものがぽつりと出来上がっていた。湊が仮に四月に島に来たとして、既に四カ月が経つことになる。この島に高校はなく、小中学校を卒業すると、ほとんどの子どもが進学にしろ就職にしろ島外へ出ていってしまう。そんな中、珍しい十六歳の子どもが入ってきたのだ。湊は普段からよほど目立たず過ごしているのか。

 きっと病気で昼間に外を歩けないせいだろう。こんな小さな島でひっそりと隠れるように暮らす彼が無性に不憫で、真斗は足早に待ち合わせ場所へ向かった。

 堤防沿いの街灯の下、既に立っている小さな影は、真斗の姿を見つけると大きく片手を振った。真斗も軽く手を振って駆け寄ると、逆光で分からなかった笑顔があらわになった。

「そんなに急いでこなくていいのに」

 袖の長いウインドブレーカーに手元が隠れ、まるで華奢で色白な女の子のように見える。肩にはタオルと水着の入ったトートバッグを提げている。

「湊が待ちきれなくて海で泳いでいるかもしれないからな」

「そんなことしないよ。約束したんだから、ちゃんと待ってるのに」

 街灯の明かりを結ぶように並んで歩く。腰までの高さの堤防を挟んで、穏やかな波が打ち寄せる音が聞こえる。真斗は潮の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。それを見て、湊も同じように深呼吸をした。

 いつもの砂浜に下りても、湊はすぐに着替えて泳ぎに行こうとはしなかった。ぐずぐずと話を続けるのに、つい真斗の方から「泳がないのか」と声を掛ける。

「うん」

 彼は頷いて僅かに目を伏せた。サンダルのつま先で砂をつつき、眩しそうに目を細めた顔を上げる。

「僕、そろそろ海に溶けちゃうかもしれない」

「どういう意味」

「だから、海に溶けちゃうかも。それは別にいいんだけど、これが最後かもしれないから、つい」

 海に溶ける。最初に会った時も湊が同じ台詞を口にしていたことを思い出した。しばらく言わなくなっていたから、真斗は忘れかけていた。

「溶けるわけないって。人間が海水に溶けるなんて、あるはずないだろ」

 当然の理屈を話しながら、真斗は頭の中に暗く黒い影が差すのを感じる。その影は湊を連れ去り、目の前から永遠に消してしまう気がする。だから自分に言い聞かせるように言った言葉に、湊はうんと頷かなかった。

「溶けちゃうんだよ……」

 囁くような声と共に、両手で自分の胴をそっとさする。

「段々、空っぽになっていってる気がする」

 ウインドブレーカーの上からでも、彼の細い体格が見て取れた。元からあまりに中身の少なそうな腹は、小さな手のひらの間でぺしゃんこになってしまいそうだ。

「馬鹿だな……」掠れそうな声を捻りだしながら、真斗は無理に頬を上げる。「それなら、もう泳がなきゃいいだろ」

「泳ぎたいんだ」

 彼の真っ黒な瞳に、星明りが輝いている。

「海に入りたいんだ」

 人が海に溶けるなんてあり得ない。真斗はそう言ってしまったから、湊を止めることはできなかった。

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