エピローグ 昨日、彼女が死んだんだ

昨日、彼女が死んだんだ

 紫月と礼佳は手を繋いでもみじの木の幹に寄りかかっていた。


「あれからもう10年が経つな。当時は高校2年生だったか。ふふふっ、あの頃が懐かしいな」


「そうだね。5人が全員揃うのも久しぶりだよね」


 慶吾は幼い息子にねだられて肩車をした。

 息子は甲高い声を上げて喜んだ。


「俺たちは村にいないからな。紫月と郁弥は毎日会ってるんでしょ?」


「まあな。職場が同じだからな」


 卒業後、慶吾と瑠璃は村を出て結婚した。

 町でアパートを借り、慶吾はサラリーマンに、瑠璃は専業主婦になった。

 生活が安定して子供が生まれると、2階建ての家を購入した。


 紫月と礼佳も結婚し、村に家を建てた。

 紫月は村役場で働き、礼佳は妊娠してからこの神社の巫女をやめて専業主婦になった。

 それから田畑の一画を購入し、農業を営むことにした。


 郁弥と先輩も結婚し、2人の子供がいる。

 郁弥は村役場で村おこしに携わり、先輩は子供たちを養うために町に出稼ぎに行っている。


 先輩は2人の娘に付き添って屋台を回っていた。

 彼女も子供のようにはしゃいでいるのが遠目に見えた。


「それにしても、瑠璃は高校生の頃に比べて背が高くなったよな。もうちびって言えなくなっちまった」


「そりゃあもう瑠璃も27歳だからね。郁弥もヤンキーっぽくなくなったよね。黒髪に染め直して正解だよ」


「まあ、村役場で金髪はまずいし、娘もいるからな。親父がヤンキーみたいだったら友達ができないかもしれねぇだろ」


「はははっ、郁弥もお父さんらしくなったな。子供が生まれたての頃は全然似合わなかったけど、今じゃ俺よりお父さんらしいよ。いつの間にか2人目の子供もいたしな。紫月はこれからお父さんだな。男の子か女の子かもうわかってるのか?」


「うん、女の子だよ。お父さんになるのが楽しみで仕方ないよ。子育ては大変?」


「まあ、そうだな。大変だけど幸せだよ。今になって両親の気持ちが理解できたよ。夜泣きしたり駄々をこねたりして迷惑をかけたけど、俺は両親にそれ以上の幸せをあげてたんだな、ってさ。なあ、郁弥?」


「おう。娘は可愛いしな。両親も孫が可愛いって言って溺愛してるぜ。俺が女だったら親孝行だったのかもな」


 噂をすれば、射的の屋台の方から2人の幼い娘が郁弥を呼んだ。


「お父さーん、熊さんのぬいぐるみがほしいのー!」


「取って取ってー!」


「よーし、待ってろよー、お父さんが1発で取ってやるからなー。悪い、もう行くわ。来年の正月にまた会おうぜ。慶吾と瑠璃は来年もこの神社で初詣をするんだろ?」


「そのつもりだよ。どうせ実家には帰ってくるしね。じゃあ、俺たちも行くよ。礼佳、体調に気をつけてな。もう肺炎にはなるなよ」


「ばいばーい。礼佳、元気な赤ちゃんを産んでね」


「ありがとう。皆も元気でな」


 慶吾一家と郁弥が参拝者でひしめき合う屋台の方へと遠ざかっていき、紫月と礼佳は晩秋のような哀愁を感じた。


 卒業以来、慶吾と瑠璃が町に出たこともあり、5人が揃うことはめったになくなった。


 最後に集まったのは正月だった。

 高校生の頃は毎日のように顔を合わせていたというのに、今ではめっきり会う機会がなくなってしまった。


 だが、これが大人になるということだ。

 大人になったら、働いて生活費を稼ぎ、大切な人と結婚して家庭を持ち、子供が生まれて親となる。

 家族ができると、多忙のうちに友達のことなんて頭の片隅に追いやられてしまう。


 でも、僕たちの絆はこうして繋がっている。

 生きているだけでいいんだ。

 生きていれば以心伝心の輪が途切れることはない。

 僕たちは生きている。


 林檎飴を舐める礼佳の大きな腹をさすり、紫月は恍惚とした溜め息を吐いた。


「僕もいよいよお父さんか。ねぇ、礼佳、僕には夢があるんだ」


「どんな夢だ?」


「子供が成長したら、肩車をして黄金色の海を見せてやりたいんだ。お父さんが僕にしてくれたみたいにさ」


「ふふふっ、素晴らしい夢だな。きっと子供にとっても特別な景色になる。はぁ、私も母になるのか。まさか私が母になれるとはな」


 2人はもみじの木を見上げた。


 10年前と変わらないのはもみじの木だけだ。

 鳥居は赤漆のものに建て替えられた。

 石段は平たくなり、両端に手すりが設置された。

 拝殿と本殿は改装されて新しくなり、山の泉へと続く参道が切り開かれた。


 すると、礼佳が「あっ!」と声を上げた。


「どうしたの、礼佳?」


「今、お母様が枝の上に座っていたような気がしたのだ。ほら、あそこだ」


 礼佳は指を差したが、紫月には何も見えなかった。

 いや、彼女も母を見たわけではなかった。

 もしかしたら、気のせいだったのかもしれない。


 礼佳は穏やかに微笑して紫月の手を引いた。


「紫月、帰ろう。今日は疲れた。家に帰って休もう」


「そうだね。くれぐれも僕の手を離さないで。石段から転げ落ちたら大変だ。礼佳は妊婦さんなんだから」


「ふふふっ、わかっている。紫月、最後まで支えてくれ」


「うん、礼佳」


 甘美な夢をその胸に宿した紫月は父になろうとしていた。

 新たな命をその胎内に宿した礼佳は母になろうとしていた。


 石段の上から村を見下ろす。


 藍色の月光を照り返す稲はさながら碧海だった。


 昨日、神代さんが死んだんだ――10年前、海底に沈めた言葉は時間という砂の中に埋もれていた。

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昨日、彼女が死んだんだ ジェン @zhen_vliver

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