死と彼女9

「神代さん、この神社にはもう神様はいないの?」


「いるぞ。お母様が見守ってくれている」


「えっ! 僕たち、神代さんのお母さんの前で告白してキスをしたのっ?」


「恥ずかしがることはない。お母様は私が幸せになることを望んでいる。私は今とても幸せだ。好きな人と手を繋いで一緒に好きなものを見上げているのだから」


「……僕もだよ。僕たちって、以心伝心だよね」


「以心伝心?」


「文字や言葉を使わなくても心が通じ合うことだよ」


「ああ、思い出した。中学校の国語で習ったな。私も紫月とは以心伝心だと思うぞ。では、私が今何を考えているかわかるか?」


「うーん、そうだなぁ……あっ、わかった。お昼のお弁当のことでしょ? 神代さん、昨日もお弁当を作ってないから」


「おお、当たりだ。では、私が言おうとしていることもわかるな?」


「わかってるよ。お弁当をわけてほしいんでしょ? 安心して、お母さんが神代さんの分も作ってくれたよ。お母さん、まだ神代さんが記憶喪失だと思ってるからさ」


「……そうか。紫月、私は真実を話すべきだろうか? 私は皆に嘘をついた。真実を打ち明けて謝るべきだろうか?」


 悩むまでもなかった。

 ただ、紫月は真実の意味について思案していた。


 真実とは一体なんだろう?

 正しいことが真実?

 間違っていることが虚偽?


 確かに、その通りだ。

 ほとんどの場合、真実が正しくて虚偽が間違っている。


 だが、いつも真実が正しくて虚偽が間違っているとは限らない。

 真実が間違っていて虚偽が正しいこともある。

 誰かを傷付ける真実は必要ない。

 虚偽で隠してしまえばいい。


「僕は記憶を取り戻したってことでいいと思うな」


「どうしてだ?」


「だって、神代さんは神代さんなんだから。口調と性格は変わっちゃったけど、それ以外は何も変わらない。神代さんは神代さんでしかないんだ。もう誰にも代われない」


「そう、だな。私は神代礼佳だ。それ以外の何者でもない」


 2人は起き上がり、制服についた落ち葉を払った。


「はぁ、遅刻だね。皆、心配してるだろうなぁ。遅刻なんて初めてだよ」


「私が遅刻するのはこれで二度目か。鞄を拾っていかないとな」


「あっ、僕も家の前に鞄を置いてきたんだった。取りに帰らないと。神代さん、急ごう」


 紫月は手を引こうとしたが、礼佳は足から根を生やしたように動かなかった。

 彼女はむっとふてくされていた。


「どうしたの、神代さん?」


「紫月、ずっと気になっていたのだが、どうして名前で呼んでくれないのだ?」


「えっ、どうしてって言われても……出会ってからずっとそう呼んでるし、もう慣れちゃったんだよ。それに、今さら名前で呼ぶのは恥ずかしいよ」


「むぅ、私の願いも1つくらい叶えてくれてもいいではないか。キスはできるのに名前は呼べないのか?」


「えっと……」


 つくづく僕は意気地なしだな。

 いつもちょっとだけ勇気が足りなくて、結局は何もできないんだ。

 勇気を振り絞ればできるのに、誰かに支えてもらわないと踏み切れない。

 だから、今まで後悔ばかりしてきた。


 紫月は金魚のように口をぱくぱくさせた。

 あと一押しで名前を呼べそうだった。


 もう後悔なんてしない。

 神代さんに支えられてばかりじゃ駄目だ。

 僕が神代さんを支えるんだって決めたじゃないか。


 名前くらい呼べるさ。

 だって、告白もできたし、キスもできた。

 たった一握りの勇気を出せばなんだってできる。


 今日から僕は変わるんだ。


「――礼佳」


 紫月はもみじのように頬を紅葉させた。


 礼佳は満足そうにはにかみ、柔らかなもみじに唇を寄せた。

 彼女は神でなくとも、紫月にとっては女神であった。


「い、行こう、礼佳!」


 礼佳の手を離さないようにしながら、紫月は石段を1段ずつ飛ばして下りた。

 筋肉痛のはずだったが、不思議と足取りは軽かった。


 軽快に躍動する美躯。

 妖花のごとく揺れる黒髪とスカート。


 礼佳は生きていた。

 肺炎で死んだ彼女は嘘のように健康的だった。


 高く澄んだ秋空の下、2人は生きていた。

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