第4話

 004



 信じたくない真実を告白され、おまけに更なる欲求の飛躍を求められた怒涛の放課後が終わったのは、すっかり日が暮れて遠くの野山に野良犬が吠え叫ぶ頃。



 聞き慣れたセミの夜鳴き声を聞きながら、フラリフラリと歩いてようやく家に辿り着く。玄関には、既に親父の革靴が置いてある。高校生になってからというモノの、最後に帰ってくるのはいつも俺だ。

 まぁ、それだけ現文部の活動、もとい北野先輩と過ごすのが楽しいというワケだし、何か嫌な気持ちを抱いたりはまったくしないけど。



「ただいま、今日は先に風呂入るよ」

「おかえり、お湯は抜かないでね」



 リビングでお袋と親父に挨拶をしてから、二階の自室に入り床へ鞄を放った。料理の出来具合を見る限り、完成にはまだ時間がかかるだろう。深くため息をついてシャツを脱ぎ、適当に鞄へ突っ込んでいた体操着とまとめると、俺はパンツ一丁で浴室へ向かった。



「おかえり、お兄ちゃん」

「ただいま」



 パジャマ姿で出くわした妹は、今更見慣れた俺の半裸には一切の感想も述べず、スマホを弄りながらスタスタとリビングへ入っていく。中学二年生という多感な時期にも関わらず、目立った反抗はせず、いわれの無い悪口なんかも吐かないあたり、我が妹ながらよく出来た人格であると感心する。



 まぁ、もしかしたらその反動で、大人になった時にとんでもない反骨精神を剥き出しにして襲いかかってくる可能性も否めないが。恐らく、そんなことは俺に心配されるまでもないだろう。

 むしろ、気にする素振りを見せたら、それこそ嫌われて口を利いてくれなくなる可能性もある。そんなことになるくらいなら、互いに無関心でいるくらいがきっと兄妹的にちょうどいいのだ。



 体の汚れを洗い流し、家族三人が使ってややヌルくなった湯に浸かると、俺は鼻歌でワルキューレの騎行を奏でながら残響を楽しんで、曲の続きが分からなくなったところでボンヤリと吉沢先輩のことを考えた。



 冷静に考えてみれば、なぜ俺はこんなにも彼女のことが嫌いなのだろうか。



 あざとい女など幾らでもいるし、自分の美貌を鼻にかけている女だって星の数ほどいる。頭が良くて、スポーツが出来て、サブカルチャーに精通していて、そんな女だって吐いて捨てるほどいるに違いないし、中には彼女のようにすべてを兼ね備えた女だって存在するに決まっている。



 ならば、彼女だけを嫌いでいる理由がよく分からない。大体、一番身近にいる妹ですら無関心を貫く俺のスタイルにおいて、わざわざエネルギーを消費し『嫌う』だなんて、まるで主義に反して矛盾するではないか。



 ……嫉妬、しているのだろうか。



 俺には、サブカルチャーしかなかった。もちろん今でもそうだ。人付き合いが苦手で、分かってもらうための方法が分からなくて。小学生の時も、中学生の時も、俺がその場に存在することで周りに迷惑がかかるなら、最初から関わらない方がいいと決めつけて生きてきた。だから、ずっと一人でただコンテンツを消費する日々を送ってきたのだ。



 吉沢先輩は、そんな俺に匹敵する知識を有している。あれだけ多くの才能を備え、更に後天的に身に着けるしかない知識まで持ち合わせている。そんな理不尽に憤りを覚え嫉妬し、結果嫌ってしまったとか。



 ……いや、ないな。



 なぜなら、彼女よりも更に知識を持っている北野先輩のことを俺は尊敬しているからだ。そもそも、俺は俺よりも優れた人を見て嫉妬するほど真剣に努力したことなどない。だから、すべてを捧げた蓄積にあっさり並ばれたとしても、別に腹を立てることなどないのは明らかだ。



 ならば、彼女が先に俺を嫌ったから?



 いや、これも違う。まだ寂しさを捨てきれず、楽しそうに遊ぶ明るいクラスメートたちの中に入りたいと思っていたあの頃。頼み方も知らなくて黙っていた結果、キモがられて嫌われた経験を俺はしてきている。



 しかし、彼らのことはまったく嫌っていない。どう考えても、みんなの当たり前が出来ない俺が悪かった。むしろ不気味な思いをさせて申し訳ないとさえ思う。だから、嫌われたから嫌うだなんてことも、俺なら絶対にありえない。



「分かんねぇなぁ」



 今頃、先輩は俺をメチャクチャにしているのだろうか。あんな小さな体で、一体どうやってメチャクチャに壊すのかは理解に苦しむが。まあ、バットでぶん殴って昏倒したところを無理矢理犯してるとか、そんな感じか。



「……でも、それって立たなくねぇか?」



 要するに、女が男を犯すのが難しい理由とはここなのだ。防衛本能の働く女のそれとは違い、絶望的な状況に陥ったとき、なんというか、その……。うん、まぁ、ほら。分かるだろ、俺の言いたいことはさ。……つまり、そう、そういうことだよ。行為に及ぶコンディションを、男は整えられないってことなんだよ。



 ……やーめた。



 なんだよ、この心配は。アホか。



 そもそも、性的な知識に乏しい俺には思い浮かばないだけで、きっと幾らでもやりようはあるのだろう。嫌いな相手の妄想のリアリズムを追求して悩むだなんて、これはもう、非日常のせいで感染した吉沢ウィルスの影響としか思えない。



 後で、記憶データを外部デバイスにコピーした後、フォーマットをかけてクリーンにする作業に勤しむとしよう。もしくは、俺の処理能力を超えるくらいのポルノでも眺めて吉沢ウィルスを上書きしよう。与えられた使命はネタの提供であって彼女を憂うことではないのだから、悶々とさせられるのはお門違いって話だ。



 ……なんて、こんなふうに色々と考えてしまうから、俺は知りたくないことは知らないままでいたいのに。



「お兄ちゃん、ご飯出来たよ」



 妹の声が扉の向こうから聞こえた。気が付けば、風呂の湯はすっかり冷めてしまっている。割と長い時間悩んでいたらしい。解決は最短最速がモットーなのに、たったの二日で崩壊してしまったようでガッカリした気分だ。



「了解、今上がるよ。先に食べてて」

「ダメ、待ってる」



 妹の影が消えたのを確認してから、湯船を出てシャワーで汗を流し脱衣所へ。体を拭いて髪を軽く乾かすと、適当なシャツと短パンを纏って浴室を後にする。



 夕食のポークソテーを食べ終わり、皿洗いを終らせて自室へ。なんだか疲れてしまったから今日はもう寝ようと思い直し、再び下へ降りて歯を磨いていると、珍しく妹が俺に声をかけてきた。



「ねぇ、なんかあったの?」



 ……思わず、ミント味の唾液を少し飲んでしまった。過剰に得た爽やかさを流すため、うがいをしてから水道水を二杯飲み干す。その間も、妹は鏡越しにジッと俺を見て、どこか心配そうにモジモジとしていた。



「何もないよ。兄ちゃん、なんか変なところあった?」

「うん。なんか、変」

「どんなふうに?」

「分かんない。でも、今日のお兄ちゃんは変だよ。お風呂長かったし、すぐに寝る支度してるし、いつも見てるドラマも観に来ないし、剣も振らないし」

「ちょっと疲れただけだよ。それに、ドラマは録画してある」



 妹は、俺を訝しむようにジロジロと観察し、「ふぅん」と呟くと階段を登ってった。いつもより足音が大きく聞こえる。どうやら、我が家の姫様を怒らせてしまったようだ。



 扉が閉まる音の後、静かに登って妹の部屋の前に行くと、扉越しに「風邪引いただけだから」と苦し紛れの言い訳をして自分の部屋へ。ベッドに入って電気を消すと、またしても妹の部屋の扉が開かれた音。部屋の前を素通りしたかと思えば、三分ほどでノックも無しに入ってきた。



 電気のスイッチをパチリと入れた妹の持つお盆には、電子レンジで温めたと思われるホットミルクとキンキンの氷枕、そして冷えピタがある。重ねてになるが、本当によく出来た妹だな。どこに出しても恥ずかしくないとは、まさしくこの子のためにある言葉だろう。



「秋口にそんな薄着してるからだよ」

「おっしゃる通りで」

伝染うつさないでよね。私、もうすぐ修学旅行なんだから」

「気をつける」



 俺のデコに冷えピタを貼った妹は、どこかで聞いたことのあるため息をついてからワークチェアに座った。ホットミルクを飲むのを見届けたいのだろう。いや、出ていかないことから察するに、俺の嘘を見破った上で皮肉の看病セットを持ってきたのかもしれない。



「もしかして、カノジョでも出来た?」

「ありえないだろ」

「……まぁ、それはそうか」



 しばらくしてミルクを飲み終わると、妹はワークチェアから立って「ん」と手を突き出した。マグカップを寄越せとのお達しだろう。大人しく手渡し、その瞬間に剥がれかけた冷えピタを無理矢理くっつける。熱があるワケではないから、こうして落ちるのは当たり前だった。



「それじゃ、安静にしてよ」

「ありがとう、おやすみ」

「氷、欲しかったら呼んでよね」

「ありがとう、おやすみ」

「ふふっ、本当にバカなんだから」



 最後に笑ってくれてよかった。



 俺は、ひとまず許されたことを実感して妹を見送ると目を閉じる。すまんな、我が妹よ。そのうち、気の利いた菓子の一つでも買ってきて、お前が中学生活で溜め込んだ四方山話にウンウンと相槌を打ってやるさ。



 ……次の瞬間、カーテンの外はすっかり明るくなっていた。どうやら、とても貴重な平和な時間なのに、夢を見る暇もなくグッスリと眠ってしまったようだった。

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地雷姫 夏目くちびる @kuchiviru

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