第3話
003
女の容姿に興味が湧かないのは、以前、偶然発見したとある一本の動画を見たからだ。
それは、メイク動画だった。出演している女性はのっぺりとした顔つきにまぶたも一重で、しかしニコニコと笑っているから不細工には見えない、きっと明るい性格の持ち主なんだろうな、と容易に想起させる人だった。
普段ならばさっさと飛ばしてしまうところだが、その時の俺の気まぐれは動画を最後まで視聴することを選んだ。すると、女性は慣れた手つきで自分の顔面へ滑らかに線を引き、三分後には真っ白な肌を、五分後には大きな目を、八分後には艷やかな唇を作り出して、最後には冒頭と比べ物にならない程の美人が現れていたのだ(おまけに胸もデカくなっていた)。
それを見て、俺は「かわいいって本当に作れるんだなぁ」と感嘆した。故に、女の容姿に限っては、目に見えている情報は偽物である可能性も少なくなく、だからこそ町中を見渡しても美人ばかりが闊歩しているのだと納得してしまった。
当然、偽物なだけで嘘だとは思わない。努力だって魅力の一つに違いない。しかし、俺の個人的な感覚にまでポリティカル・コレクトネスを反映させることは流石に出来ず、結果、美人であることが魅力的だとは思えなくなってしまったのだ。
しかし、それとは別にもう一つ、あのメイク動画に学んだことがある。それは、『表情は偽物じゃない』ということだ。笑ったり、悲しんだり、怒ったり、そういう情報は化粧で作り出すことが出来ない。だからこそ、俺は冒頭の場面での彼女に好感を抱いて気まぐれを起こしたのだろう。
つまり、俺の好きな異性のタイプは表情が豊かな人である。どうでもいいけど、異性に限定したことに深い意味はないと注釈をつけなきゃいけない世の中は、とても窮屈で不自由だと俺は密かに思って飲み込んだ。
「なにその無意味な話、タランティーノのパクリ?」
タランティーノ作品の劇中に登場する些末な会話は、レッドヘリングと呼べるほど物語にまったく無関係なワケではない。しかし、俺と先輩の関わりにおいて、俺の好みがまったくの無関係とは言い難い点を鑑みれば、逆に彼女の言う通り滑稽なパクリになってしまうんじゃないかとも思ってしまった。
「別に、ただの世間話ですよ。俺があなたに惚れることはないという牽制の意味も込めた、ね」
「あはっ、あんたって本当にバカねぇ。そうやってあたしを嫌うほど、屈服させた時に気持ちよくなるんだから宣言する方が損なのに」
「……まぁ、いいです。それで、なぜ俺を呼び止めたんですか。みんな帰ってしまいましたよ」
現文部の活動を終えてトイレに入り、用を足して廊下に出た瞬間、俺は吉沢先輩に捕まって部室へ舞い戻る運びとなった。しかし、先輩は閉じ込めるだけ閉じ込めて話もせずスマホを弄っていたため、俺は先程の会話を繰り広げて間を繋げようと努力したのだった。
ひょっとして、俺の時間を無為に浪費させることが目的なのだろうか。それはある意味、手っ取り早い方法が最善だと考える俺にとって最も効果的な拷問と言えるような気がする。
「あんた、どうして私がここでオナニーしてたのか分かる?」
分からないですし、知りたくもないです。
「それはね、普通に致すだけじゃ満足出来なくなっちゃったからなの。覚えるのが早くてね、恥ずかしながら、何回かママ――。母親に見られたこともあったわ」
あぁ、知りたくないって言ったのに。
情報の厄介なところは、どれだけ知らんぷりしても無意識のせいで否が応に考えさせられてしまうところだ。つまり、お陰で俺はこれから先、いろんな場面で先輩のオナニーについて考えさせられるハメになったのだ。
勘弁してくれ。これじゃ、変態は俺の方になってしまうではないか。
「まぁ、どうでもいいです。端的に要件を述べてください」
「んふふ。つまり、新しい快感が欲しくなっちゃったワケ。ここでしてたのは、いわゆるスリルを試していたからね」
その火遊びのせいで、俺は厄介な面倒に巻き込まれてしまったというのか。この人ほど狡猾ならば、俺が文庫本をテーブルに置き忘れているのを見つけていただろうし、ならば取りに来ることだって容易に想像出来たハズなのに。
……あれ。
だったら、どうなるんだ? 先輩が試していたのは『誰かに見られる』ではなく、『俺が本を取りに来るかもしれない』という至極限定的で現実感のあるスリルだったんじゃないのか?
流石に考え過ぎか。いや、しかし、この人なら或いは。でも、だったら本格的に意味が分からない。嫌い合っているという関係は、彼女にとってそれほどまでに甘美だとでも言うのだろうか。
「質問の答えになっていません。姫様には、俺にやらせたいことがあるんでしょう?」
「……まぁ、うん。あるわよ」
冷静に考えてみれば、またしてもこの時間に部室にいるのは愚行も甚だしい。結局、彼女は周囲を味方につけていて、どんな無理難題も否を唱えれば俺が悪者に仕立てあげられるのは明白だ。
同じ轍を踏むとは、俺のバカっぷりも相当に救えないな。
「なにを言い淀んでるんですか、今更恥ずかしがるようなことなんてないでしょう」
「言うわよ! 言うに決まってるでしょ!? もうちょっとで言うから黙ってて!!」
やたらに甲高い声で喚いたかと思うと、先輩は自分の腕を抱いて本棚に並ぶ同人誌たち(全年齢版)の背表紙を目で追った。精神を落ち着けるために、頑張って緊張を緩和させている。嫌いな相手だが、そういう態度をとられては見守らないワケにもいかない。
やがて、大きく深呼吸をして俺を見上げる。今更気が付いたことだが、この人の前髪はヘアピンで留めてあるようだった。
「こ……っ」
電気もつけていない部室。夕暮れのオレンジがボヤケて、薄闇に彼女の姿が隠れたとき。思わず太陽の行方に目を向ける。
その刹那だった。吉沢先輩が俺のネクタイを掴んでグイッと引き寄せ、吐息の当たる位置にまで顔を近付けたのは。
「これから
……俺は、この時ほど『終わってる』と思ったことはない。そして、これから先の人生でも、これ以上に終わっている機会は絶対に訪れないだろうと確信した。
それくらい、彼女の言葉は荒唐無稽だった。ひとえに、「イカれている」という感想しか思い浮かばないほどに。
「頭、大丈夫ですか?」
「ふ、ふふっ。知らなかったの? あんたは、とっくにあたしのオナネタなのよ。これからは、下僕としてあたしの更なる欲望を満たすためだけに身を捧げなさいな」
怒涛のカミングアウトが苦しい。やめてくれ、俺をASMR配信者みたいに扱うのは。
「やぶさかにも程があります、明らかに俺が出来る範囲を越えた願いです」
「いいじゃない、ヤラせろって言ってるワケじゃないんだから。きっと、不純異性交遊にすら該当しないわね」
既にふくらはぎを触らされているのだから、十二分に該当するに決まってるだろうに。
「こんなことを言うのはなんですが、どこかで格好の良い男でも捕まえて、その人に欲望を発散させてもらえばいいじゃないですか」
なんなら、現文部にだって喜んで身を捧げる男はたっぷりいる。客観的な意見を言うのであれば、吉沢先輩ほどの女なら言葉通りよりどりみどりなのに、なぜ迂遠な方法で性欲を解決させ、しかも相手に俺を選ぶというのか。
「だって、エッチするのはイヤだもん」
「……はい?」
「イヤよ! 男に体を触らせて、あまつさえ主導権を握らせるなんて! もしも首に手が掛かったら、か弱いあたしなんて一瞬でやられちゃうでしょ!?」
「そんなこと、普通の高校生ならありえな――」
「あり得るのっ!!」
それは、あまりにも歪な形をしていた。
「……あり得るのよ」
過去に経験をした。そんな事実は、欲望と恐怖の狭間で揺れる彼女の弱い姿を見れば、言葉にされずとも理解出来た。
要するに、この人は男が怖くて、怖くて怖くて怖くて怖くて仕方ないのだ。
だからこそ、自分に備わった才能を振るって男を従わせている。偉そうな態度で命令し、相手を手足のように使うのは、対等な関係を結べないほどに怯えていて、けれど無関係でいることはプライドが許さないからだ。
嘗ての自分が男に敗北したのだと、他でもない彼女自身が思い込んで生まれた精神を蝕むパラノイアを紛らわすためなのだ。彼女の『姫』というあり方は、自分が優位に立っていると実感出来なければ、コミュニティにすら所属出来ない脆弱な精神の産物だったのだ。
故に、俺の忘れた文庫本に気が付いてもスリルを追求した。いや、すべて計算の上で俺を待っていた。互いに嫌いであることが、唯一の信頼を結ぶ鍵になるかもしれないと希望を抱いたから。
嘗て自分が受けた恐怖を、いつまでも靡かない俺を脳内で犯すことで克服しようとしているのだ。
「……可哀想ですね、先輩」
「姫様よ。それに、同情なんていらないわ。結局のところ、あたしはあんたみたいなムカつく男をメチャクチャにブッ壊したいって欲望を発散したいだけなんだから。被害者ヅラこいて同情させようなんて、これっぽっちも考えてない」
はて、どうしてかな。縋るようなあざといやり方は大嫌いなのに、こうして憎まれ口を叩きながら本音をブチ撒けられるのを嫌いになれないのは。
「断ったらどうなるんですか?」
「あたしの心を見透かしておいてまだ断れると思ってるのは、もはや諦観を通り越して尊敬に値するレベルだけど。……そうね。あたしの全身全霊全力全開を尽くして、あんたが二度とまともに授業を受けられないようにするわ」
「あなたにそんな力があるとは思えません」
「なら、試してみる?」
強気に俺を睨みつけ、尚もネクタイを握りっぱなしの彼女の手に自分の手を重ねて静かに降ろさせると、意外にも吉沢先輩は素直に従ってから視線を握られた手に移した。
心配しなくてもずっと握っている気はないです。単純に、首が苦しいから離れたかっただけですよ。
「それで、どうなの? やるの? やらないの?」
沈黙が雄弁に勝るというのは、いつ如何なる時も当てはまる事象ではないらしい。少なくともこの場では、何か答えを出さなければ問題が解決する結末は見えなかった。
……ならば。
「分かりました。承りますよ、姫様」
不承不承ではあるが、これしか道は残されていない。綿密に計画し、確実に俺をモノにしようと画策していた彼女に対して、俺はあまりにも不用心だった。のほほんと毎日を生きてきたツケが、まさかこんな形で罰を与えに来るとは思っていなかったが、今更嘆いたって彼女の物語は始まってしまっている。
要するに、俺は負けたのだ。
ならば、勝者の命令に従わなければならないというのは、自然の摂理から言っても当然の答えだ。それに、この窮地で起死回生の策を思いつかない未熟な自分を戒める意味でも、嫌いな女の言いなりになるといいのはある種の正解であるといえるだろうさ。
「……んふふ。そう、分かったわ。なら覚悟しなさい。あたしの脳内映像があんたの夢に伝播するくらい、激しい憎悪を以て徹底的に犯してあげるから」
そんなことを言われたって、妄想の中での話なのだから俺には関係ないだろう。なんて浅い安心を覚えて落ち着けるほど、流石の俺もバカではない。
『ディテールに凝る』というのは、言い換えればつまり『苦しめた時の俺の反応を見たい』ということなのだろうから。これから先、俺が吉沢先輩に苦しめられることは間違いないと言っていい。
ならば、問題はどうやって苦しめられるかだが――。
「お手柔らかにお願いします」
妄想力に乏しい俺では、イマイチ具体的な未来は見えてこなかった。無論、この時、具体的に彼女のやり方を思い付けていたのだとすれば、何を犠牲にしてでも断っていたことは言うまでもないだろう。
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