第2話
002
高校生になっていつの間にか半年が経っている。夏休みにはまったく縁がなかったハズなのに、どうやら俺の帰属意識は現代文化研究部(以下、現文部)でしっかり根付いているらしい。
何事にも精一杯頑張る委員長に倣って教室の掃除を終わらせた俺の足は、放課後になれば特に意識していないのに部室へと向かっていた。
これがパブロフの犬というヤツなのだろうか。昨日の事があって、どうせ面倒が起きるのは分かっているのに、俺の健気さと言ったら実に涙ぐましいモノである。
……いや、逆か。
今日の活動をバックレたら、行ったパターンよりもクソ面倒なことになるのが目に見えているからこそ、俺は部室へ向かっているのだ。ということは、この意識の無さは思考放棄という名の処世術なのかもしれない。
俺は、思っていた以上に自己愛に溢れた己の人格を少しだけ褒めると、覚悟を決めてから部室棟の階段を上った。現文部の部室は、忌々しいことに頂上の三階だ。
「なぁにチンタラ歩いてんのよん」
背中を叩かれて振り返ると、そこには昨日付で俺の姫様に即位なされた先輩が、下からでも見下してやると言わんばかりの憎まれ面で偉そうに立っていた。
死ぬほど偉そうに見えるのが、俺が無意識に主であることを認めたからなのだとすれば俺の奴隷根性の極まりっぷりを嘆くハメになるので、なるべく強く彼女の態度が印象を物語っていることを願っておこう。
「お疲れ様です、先輩」
「姫様、でしょ? まさか、昨日の今日で忘れたワケじゃないわよねぇ」
その場のノリであったという最後の可能性にかけていた自分の未練がましい精神を恨んでも仕方ない。大人しく「お疲れ様です、姫様」と言い直し、俺はなるべく二人きりを早く終わらせられるようスピードを上げて階段を上る。
「待ちなさい」
「なんですか」
「手、引っ張って。あたし、この階段が嫌いなの」
……俺はあなたが思うよりも嫌いですよ。一年の教室は校舎の四階で、それを朝に上り、さっきようやく下りてからのこれですからね。
「分かりました」
悪態は内心に収めつつ、手を取るために来た道を下って、向けられた手を取るとまたしても来た道を今度は上る。俺が近づくに連れてウットリと満足気に変化した彼女の表情は相当頭にくるモノがあったが、どうせこれから何度も拝むことになるのだろうと考えると、その辟易とした落胆が勝って「はぁ」と嘆息をつくだけに留まった。
「ぷくくっ。どうせ、セリフの何十倍もあるケッタイなモノローグをぶつくさ浮かべながらあたしの命令に従ってると思うと本当に気持ちがいいわ。あぁ、満たされる」
読心術や文句のボキャブラリーから察すればお分かりだと思うが、この人の厄介なところは決してバカではないところだ。いや、掲示板に張り出される学力テストの点数を見ればむしろ勉強だって出来るようだし、それどころか体育祭の徒競走で見た限りスポーツも卒なくこなしていたから間違いなく天才型のオールラウンダーなのだ。
もしも巷に蔓延るオタサーの姫と同じようにニワカな甘え上手というだけならば、俺が後塵を拝することなど絶対になかっただろうと切に思う(いや、むしろコロッと騙されていたのかもしれないか)。
地雷丸出しの男に媚びたような容姿に、高性能な起爆装置と絶大な精神殺傷能力を備えた次世代型万能クレイモア。それが正しく、吉沢姫子という女の正体なのである。
「あっ、急に足に力が入らなぁい」
「ぐ……っ! 先輩! その体重のかけ方はシャレにならないですって! 逆スムース・クリミナルみたいになってますって!!」
何を考えているのか、先輩は階段から落ちるように後へ倒れる。それを必ず支えるだろうという俺への厚い信頼は、果たしていつ勝ち取ったモノのだろうか。まさか、昨日の足舐め程度で得られるとは思えない。
「ひ・め・さ・ま・よ」
「やたらめったらに菓子を食いすぎなんですよ!」
「あぁん!? デブって言いたいワケぇ!? あたしはおっぱいと尻がデカいだけでお腹は普通でしょうが!? 男はこういうの大好きでしょうが!!」
「勝手に作り上げた男の総意を俺個人の好みに当てはめないで頂きたいッ!!」
すると、先輩は急に肘を曲げて俺の体に抱きつき、なんだか妖しい笑みを浮かべると、クルリと位置を入れ替えて俺を階段の下側へ押しやったから、すぐに彼女の腰と手すりを掴み絶対に痛い目に合わないように体勢を整えた。
まるで、ミュージカルで女優を抱くロマンスの塊みたいな俳優のポーズみたいになってしまった。断っておきたいのは、どんな肉体的接触を起こしてもこの女を好きになることは決してないという点だ。
「ふぅん。あんた、女の柔らかい部分が好きってワケじゃないのね。道理で、ちっともあたしに靡かないワケだわ」
「違います、好きじゃないのはあなたの人格ですよ。お姫様」
「うへへっ。そんな生意気を言う口を、どうやって塞いであげようかしら。キスはまだ早いわよねぇ。みんなの目の前で辱めを受けるような、とっておきの命令を考えておかなきゃ」
考えなくてよろしい。
そんな俺の願いが叶うハズもなく。部室に着いた先輩は、俺の制服のネクタイをグイッと引っ張りながら座り俺の腰を折ると、上履きを脱いでからベンチの端と接地している壁に寄りかかり俺の太ももへ足を乗っけてこの上なく偉そうにくつろいだ。
それを見る他の男子部員の羨望にも似た目線が苦しいと感じた理由は、ここまでに俺の性格を知ってくれた人間には語るまでもないだろう。
「あんたは足置き、光栄に思いなさい」
尤も、置くのはふくらはぎだから脚の方だけど。そんな戯言を呟き、位置を調整してふんぞり返る先輩。
雑に捲れたスカートから覗く、ぐにゃりと潰れた尻元の肉と、道理でスポーツが得意だと言わんばかりのムッチリとした太ももを見て、「はしたない」と頭を振ったのが運の尽き。吉沢先輩は自分に都合よく解釈した後、ニタリと悪い表情をして俺を見下した。
「んふふ、変態」
肉体の魅力なんてまやかしだ。
俺が思うに、普段は見えないという点にこそ人を垂らし込める魔力があるのだ。人々が局部各所に興味を持つのだって、それは造形により劣情を煽っているワケではなく、ただ衣服という鉄壁によって秘匿された、いわゆる神秘性が作用したカリギュラ効果でしかないのだ。
それを自ら晒すのならば、エロく見えないのは火を見るより明らか。以上のことから、俺は決して先輩の肉体に欲情したワケではないのである。
「そうやって適当なことを言っておけば煙に巻けると思っているちょこざいなところが、あんたの最も愚かしい点の一つだわ。どれだけ能書きをここうとも、あんたはあたしの『お座り』の一言でひれ伏すしかない犬であることを忘れないでちょうだいな」
うるせぇ、バーカ。
「おい、ナギ。お前、どうしたんだ?」
あまりにも素直な文句を頭上に浮かべたところで、同じ現文部の部員であり、同時に部長でもある三年の北野麻人先輩が反対側の隣に座り、吉沢先輩に聞こえないようコソコソと耳打ちをしてきた。
因みに、ナギというのは俺のあだ名だ。高校生になってから貰ったモノだが、いつの間にか馴染んでしまっている。
「俺の青春が終わった、としか伝えようがありません」
「吉沢と付き合ったのか?」
空気が変わった。
北野先輩の声が聞こえたのか、それとも罵る言葉と足置きなんて不名誉な役割を羨ましく思ったのか(何が羨ましいのか俺には分からないけどな)、吉沢先輩に魅了されてる面々がジメッとした殺気を放って俺を攻撃したからだった。
「まさか。俺たちは互いに嫌い合ってる者同士です、恋人関係なんて絶対にありえません」
「なら、どうしてお前は吉沢の脚を膝に乗せてるんだ?」
「俺が吉沢先輩の脚を乗せているんじゃなくて、吉沢先輩が俺に脚を乗せてるんです。ところで、膝枕ってどう考えても太もも枕ですよね」
この手の下らない話題が好きな北野先輩は、「確かに」と呟くとヘラヘラ笑って耳打ちをやめた。面倒な事情を察して、「気にしない」という対応を選んでくれたようだった。
俺が部室で素直に尊敬出来るのはこの北野先輩だけだ。彼は、物腰柔らかい大人な性格で、やり方がスマートで、頭が良くて、おまけに知的好奇心も旺盛でセンスも優れ手先まで器用である、吉沢先輩とは別タイプの天才だ。
僭越ながら評を下すとすれば、「それをオタクと両立したら反則だろ」という、ある種のズルさを兼ね備えているメガネをかけた生粋の文化人といったところだろう(しかもカノジョ持ち)。
「はぁ、階段を上って疲れたわ。ナギ、あたしの足を揉みなさい」
北野先輩との会話が一段落してボンヤリとしていると、突如として次なる命令が下された。声に反応して彼女を見る。細身のサーモボトルに口をつけてニヤついている。そんな
「揉み方が分かりません」
「リンパをほぐすのよ、リンパを」
なにがリンパだ、偉そうに。
と言っても、リンパがイマイチなんなのか知らない俺は、女の体に自ら触れるという未知の体験に一抹の恐れを抱きつつ、他部員の刺すような目線で心を悼みつつ、おっかなびっくり指先でスッと素肌をなぞる。吉沢先輩は、「んはぁ」と艶っぽい声を漏らして即座に俺の頭を引っ叩いた。
「いって、何するんですか」
「このおバカっ! その所作のどこがマッサージなワケぇ!?」
「気持ちよさそうな声出してたじゃないですか」
「ベクトルが違うでしょうが! まったく、ちょっとあんたの脚を寄越しなさい」
「合体ロボじゃないんですから、取り外し出来ませんよ」
「あたしの膝に乗せろって言ってんのよ! スカポンタン!」
関節技でも極められるんじゃないかと勘繰りつつ、いつでも引っ込められるよう注意しながら彼女に四肢の一つを任せると、意外や意外、吉沢先輩は慣れた手つきで俺のふくらはぎをマッサージしてくれた。
「こうやるのよ」
「なるほど、上手いですね」
「それは、お
「へぇ。……あ、そこ気持ちいいです。もうちょい強くしてもらえますか?」
「仕方ないわね」
なんだかリラックスしてきたので長テーブルに頬杖をついて天井を見上げると、この状況がおかしなことにようやく気がついたらしい。先輩は俺の足を地面に叩きつけて立ち上がり、今度は振りかぶった平手を俺の脳天にパチンと叩きつけた。
「いてて、手を出すのはやめてくださいよ」
「なんであたしがマッサージしなきゃならないのよ! あんた、まだ働きを労わせる程あたしに尽くしてないでしょ!?」
下僕を労う気持ちがあることには驚きだ。いずれそうしてくれるなら、この際に十年分くらい前借りしておきたい。
「ダメ。ほら、ちゃんとやって?」
俺たちのやり取りを見て愉快そうに笑う北野先輩の表情を伺い、言われた通りに吉沢先輩のふくらはぎをほぐしていく。その間、彼女はいつも通りスマホでSNSを巡回し、気になるトピックが見つかるたびに、これまたいつも通り部員の誰かへ「ねぇ、これ見て?」とあざとく会話を投げていた。
なぁ、男子諸君よ。そんなに恨めしく思うなら、なぜ肩代わりを名乗り出てくれないのか。昨日まで大して口も利かなかった間柄の俺が、急に想い人のマッサージャーに勤め始めたのだからおかしいと勘繰るべきだろう。
静観してないで、俺を助けてくれ。そして、めでたく下僕の役割を引き継ぎ先輩のサディスティックを満たしてあげてくれ。そう思っていると、俺のスマホがヴヴヴと揺れた。
『あんたが屈服してるところを周りに見せるのがあたしの目的なのよ。他の誰かじゃ無意味だわ』
……なんで、俺が考えていることが分かるんだ。
心を見透かして急に興味がなくなったのか、先輩は俺から脚を離して普通に座ると、その後は日課とも呼べる部員との姫プレイを心から楽しんでいた。
いずれ、北野先輩にだけは分かってもらいたい。そんな願望を胸に、俺は読みかけの文庫本の栞を挟んだページを捲った。
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