地雷姫

夏目くちびる

プロローグ

第1話

 001



 俺は今、先輩のオナニーを見ている。


 どうやら、彼女は別の部員が持ってきたエロ本で事に及んでいたらしい。何を言っているのか分からないと思うが、そんなことを言ったって目の前の状況を処理しなければならないため拙い言語化も致し方ないと飲み込む他ないだろう。



 こんな時、俺は興奮して思わず手前の陰茎でも握りコクってしまうものだと予想していたのだが、見てはいけないモノを見てしまったというか、女の一番厄介な部分を知ってしまったというか、なんならおぞましい体験をしたというか。



 とにかく、そんな気分に苛まれ、少しだってエロい気持ちにはならなかった。ひょっとすると、彼女のいかにもスケベって容姿のせいで、情事が他の女子よりも圧倒的に想像しやすいからかもしれない。



 ……にしても、生々しい。あんなに強く弄って痛くないのだろうか。男のそれとは違って内側に触れるのだから、傷でも付いたら大変だと言うのに。



「やれやれ」



 俺は、後で覗き見がバレるくらいならと結論を付け、顔を真っ赤にしながら自らの股ぐらに手を突っ込む彼女が言葉無しに気が付いてくれるよう扉を二回ノックした。



「うぇ……っ? きやああああぁぁっ!?」



 それは、こっちのセリフである。



 口をパクパクしながら、慌てふためき俺とテラテラ光る自分の指を交互に見る、小柄でツインテールでやたら巨乳の、見るからに地雷感溢れるメイクを施した、俺も所属する現代文化研究部の姫である吉沢姫子先輩に挨拶。



 尚も固まる彼女を優しく押し退け、本来の目的であった忘れ物の文庫本を鞄にしまい、一ターン行動不能になった彼女には目もくれずドアからそそくさと退散する。



 この間、約五秒。



 なんて見事な脱出劇だったのだろうと自画自賛するも束の間。吉沢先輩は横開きのドアを、ドカン!! と大袈裟の二乗ほどに勢いよく叩っぴらいて俺をとっ捕まえ、小さな体躯のどこから湧き出してきたのか予測もつかない程のパワーで俺を再び部室へ引きずり込んだ。



「み、み、見たわね!?」

「見ました、僭越ながら」

「なんてことしてくれんのよ!?」

「すいません、誠に」



 いや、信じてもらえないとは思うけど、本当に悪いことをしたという自覚はあるのだ。それがいいことが悪いことかはさておき、オナニーしてる姿なんて普通に考えれば絶対に知られたくないだろうし、出来れば俺だって知りたくなかったさ。



 ならば、これはもう二人の不運としてかたを付けるしかない。掘り返せば掘り返すほど互いに嫌な気持ちになるのだから、とっとと分かれて一人の時間を作るべきだ。そして、いつか「そんなこともあったね」と笑い合える日が来るまで、決して口にせず封印しておくのが身のためなのだ。



「なんであんたが嫌な気持ちになってるのよ!!」



 ……いや、女だって好きでもない男のオナニー目撃しちゃったら嫌でしょう。男子高校生だからって喜ぶと思われているのなら、それは実に失礼しちゃう話である。



「ところで、小学生、中学生、高校生、大学生って変な話ですよね。普通、この並びなら高学生というのが自然だと俺は思っていたんです」

「それ今する話じゃないでしょ!!」

「……なら、せっかく穏便に済ませようとしていたのに無理矢理閉じ込められた俺は、一体どんな話をすればいいんですか?」

「えぇ……。いや、なんでそんな感じなの? なんか、こう、もっとあるじゃん。年相応に顔赤くして『何も見てないですっ!』とか『ありがとうございますっ!』とか。ねぇ?」



 どうでもいいが、相変わらず先輩には天性の演技の才能があると思った。俺の特徴を捉えた口調で、俺が絶対に言わないことを言わないで欲しいと感じるくらいに。



「だって、ちゃんと見ちゃいましたもん。溜まってるんだなぁと思いました」

「だぁれが感想を求めたのよぉ!?」

「でも、別に誰かに言ったりなんてしませんよ。先輩がアノニマスだったとして、日常会話の中で藪から棒に『そういえば吉沢先輩のオナニー見ちゃったんだよね』と言われたって、絶対にネタのための嘘をついてると思うでしょう?」

「……まぁ、それはそうだけど」

「なので、別の人間にバレることはありません。それに、俺の口が固いことはあなただってご存知でしょう」



 すると、先輩は涙目になりながら俺の胸に何度か弱めのヘッドバッドをかました。こんなに精一杯説明しているのに、すべてが裏目に出てしまう自分の感情表現の下手クソさが今日は恨めしい。



 確かに、この人は部活の男子部員をいたずらに誑かして惑わすし、そのせいで前々から割としょうもない女だと思っているし、普通に嫌いな人ではあるのだが。別にこんな時までこきおろしてやろうと見下すほど腐ってるとは思わないし、これをネタに揺すって何かを得ようなどとは毛ほども考えちゃいない。



 要するに、決して他言しないと信じて欲しい。難しいかもしれないけど、ここは大人になって欲しい。そんなふうなことを、今度は冷たいと思われないように、なるべく懇切丁寧に説明した。



 きっと、これで吉沢先輩も分かってくれることだろう。



「あんた、おちょくってんの?」



 ……あぁ。



 だから、俺は人付き合いが嫌いなのだ。



「分かりました。なら、どうすればいいんですか?」

「このやろ、開き直りがったな?」

「取り繕うのにも疲れました。単刀直入に望みを言ってください、出来る限りは叶えます」

「……ぐすん。うぇぇ。な、なんでよりによってあんたなのよぉ……っ。他の部員だったら、幾らでもやりようがあったのにぃ〜……っ」



 先輩は、ヘッドバッドをやめて胸に額をつけたまま泣き出してしまう。そんな、登場シーンからここまでずっと情けない一つ年上の彼女のつむじをぼんやりと眺め、「らしくないな」とやんわり思った。



 しばらく経って、先輩は俺から離れた。そうやって見上げた表情に明らかな悪意を感じ、脳裏に嫌な予感が走る。マズい、今すぐに帰れ。第六感が叫んでいたが、曲がりなりにも『女のオナニーを見てしまった』という罪悪感からは逃れられなかった。



 そんな善人な俺を、一体誰が責められよう。



「それで、どうして欲しいんですか?」

「……あたしの下僕になりなさい」

「使いっ走りの手下なら既に揃っているでしょう、今いる以上に取り巻きを欲しているとは思えませんが」

「そうじゃない。もっと、本当の意味での下僕よ」



 下僕に嘘の意味があってたまるか。



「足、舐めて」



 ……なに?



「急に何を言い出すんですか、先輩。俺は『出来る限り』と言ったハズです」

「出来るでしょ。それくらいしてくれないと、あんたが本当にあたしのことを誰にも言わないのか信じられないんだから」



 言って、吉沢先輩は上履きを脱ぎソックスをスルスルとおろして、病気なんじゃないかってくらいに白い肌の足を俺の眼下へ晒した。



「ほら」



 ……命令する先輩の表情は、先ほど見た快感を貪る形をしている。俺は選択を間違えた。きっと、既に敗北しているのだろう。



「歪ですね」

「すべてがあたしの計画のうちよ。それでも、あんたを下僕に出来るかどうかは五分五分だったわ」

「まだ了承したワケじゃありません」

「うふふ。そろそろ、守衛さんが見回りに出る時間だわ。ここで『助けて!』って叫んだら、あんたは果たしてどうなるかしらね」



 いきなりのバトル漫画的な展開に一瞬だけ出演作を間違えたのかと勘ぐったが、冷静に考えてみればこの人の狡猾さならば、そこまで計算して俺を閉じ込めていたとしても不思議ではない。なんなら、さっきのマジ泣きは作戦の内だったと言われた方が納得いく。



 オナニーすら、目的の手段に用いる。吉沢姫子は、それ程に恐ろしい女なのだ。



「本当に恥知らずな人だ、俺は守衛がどちらを信じるかに賭けてもいいです」

「大胆不敵なのよ。それに、この状況で理詰め脳のあんたの談判なんて絶対に無駄よ。あんたが助かるにはあたしの話を聞かずにとっとと帰るしかなかった。あたしは演技が得意なの、よくご存知でしょう?」



 どういうワケか、足をぶらつかせて俺を窮地に追い込む彼女の顔は見るからに朱が差している。妙な息遣いと、涙の後が残ったまま作る見下したような笑みも相まって、あからさまに興奮しているのが分かった。



「足を舐められるのが好きなんですか」

「屈服させるのが好きなの。特に、あんたみたいに絶対に女に靡かないようなのっぺらぼうの朴念仁が相手だとゾクゾクする。前から言うこと聞かないで、心底ムカついてたのよ」

「……まったく、あなたという人は」

「嫌いな男を平伏させる。この世に、これ以上の幸福があるかしら?」



 なぜ、俺がこんな目に。



 そう思いながら、俺は跪くと彼女の素足を掌に乗せて、柔らかな甲へゆっくりと舌先を這わせた。ここで人を呼ばれ、親に迷惑をかけるくらいならよほど楽であると考えたからだ。



 これは自分で思う俺という人格の特徴なのだが、いつだって手早く片付けられる方法を選んでしまうところがある。例え損や恥を被ることになっても、解決までの時間は短ければ短いほど得であると信じているからだ。



 しかし、今回ばかりは失敗だった。



 結論から言えば、この足舐めは、まるで隣町まで行くだけのお使いを、地球を逆に回って大海を泳ぎ山脈を登って砂漠を踏破し、艱難辛苦の末にようやく目的地へ辿り着かせるような迂遠な道のりを強要する最低最悪の手段だったのだ。



「……んふふ、やっばぁ」



 恍惚として両頬を支える黒い瞳の彼女を見て、確実にロクなことにならないと直感した。それは、青春が終わったとさえ思わされるほど狂気に満ちた幸せの笑顔だったからだ。



 カメラを向けられていなかったことだけが、せめてもの救いだと納得するしかない。足から手を離して口元を強く拭うと、先輩は疼きを止めるためか内股になった。

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