未来予知

空間なぎ

未来予知

「……いただきます」


つぶやいてから、私は夕食を摂る。今日も、母と姉の帰りは遅いのだろうか。リビングの時計の針は午後九時を過ぎたけれど、家には私しかいない。いつも通り、冷凍食品をレンジで温めて、もそもそと口へ運ぶ。ただ腹を満たすだけの食事を終え、私はレポートを書くため、ノートパソコンを起動させた。


レポートを書く前に、スマホをチェックする。連絡が二件。一つは夕奈から。課題を手伝ってくれてありがとう、という旨の連絡だ。その言葉だけで、私の心の中のもやもやは、途端にぽかぽかに変わる。夕奈の笑顔を思い出して、思わず笑みが浮かんだ。私の自慢の親友は、いつも私を頼ってくれる。最近は、もっと頼ってくれてもいいのに、と思う。会う時間が少なくなっているからだろうか。


彼女と初めて出会ったのは、いつのことだろうか。気づいたら、彼女は私の隣にいた。今まで、たくさん一緒に笑ったり泣いたりしてきた。もちろん、それは大学生になった今も同じだ。勉強が嫌いだった私があの大学に通えているのは、まぎれもなく夕奈のおかげだし、いじめられて泣くことしかできなかった私が強くなれたのも、夕奈がいたからだ。彼女は私の人生に希望を与えてくれる。


「さて、と……」


まずは提出期限が近いレポートを進めよう。そう考えて、私はスマホの画面を消した。

同時に、玄関のドアが開く音がした。母と姉が帰宅したのだ。私はすぐさまノートパソコンを閉じ、リビングを離れる。母と姉の顔は見たくない。自分の部屋があれば、誰にも邪魔されずに済むのに、と、いつも思う。


「美咲。どうせ暇でしょ、家事やっといて」


「いいわね、大学生は暇そうで」


と、母と姉が言うのを、無言でスルーして、私は再びパソコンを起動させる。この人たちが言うことをいちいち気にしていたら、きりがない。家事はやらないと怒られるから、ささっとやっておくけれど。夕奈のことを考えて、ぽかぽかしていた気持ちが、一気にもやもやに逆戻りしてしまった。


母と姉は、私の敵だ。父は、私が小学生のときに突然出ていった。父が母を裏切る行為をし、それに怒った母が離婚を決断、実行したらしい。私は母より父のほうが好きだったから、父がいなくなる生活なんて信じられなかった。母は優秀な姉にべったりで、私は見向きもされない。何度、母や姉を殺したいと思ったことか。父が出ていった日から今まで、二人に対する憎しみはずっと続いている。そもそも、人間は一人の人間しか愛することができないのだ。母にとっての姉、姉にとっての母であるように。二人を均等に愛することなんて、できっこないのだ。


「……夕奈」


私の親友は今頃、何をしているのだろう。夕食に何を食べたのかな。ずっと一緒にいても、わからないことばかりだ。夕奈が私の気持ちを知らないように。私たちは、お互いの本心を知りもしないまま長い時間を共にして、親友という関係に満足していたのだろうか。


いや、違う。私は夕奈のことを知ろうとしてきた。私は、夕奈のことを人間として愛している。じゃあ、夕奈は?

彼女には、彼氏がいる。私以外の友達もいる。先輩や後輩、恩師、幼なじみもいる。彼女を愛してくれる両親もいる。私には、夕奈しかいないのに。夕奈が愛する一人は……誰?


「私には夕奈しかいないのに……夕奈は私以外を選ぶの?」


口からこぼれた疑念は、私の心を黒く侵食していく。

私は、使いかけのノートを取り出した。書き込んである最初の数ページを破る。そうしてできた、まっさらなノートに、私は書きこんでいく。未来の話を。






「なんかねぇ、新手の痴漢に遭ったの」


ユウナは、隣に座っているミサキに、世間話をするように言った。


「新手の痴漢?」


そう、と彼女はうなずく。痴漢は痴漢だ、新手も何もあったもんじゃないだろう、とミサキは思った。始業まであと五分だというのに、教室に人が増える気配はない。


「私、痴漢って、お尻とか胸を触るイメージだったんだけど、違ったんだよね」


「ふぅん。ちゃんと駅員に突き出したの?」


教授が教室に入ってきたことを横目で見て、二人は居住まいを正し、声を潜めた。


「ううん、証拠がないから。そもそも、あれが痴漢だったのか、わからないし……」


「何されたの?」


「満員電車に便乗して、体を押し付けられた……かな」


ありゃあ、とミサキは露骨に顔をしかめた。そして、ユウナに向かって優しく微笑んでみせた。


「まぁ、その程度で済んでよかったよ。もし意図して押し付けた痴漢なら、一発殴っておかないと、気が済まないけど」


「そうだね、心配かけてごめんね」


ユウナも笑みを作って、本当に痴漢なら天罰が下ればいいのにねと付け加えた。授業が始まると、次々と遅刻してきた学生たちが空いている席に着いた。

教授が黒板に向かっていることを確認して、ユウナはスマートフォンを取り出す。教科書やプリントで隠しながら、彼氏にメッセージを送った。今朝痴漢にあったことは、報告する義務があるように思えたからだ。その隣で、ミサキは教室の窓の外を眺めていた。ユウナは、ときおりミサキのほうをちらりと見たが、声をかけることはなかった。彼女の物憂げな雰囲気に、何を話していいかわからなくなったからだ。




「ミサキちゃん、何か……悩んでない?」


学内の食堂で、ユウナは恐る恐る切り出した。


「ん……悩んでるっちゃあ、悩んでるけど、あまり人に話せるもんじゃないし」


そっか、と彼女はうなずいた。そして、自分の中に芽生える感情に少し怯えた。それはどうしても知りたいという好奇心と、親友から信頼されないことに対する不満だった。

ミサキは、黙々と弁当を食べている。いつも明るくおしゃべりなミサキが静かであることに、ユウナは気持ち悪さを感じた。


「ねぇ、ミサキちゃん。私じゃ……相談相手になれないかな? 私……ミサキちゃんが苦しんでいるところとか……悲しんでいるところは、見たくないの」


ユウナが意を決して言うと、ミサキは弁当を食べる手を止めた。箸を置き、深呼吸して、ミサキは親友に話し始めた。


「私さ、最近、未来がわかるようになったんだ」


えっ、とユウナは声を上げた。思ったより大きい声だったようで、周りの人たちが一斉に彼女たちを見る。そんな視線を気にも留めずに、ミサキは続けた。


「だから、今朝、ユウナが痴漢に遭うことは知ってたよ。でも、話したところで信じてくれるか、わからなかったし。なんかさ、怖いじゃん。未来がわかるってさ」


「未来がわかるって……どういうことなの」


「なんていうかさ、天から降ってくるって感じ。うまく説明できないんだけど……たまたま、手のひらに桜の花びらが落ちてくるような?」


ミサキは、自分で説明しながら笑った。自分に語彙力がなくてだめだな、と付け加えながら。一方、ユウナはいまだ信じられないという顔をしていた。そして、思っていることを口に出す。


「じゃあ……ミサキちゃんは、私の未来を知っているの?」


親友が自分の未来を知っているということは、彼女にとって希望だった。もし自分の気に入らない未来があるのなら、それを先にカンニングして書き換えてしまえばいい。もっとも、彼女はそこまで野心に燃えておらず、寝坊する未来を避けたいなぁ程度の考えであったが。


しかし、現実はそう甘くなかった。


「うーん、それがさ、知りたいものがわかるわけじゃないんだよね。私の知っている人の未来が、本当にランダムに降ってくるんだ」


ユウナは、少しがっかりした。彼女の表情を見て、ミサキは目を細めた。


「実は、さ……さっき、ユウナの未来、わかったよ。知りたい?」


「知りたい。なんでもいいから、教えてくれない?」


「ん、いいよ。ユウナ、彼氏いるよね」


「いる……けど? まさか、別れるとか?」


ミサキは、ゆっくりと、なめらかに、その言葉を発した。


「ユウナはもうすぐ、彼氏と別れる。私以外の友達と絶縁する。ひどい終わり方で」




「いつも通り、普通だよ」


いつも通りを意識しながら、ユウナはミサキにそう言った。


ミサキが未来予知のことを打ち明けて以降、二人の仲は変わらないままだった。しかし、ユウナはミサキに対してぬぐえない疑問をもち続けている。ミサキはふるまいはいつも通りであったが、たまにユウナに対して物言いが乱暴になることがあった。


「なんで彼氏と別れないの? このままだと、ユウナが苦しくなるだけだよ。もう別れる未来は決まってるんだから、早く別れちゃったほうがいいよ」


会うたびに、ミサキはユウナに何度もそう言った。


「未来は変わらない。もう決まった未来なんだから、どうしようもないよ。彼氏とは今も仲がいいの?」


いつも通り、普通だよ。ユウナはいくどとなく、そう繰り返した。実際、それは嘘ではなく、ミサキの発言より前にも後にも、交際が上手くいかないことは一度もなかった。ミサキ以外の友達とも、けんかなどは一切なかったし、ユウナは「未来予知なんて何かの間違いか、嘘なのではないか」と思い始めていた。


何ら変わりない日常の中で、二人の関係性だけが、着々と朽ちていく。未来は変えられない、諦めて受け入れようと言うミサキ。未来は変わる、未来予知なんか気にせずに生きようと言うユウナ。次第に彼女たちは顔を合わせると気まずくなり、話す言葉を失った。ミサキは一人で過ごすようになり、ユウナは別の友人と過ごすようになる。そんな二人の関係が崩れたのは、ミサキが「自分は未来予知ができる」とユウナに伝えてから十日後のことだった。


「ねぇ、ユウナ」


「あっ……ミサキちゃん。えっと……どうしたの、何か用があるのかな……?」


ちょっと、こっちまで来てくれる。そう冷たい声で言い放つミサキは、怯えるユウナの手を強引につかみ、人気のないトイレへと連れ込んだ。

何するの、とミサキに問いかけようとするも、ただごとではないミサキの様子にユウナは出かかった言葉を抑える。授業開始のチャイムが鳴った。今頃、友達はどの席についているのかな、と彼女は頭の片隅で思った。


「なんで、彼氏と別れてくれないの? 友達と縁を切ってくれないの?」


「え?」


ミサキはユウナとまっすぐに向き合った。狭いトイレに、声が響くのをユウナは感じた。わずかに開けられた窓から、肌寒い風が吹いた。


「ユウナがこれから苦しむところなんて、私は見たくない。お願いだから、私の言う通りにして。今すぐ私以外の人と縁を切ってよ」


せっぱ詰まった様子で、ミサキは何度目になるかわからない「お願い」をした。ユウナは困惑しながらも、ゆっくりとミサキに話しかける。


「えっと、ミサキちゃん。気持ちは嬉しいんだけど、ね、みんな普通だし……。別れるとか、絶縁するとか言われても、そうなるとは思えないし……」


ミサキは、黙ってユウナの話を聞いている。彼女は口元をきゅっと引き締め、目はユウナの顔を直視していた。その目から、何の感情も読み取れないことに、ユウナは親友に計り知れない恐怖を覚えた。


「もしかしたら……えっと……ミサキちゃんの未来予知って……思い込みとか……妄想なんじゃないかなって……思うんだけど……」


違うのかな、と口に出すより早く、ミサキの顔が豹変し、女子とは思えない強さで胸倉をつかまれる。

彼女の目が、得体の知れない黒い感情で染まっていることに、ユウナは遅まきながら気づいた。親友としてずっと一緒にいたが、こんなに負の感情にとらわれている彼女を見るのは初めてだった。


「あんたねぇ……どこまで鈍ければ気が済むの? 私の言う通りにしなさいよ。本当に……どいつもこいつも何なの?」


「ミサキちゃん……苦しいよ、離してよ……。なんでそんなこと言うの……」


「あんたら全員、馬鹿ばかり。ユウナ、あんたさ……なんで親友がいるのに彼氏なんて作るの? 友達なんて作るの? 私ひとりで十分でしょう。私だけじゃ不満だから作るの?」


ユウナにとっては、もはや意味不明な言葉だった。彼氏を作る理由なんて問われても、さっぱりわからない。お互い告白して付き合っただけだ。友達を作る理由についても同じだ。意識して友達を作るわけじゃない。ユウナにはまったくわからない不満を、親友は恨み節のようにつらつらと言い放っている。胸倉をつかむことに疲れてきたのか、ミサキは手を放して再びユウナに向き合った。


「……わからないよ、ミサキちゃん。私にはその気持ち、わからない……。彼氏とか友達って……自然とできるものだし……それじゃあ、いけないの?」


「いけないからこうなっているの。ユウナ、私にとってはユウナしかいないの。彼氏なんて、友達なんて、自然にできるものじゃない。自然にできると思えるのは、ユウナの周りの環境が恵まれていただけ」


「そんな……。ミサキちゃんだって、恵まれているはずだよ……」


「本当に鈍いのね。常に二個上の優秀な姉と比べられる家庭、姉ばかりで私に見向きもしない母親、理由もなくいじめてくるクラスメイト、いじめを見ないふりの教師、付き合ってすぐに二股かける男。こんなの、恵まれてるって言える?」


返事は、ユウナにはできなかった。ミサキと比べれば、ユウナの人生はあまりにも恵まれ過ぎていた。苦労という苦労をした覚えのない彼女には、ミサキが語ることはまるで別世界の話のようだった。ミサキの顔が、憎しみや恨みで歪む。


「ミサキちゃん……」


「だから、これは当然なの。今まで幸せに生きてきたユウナは、これから絶望にまみれて死ぬの。これが、私の予知する未来」


ユウナの腹に、ミサキがポケットから出したカッターナイフが深々と突き刺さった……。






……ここまで言い終えてから、私は向かい合って座る夕奈の顔を見た。私の大切な、かけがえのない親友は顔を真っ青にしている。私は、ノートをバッグに片付けた。急ごしらえではあったけれど、我ながらよく書けたと思う。夕奈はこれで、私だけの夕奈になるのだ。

最後に、彼女の目を見て言う。


「これが、私の予知する未来。夕奈、どうする?」



                 〈了〉

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