第3話 妻の座
凛子は1歳8ヶ月になる娘の栞にお昼ご飯のスパゲッティーを食べさせていた。ケチャップで味付けした凛子がさっと作ったスパゲッティーを、ほっぺたを大いに汚しながら、栞はチュルチュルと音を立てて、一本ずつ食べていた。
「服を汚さなければいいけどなあ。」
凛子はよだれかけを見つめながら、箸で一本ずつまとめては、栞の小さな口に入れてやる。栞はよほどお腹が空いていたのか、お利口さんに、もぐもぐとよく噛んで
一口一口を飲み込んでは、大きな口でアーンと次を待つ。
「牛乳も飲もうね。」
プラスチックのミッキーマウスの幼児用マグカップに入った牛乳を、栞の口元に持ってゆくと、栞は両手でマグカップを挟み込み、顔を近づけた。コクコクと牛乳を三口ほど飲むと、凛子の手を払うように顔を背け、もういらないという表情をした。
「こんだけ食べればいいかな。」
凛子は栞の口の周りを、ティッシュで拭くと、栞はもう気が散って、小さなテーブルからおもちゃの方に歩いてゆく。凛子は汚れたよだれかけを栞から急いで取り去ると、皿に残った栞の食べ残しのスパゲッティーを食べ始めた。
凛子は夫、矢崎圭史の仕事の都合でニューヨークに五年間住み、その間は自分もインターンとして、IBSの現地オフィスで働いた。現地で三年目に妊娠し、育児休暇をとって、栞を出産し、栞を預けてまたインターンに復帰した。栞が1歳になる直前に夫圭史の駐在が終わり、帰国した。
日本ではまず小田原の圭史の実家に住み、新築の計画通りに小田原の家を売却する手続きをとった。横浜に約60坪の土地を購入して、設計士に二世帯住宅の設計を依頼し、最近、新築の手はずが整ったばかりだ。現在は、小田原の家が売れたので、武蔵小杉に賃貸マンションを借りて、義母と義妹と圭史、凛子、そして栞の五人で仮住まいしている。
凛子は日本に帰国すると、二人目の子作りに入った。実を言うと、現在、二人目を授かったばかりだ。
小田原の家は土地が二百坪あったため、良い値で売れた。しかし、新居新築で、これからますますお金が必要なので、凛子は二人目を産んでしばらくしたら、フルタイムで働くことを目指していた。
「凛子さん、栞を見ていてあげるから、一息入れなさいよ。」
姑の敏子がコーヒーを入れながら、凛子に声をかけた。
「ありがとう、お義母さん。じゃ、ちょっとお願いします。私、スーパー行ってきます。」
「コーヒー淹れたから、飲んでからにしたら。」
「はい、いただこう。」
栞は人形で遊んでいたが、祖母が近づくと、抱っこをせがんだ。祖母は栞を抱くと、「来月の第三土曜日は確か地鎮祭ね。神主さん手配してくれた?」
「ええ。小田原から行ってくださるそうです。晴れるといいですね。お母さん、今晩、何食べましょうか?」
「そうね、酢豚なんてどう?」
「いいですね。じゃ、材料買ってきます。」
凛子はコーヒーを飲み干すと、キッチンへ空のマグカップを運び、水でザーッと洗った。財布と携帯とエコバッグを手提げに入れて、車の鍵を持って、
「行ってきます。栞をお願いします。」
「はい、行ってらっしゃい。たまには寄り道しておいで。」
凛子は車のエンジンをスタートさせると、最寄りの大型スーパーに向かった。駐車場に停めて、車から降り、スーパーに入って行った。カートを押しながら、野菜売り場でスイカの4分の一切れを一つカゴに入れる。その時、見慣れた後ろ姿に気づいた。もしかして。
「あ、ぶんなの?」
「えー!凛子!偶然。」
「この辺に住み始めたのよ。武蔵小杉の駅前のマンション。借りてるの。」
「本当?小田原にいるものとばかり思ってた。」
「買い物終えたら、ちょっとお茶しようよ。」
「ウンウン。じゃ、レジ済ませたら待ってて。」
凛子は酢豚の材料と、栞のオムツを買うと、レジを済ませて、ぶんを待った。
ぶんは程なくして現れた。
「マックでいいか。」
「うん。いいよ。」
「今、お腹に二人目がいる。6ヶ月に入ったところなの。一人目は4歳。」
「おめでとう、私は女の子が1歳8ヶ月と、お腹に今一人3ヶ月。」
「へー。連絡しないでごめんね。」
マックでアイスコーヒーを二つ頼むと、空いている二人がけの席に座った。
「アメリカから帰って、しばらく小田原に同居して、小田原の家が売れたから、武蔵小杉の賃貸マンションに同居。姑と義妹と。横浜市に土地少し買ったの。二世帯建てる予定。ぶんはどうしてた?」
「私は結婚して、横浜市内の賃貸マンションにしばらくいて、一人目産んでから、武蔵小杉に土地買って、家建てて、引っ越して、今三年目かな。そうだ、今からうち来ない?」
「うーん。行きたーい。でも、お義母さんに娘見てもらってるから、今日は帰るわ。姑に話して、またゆっくり遊びに行くよ。車?」
「歩き。すぐなの。」
「場所、教えて。一緒に車で行こう。」
ぶんの家は鉄筋コンクリートの打ちっぱなしの現代的な建築で、駐車場にはBMWの新車が停まっていた。ぶんの夫はベンチャーIT企業のCEOで、暮らしぶりもお洒落なようだ。でも、ぶん自身は昔と少しも変わらず、凛子は、
「ぶん、お互い変わらないね。」
と言いながら、ホッとしていた。
「変わるわけないじゃん。ずっと凛子のこと気になってたの。もう会えないのかなって。アメリカに行っちゃってから、もう連絡しても会えないかなぁ、と思ってた。でも、神様が会わせてくれたね。」
「連絡する。姑にちょっと許しをもらってから、遊びに来るよ。その時ゆっくりお家見せて。」
「わかった。お嬢ちゃん、ぜひ連れてきて。うちも4歳の男の子がいるから。獅童っていうの。夫が歌舞伎俳優の中村獅童のファンでね。笑。」
「うちの子は栞。」
凛子の車の中で、二人はしばらく懐かしそうに話した。こんな時は、同居でなければ自由なのに、と凛子は思ったが、栞の面倒を見てくれている敏子には、感謝の気持ちを持っている。
家に帰ると、冷蔵庫に買ってきた食材を入れて、姑にお茶を入れた。
「お母さん、今日スーパーで、偶然幼馴染に会ったんです。結婚式にも来てくれた子で。」
「へー。おしゃべりできた?」
「ええ、少し。すぐ近くに住んでるんですって。今日はマクドナルドで少し喋ってきました。」
「あら、ゆっくりしてきてよかったのに。電話でもくれれば。」
「ええ、でもお義母さんにきちんと話したくて、帰ってきました。」
「そう、今度ゆっくりお出かけしてくればいいわよ。せっかく近くに住んでらっしゃるなら。」
「はい。お義母さん、ありがとうございます。」
義母と同居している以上、お互いに誠意を持って接し、嘘は絶対に嫌だった。小さなことでも、必要なことはきちんと話し、理解を求めるのが、最低限の礼儀だと、凛子も敏子も考えている。おかげで、一度の喧嘩や諍いもなく、気持ちよく過ごしていた。
矢崎は理想的な夫で父親だったが、この頃からバーに通うようになり、そこで知り合ったママと酔った勢いにメールアドレスを交換していた。家に帰ると母親と妹がいて、凛子と二人きりで酒を飲むことはなかなかできず、ついつい外で飲んで帰る。夫婦生活も控えめになり、子作りも母や妹を気にして、深夜、ラブホテルへ出かけて行うほどだった。凛子が母とうまくやってくれているのはありがたかったが、矢崎の方が母親との同居で肩身の狭い思いを感じ始めた。
矢崎がバーのママとメールしていることは、凛子はまだ気付かなかった。ただ、度々、酔って帰って来るのは、自分の努力が足りないのか、と自分を責めていた。母も、凛子を責めることはしなかったが、夫婦仲を心配していた。自分のせいで、夫婦生活に支障が出ていたことは、薄々気付いていたが、口に出しては言えずにいた。
幸子は月に一度、心臓の病院に通い、武蔵小杉に越してから、マンションの近くの小学校で読み聞かせのアルバイトをしていた。敏子は幸子の将来を心配して、縁談を探し始めた。体が弱いので、子供は望めないかもしれないが、いい伴侶がいれば、との思いだった。
凛子は夕飯の支度を始めた。米を研ぎ、炊飯器にセットして、酢豚を作り、中華風のスープを作った。夕飯の献立も、敏子に相談してから作るようにしていた。これが矢崎にとってはストレスだった。
ー今夜飯はいらない。先に寝ててくれ。圭史ー
週に二、三回はこんなメールが来るようになっていた。凛子は栞を風呂に入れながら、何か嫌な予感がしていた。
矢崎がバーのママと一線を超えたのは、それから1ヶ月もしない、ある水曜日の夜だった。その夜、矢崎はついつい深酒して、ママの方から言葉巧みに迫ったのを、魔が差して、二人はホテルに向かい、体の関係を持ってしまった。ママは口紅をわざと矢崎のワイシャツにつけて、眠っている矢崎を残して、部屋から帰って行った。
矢崎はしばらく眠っていたが、深夜、目が覚めて、慌てて家に帰った。ママからメールが来ていた。
ー先に帰るわ。またいらして。待ってる。ー
玄関に着くと、矢崎は自分で鍵を開け、ワイシャツを脱ぎ捨てて、ベッドに潜り込んだ。凛子は気配を感じて目を開けたが、
「遅かったね。今何時?」
「寝てろ、すまない、起こしたね。」
朝になり、凛子は洗濯しようと矢崎のワイシャツを見た。洗濯機の前で、口紅に気付く。満員電車かな?しかし、唇の跡までしっかり付着しているのは、変だと思った。そっと矢崎のセカンドバッグの中を見た。避妊具が一箱入っていた。
凛子は顔から血の気が引くのを感じた。まさか。この人に限って。
目の前が真っ暗になった。上の空で洗濯を済ませ、朝食を作って、作り笑顔で、矢崎を送り出すと、栞が起きて来た。栞の顔を見ながら、涙が溢れて来た。最近、晩御飯も要らない、先に寝てろって、変だった。なぜ、気付かなかったんだろう。栞が不思議そうに凛子を見上げる。凛子は急いで涙を拭うと、
「しおちゃん、さあ、ご飯食べようね。」
母と幸子も凛子が作った味噌汁をお椀によそって、朝食を食べ始めた。
凛子はワイシャツを母や幸子から隠すように、寝室のクローゼットの中に押し込んだ。栞にご飯を食べさせる。
一人、ぼーっと考え事をしていると、ぶんのことを思い出した。こういう時は、昔からいつもぶんが助けてくれていた。ぶんに電話をかけた。
「私、凛子。おはよう。」
「おはよう。」
「今日、ゆっくり会えたら、嬉しいんだけど。ちょっと二人で話したいの。どこでもいいわ。」
「うちおいでよ。獅童を幼稚園に送り出したら、あとは大丈夫よ。」
「本当?嬉しい。ケーキだけ持ってくよ。」
「本当?ありがとう。」
ぶんの家に入り、ぶんの顔を見て、しばらく話して、凛子は悩みを打ち明ける勇気がでた。ぶんは幸せそうに見えた。でも、この友達は今までいつも絶対に自分の味方だった。
「ねえ。驚かないで聞いてくれる?」
「うん、何?」
「矢崎が浮気してるみたいなの。」
「へ?」
「驚いた?」
「当たり前じゃない。驚くよ。」
凛子は落ち着くようにコーヒーを一口飲み、帰りが遅いこと、ワイシャツに口紅がついていたこと、避妊具が見つかったことを勇気を出して話し、涙ぐんだ。
「凛子、本当だとしても、自分を責めちゃダメだよ。」
「うん。栞がかわいそうで。………………。」
「わかる。お義母さんを味方につければ?」
「話すの?」
「そうよ。叱ってもらうのよ。」
「うん。……………………。」
「でも、妊娠中にそういうことするって、言っちゃ悪いけどサイテーだわ。許せない。」
「うん。同居ってね、私は義母と義妹に気を使えばなんとかうまく行くけど、矢崎は板挟みになるみたいなの。ストレス相当貯めてるみたい。」
「あ、そうか。」
「二世帯建てても、うまくいかなかったら、どうしよう、ぶん。」
凛子は珍しく弱気になって、すすり泣いた。
「よしよし。凛子は何にも悪くないんだからね。お義母さんに味方になってもらいな。それが一番いいよ。それでダメなら、その時は女のところに文句言いに行きな。」
「誰なんだろう。会社の子かしら。」
「玄人だと思うよ。酔った勢いだよ、きっと。」
凛子は昼ごはんの準備のため、2時間ほどぶんの家で話した後、家に帰った。色々考えた。ぶんのアドバイスは、義母に打ち明けて、義母に叱ってもらうことだったが、矢崎に自分が直接話してみようと思った。義母の耳には入れたくなかった。
その日は矢崎は普段通りの時間に帰って来た。
晩御飯をみんなで食べている時、凛子は矢崎が顔色一つ変えず、隠し通しているのが許せなかった。食器を洗い終えて、新聞を広げている矢崎のところへ行き、
「あなた、ちょっといい?」
「え?」
「ちょっと、寝室に来て。」
凛子はクローゼットの中の口紅のついたワイシャツと、矢崎のセカンドバッグに入っていた避妊具の箱を出して、矢崎の目の前に見せた。
「これ、何?まだ、何か隠してるなら、正直に教えて。」
「………………………。」
矢崎は顔色をさっと変えて、
「ごめん。」
「やっぱり。」
「酒の勢いだよ。」
「誰なの。相手は。」
「駅前のバーのママ。メールアドレスしつこく聞かれて、交換したのが2ヶ月前。それから始まったんだ。一回、ホテル行った。ごめんなさい。」
矢崎は土下座して謝った。凛子は情けなくなって、涙も出なかった。
「罰として、栞と私連れて、3人で旅行。お義母さんとさっちゃんにも打ち明けて。」
「わかった。お袋にもいうよ。幸子にも話す。家族だからな。わかった。」
「今。」
「はい。」
義母は話を聞くと、烈火のごとく矢崎を叱った。叱りながら、凛子に申し訳ないと涙を流した。お腹の子に障ったらどうする。
「お義母さん、罪滅ぼしに、ディズニーシーに一泊で行って来ます。栞連れて。私より、栞がかわいそうで。さっちゃん、お留守番してね。」
「行って来て、お姉さん。お兄ちゃん、ひどい。嫌い。」
「携帯を買い換えて。メールアドレス、変えて。お願い。」
「わかった。明日土曜日だからドコモ行ってくる。来週、ディズニーシー行こう。栞がかわいそうだった。すまない。」
矢崎はもう一度膝をついて謝った。凛子はなんとか気持ちが落ち着いた。
敏子と幸子は、驚いたのと同時に、圭史が 自分たちと同居していることで、ストレスを感じていたのかもしれない、と感じ始めた。新築する二世帯住宅はキッチンが一階と二階に一つずつあり、風呂も二つある。玄関も別れているため、お互いにプライバシーはもっと保たれるが、小田原の家や、今のマンションでは、お互いのプライバシーは完全とは言えなかった。凛子がよくやってくれているから、今まで気付かなかったが、凛子もストレスを感じているのかもしれない。
敏子は、凛子たちがディズニーシーから帰って来たら、一度、家族会議をしようと思った。
敏子は小田原の家を売却した時に、持っていたグランドピアノを手放した。通いの生徒にピアノを教えていたが、音大を出ているので、武蔵小杉のヤマハの音楽教室に、アルバイトでピアノ教師の仕事を見つけた。少しでも、家から出ることは、自分も気晴らしになり、凛子にも自由を与えるだろうと思う。栞に、おもちゃも買ってやれる。
凛子と圭史の間のわだかまりは、まだすっかりとは消えていなかった。ディズニーシーに行く週末が来た。ディズニーランドホテルが取れなくて、浦安にある、普通のホテルに一泊することにしたが、凛子は十分だと思った。圭史が罪の意識を感じているのが、少しかわいそうだったが、まあ、栞のことを思って、せいぜい二日間は圭史に甘えようと思った。
栞にとってはディズニーシーデビューで、まだよくわけは分かっていない様子だが、写真をたくさん撮って、思い出に残そうと思った。アトラクションをめぐるうちに圭史も凛子もすっかり楽しんで、嫌な思い出はみんな水に流して、夫婦の絆についた傷も癒えていった。
帰りの車の中で、二人は無口になった。同居にストレスを感じているのは、二人とも同じだった。ただ、新居の二世帯住宅では、プライバシーは十分に守られるので、ストレスももうしばらくの間だと思った。
帰ってくると、義母が、今夜話があるから、家族で集まってくれるように言った。
凛子も圭史も心当たりがなく、不思議に思いながら、夕食後、リビングに座った。
幸子も同席した。
義母は、
「今度の圭史のこと、凛子さんに改めてお詫びをいうわ。それから、私や幸子と同居していることで、凛子さんも、もしかしたら、圭史もストレスを感じているのかもしれない。そのことをお詫びしたいの。私たちは、お父さんが亡くなってから、ずっと圭史を頼りに生きて来た。普通の親なら、こんなに息子に迷惑かけないわね。凛子さんがよくやってくれるから、ついつい甘えているけど、これはとても罪深いことね。」
「そんな、お義母さん、やめてください。」
「謝りたいし、お礼が言いたいけど、私も幸子も同居以外選択肢はないわ。それが申し訳なくて。今度の家では、お互い玄関もお風呂もキッチンも別だから、少しはプライバシーが保てると思う。でも、それまでは、凛子さん、圭史、許してね。お願いよ。」
「お袋、凛子も俺もそんなに了見の狭い人間じゃないよ。今回のことは俺の過ちなんだから、俺が悪い。お袋たちは関係ないよ。」
敏子はホッとしたように、一息ため息をついて、
「私も、もう少し、二人に気に入ってもらえるように気をつけるわ。ピアノも始めたし、栞におもちゃぐらい買ってあげられるわよ。今まで、本当にごめんなさい。情けないわ。」
ずっと黙っていた幸子は、
「お兄ちゃん、私、もう少し給料もらえる仕事探すわ。」
「いいんだよ。このままでも、なんとか食べていけるだろ。新築のお金は別に用意してあるんだし。アメリカの五年でだいぶ貯めたから、大丈夫だよ。」
「さっちゃん、お義母さん、私、この子産んだら、働きます。」
「そうなの?じゃ、私に子供のお世話は任せて。ピアノはいつでもやめられるから。凛子さんはできる人だもの、家にいるのは本当はもったいないわ。」
「凛子、まずは丈夫な子を産んでな。本当にごめん。」
「圭史さん、その飲み屋さんにはもう行かないでね。」
「分かった。一回、一緒に来て。女に会ってみる?どうってことないから。商売の人だよ。」
「いいわよ。行ってみる。」
「凛子さん、私も行く。顔見てやる。」
「幸子。」
「いいよ、お母さんも来る?」
「行ってあげるわよ。面白いじゃない。」
栞を車の中に寝かしつけて、四人はバーに入って行った。
バー「ゆきの」は、駅前の商店街のはずれにひっそり建っている小さなスナックだった。圭史はドアを開けて中に入ると、ママがあっと声をあげた。
「あら、矢崎さん、ご無沙汰ね、どうしたの?」
凛子はすぐさま中に入った。
「矢崎の家内です。」
「矢崎の母です。」
「矢崎の妹です。」
3人が入るともう椅子がないくらいの小さな店だ。ママはあっけにとられて、言葉をなくし、赤く塗った唇をあんぐりと開けていた。
「お酒はいらないわ。烏龍茶四つちょうだい。」
敏子は大きな声で言うと、
「うちの息子は、お酒が弱いんだけど、愛妻家でね、こんな安い店に来なきゃいけない理由はないのよ。」
「お義母さん………。」
「凛子さんは黙ってて。言ってやらないと、こういう人には。」
圭史は、
「そういうわけで、会ったこと自体、忘れるから。メールアドレスは消したから。」「ちょっと、あんた、来て。」
ママは急に顔を後ろに向けて、店の奥にいた、ハゲ頭の初老の男を呼んだ。
「私にはこの人がいるの。御免なさい、あんた、私、店で浮気したわ。」
初老の男はママを平手でひっぱたいた。
「馬鹿野郎。」
矢崎は自己嫌悪で吐き気がした。凛子も吐き気がした。
敏子は、
「帰りましょう。これでいいわ。」
ドアをバタンと閉めて、四人は外へ出た。
幸子には刺激が強すぎたと見えて、呆然としていた。
凛子は、
「ちょっと圭史さん、げんこつ。」
コツンと頭を拳で叩いた。
「痛。」
「あの女の人はないんじゃない。もうちょっとマシな人と浮気してよ。私、立場ないわよ。」
「ごめん。」
敏子は、
「女房が思うほど、亭主モテもせず、よ。」
幸子が思いっきり笑ったので、場がもった。
栞が車の中で目を覚ました。凛子は栞を抱き上げると、
「さ、帰ろうね。」
圭史は車を走らせた。
ぶんの第二子が生まれた。元気な女の子だった。凛子は自分も7ヶ月のお腹を抱えて、ぶんの入院している病室を訪ねた。花束を渡し、赤ちゃんを見て、獅童くんには、おもちゃをプレゼントした。
「ぶん、おめでとう。お疲れ様。元気そうね。」
「二人目は楽だった。」
二人きりで色々話しているうち、
「もう、時効だから、話すわ。事後報告。あれからお笑いだったのよ。」
凛子はバー「ゆきの」での顛末を話し、大いに笑った。ぶんはあっけにとられていたが、凛子が笑うので、一緒にクスッと笑い、
「凛子がスッとしたなら、良かったね。」
「ええ。連れ添っていると、こんなこともあるなんて。結婚する頃は思ってもみなかったけど。」
「今度うちの主人を紹介するわ。凛子には会ってほしい。この子が少し大きくなったら、ホームパーティーでもしようよ、うちで。」
「いいね。楽しみにしてる。でも、無理しないでね。あ、泣いてるよ。」
「オムツ濡れたかな。」
二人はお互いにかけがいのない友情で結ばれていた。お互いに幸せな家庭を持ち、一生懸命に子供を育てていた。武蔵小杉から凛子はもうじき引っ越していくけれど、横浜に住んでも、ぶんとはお互いに連絡を密にとって、お互い心の支えになりながら、生活してゆこうと思っていた。新居ができたら、真っ先に呼ぶのはぶんだ、とも思った。
妻であり、母であり、女であり。凛子は二人目を無事産んで、その後働こうと思っている。OL時代の働き方ではなく、もっと大人になって、よりよい仕事もしたいし、よい母、よい妻でいたい。できる、きっと。圭史さんがいるから、きっとできる。久しぶりに左薬指の結婚指輪を見つめた。指や爪が家事をこなしている主婦の指爪になっている。ちょっとやつれたような自分の指を見て、若さはないけど、自分で自分を気に入っている凛子だった。
(完)
OL凛子の恋 長井景維子 @sikibu60
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