第2話 恋から愛へ
金曜日、凛子は定時にあがると、駅前のデパートにそそくさと入っていく。矢崎の誕生日の贈り物を探しに来たのだ。
(そういえば、くたびれたお財布使ってたわ。お財布とキーホルダーをセットで、どうかな?)
凛子は紳士売り場のバーバリーの売り場に来ると、カードをたっぷり収納できる皮の財布と、お揃いのキーホルダーを箱に詰めて、贈り物用に包んでもらった。
デパートを出ると、八月の生ぬるい空気が首にまとわりついた。凛子は贈り物が矢崎の気に入ることを祈りながら、ドトールでアイスコーヒーを飲む。明日は美容院に行って、パーマをかけて、日曜日がデートだ。誕生日は火曜日だが、前祝いをしようと思う。
矢崎にメールを打った。
ー圭史さん、凛子です。今夜電話します。ー
メールを打ち終わると、アイスコーヒーを一口飲んで、スマホでレストランを探し始めた。お誕生日のお祝いだから、二人でお酒も飲みたい。今回は電車で行けるところがいいかな。
みなとみらいのウォーターフロントのホテルの中のレストランに、良さそうなものがある。
(泊まっちゃいたいなあ。でもダメね。日曜日だもの。土曜日にしようか。美容院、先週行っとけばよかった。まあ、髪は自分でセットしよう。泊まろう!)
こういう時は凛子は肝が座っていた。彼にならもうそろそろ、許してもいい。そう思えた。
家に帰ると勝負下着を取り出して、作戦を考えた。泊まることはサプライズにしようか。でも、心の準備が彼にも必要。車で行くことにして、ホテルの駐車場に停めて、ご飯して、お酒も飲んで、泊まり。よし。
矢崎に電話した。
ーこんばんは、私。
ーああ。
ー圭史さん、今家?
ーうん、飯食って、部屋でテレビ見てる。
ー明日、誕生日のお祝いしよう。インターコンチに一泊。
ー………………………。
ーどうしたの?
ーいや、びっくりした。
ーいや?
ー嫌じゃないよー。笑。
ーホテルは私払うから。
ーいやいや。俺が払う。食事だけ奢ってもらおうかな。
ーそう?じゃ、そうしようか。
ーエルグランドで行こうよ。
ーわかった。了解。
次の日、二人は少し着飾って、インターコンチネンタルの中のフレンチレストランに入った。二人は赤ワインを選び、肉料理のコースを頼んだ。凛子は金曜日に用意した、プレゼントを渡し、
「気に入るかしら。開けて見て。」
矢崎は包みを開くと、バーバリーの財布を見て、
「いい。バッチリ俺の趣味。ありがとう。キーホルダーも使わせてもらうよ。」
と喜んだ。
凛子はワインを少し飲んで、暗めの照明の中で、頬を赤らめていた。食事は申し分なく、二人はすっかりくつろいだ気分だった。食後のコーヒーを飲みながら、二人はそれとなく緊張してぎこちなくなってきた。
(落ち着いて、凛子。一番綺麗な私をみせるのよ。)
と自分自身に語りかけた。
凛子はカードで会計を済ますと、入り口で待っている矢崎の元へ歩いて行った。矢崎は凛子の肩に腕を回し、エレベーターに乗った。
エレベーターの中で、二人は無口になった。降りると、ホテルのフロントに二人で歩いて行く。矢崎はダブルを一部屋とると、鍵を受け取り、エレベーターにまた二人で向かった。
部屋に着くと、二人はベッドに荷物を置いて、窓から夜の横浜港を見下ろした。ベイブリッジが遠くに光り、豪華客船が大桟橋埠頭に泊まっていた。
二人はルームサービスでシャンパンを頼んだ。凛子は先にシャワーを浴びた。念入りに髪を洗い、備え付けの化粧落としで化粧を落とした。頭にタオルを撒いて、化粧水と乳液をつけ、髪を乾かした。勝負下着の上に備え付けのバスローブを羽織ると、部屋に入った。
すっぴんの凛子は二、三歳若く見えた。肌が透き通って、唇が幼い。ハンドバッグから出して、リップクリームだけ、そっと塗った。
先にシャンパンを飲んでいた矢崎は、シャワールームに向かった。シャワーの音が勢いよく聞こえた。
そうして二人は初めて結ばれた。
凛子も矢崎も結婚を意識し始めた。言葉にこそ出さないが、お互いにこの人と一生一緒にいたい、と思い始めていた。
凛子はバイオリズムを意識し始め、排卵日を避けて体を重ねた。矢崎は凛子をいつも愛おしむように抱いた。二人の間に障害はなかった。
体を重ねれば重ねるほど、二人の絆が深まり、お互いにお互いなしの人生は考えられないと思うようになった。
ある日、車の中で、矢崎が言った。
「そろそろ、両方の親に会う時期じゃないか。俺のお袋に会ってくれないか?」
矢崎の母の誕生日が偶然もうすぐだというので、凛子は花束を持って、矢崎と一緒に挨拶に行くことになった。花束は、季節外れだが母の日のようにカーネーションでまとめた。凛子の母からお茶菓子を預かり、それも渡すつもりで持って行く。
玄関先で、一歩下がって花束を抱えて待っていた。矢崎は菓子箱を代わりに持って、インターホンを押す。程なくして母が現れた。
矢崎には父はいない。五年ほど前に他界していた。その代わり、体の弱い、妹が一人いる。この妹の存在が、矢崎を小田原市内にある自宅から通勤することに、こだわらせる理由の1つだった。このことは凛子はよく矢崎から話に聞いて知っていた。
母は、
「いらっしゃい。よくいらっしゃったわ。初めまして。さあ、お上がりください。」
凛子は、
「初めまして。河野凛子と申します。お招き頂きましてありがとうございます。」
リビングに通され、花束を渡した。母は顔をほころばせた。
「お誕生日が近いと伺ったので、お花、少しですが。」
病弱な妹は、二階からリビングに降りて来て挨拶した。
「私、妹の幸子です。兄がお世話になります。」
「初めまして。これ、幸子さんに。」
凛子は、小さな包みを渡した。キプリングのバッグが入っていた。幸子は、
「ありがとうございます。開けていいですか。」
と言い、包みを開いて、バッグを見ると、
「まあ、素敵。ありがとうございます。」
と言った。母はその様子を見て、微笑みながら、
「凛子さん、ありがとう。」
と言った。
「これは凛子さんのお母様から。」
矢崎が持っていた菓子折を母に渡し、
「まあ、すみません。」
と母は両手で押し戴いて、凛子に向かって頭を下げた。
妹と矢崎は年が離れていて、彼女はまだ未成年だった。
普通なら大学か専門学校に通う頃だが、生まれつき心臓が弱く、高校も通信制を良い成績で卒業して、今は家で家事手伝いをしている。
母は、自宅でピアノの教師の仕事を通いの生徒相手に細々としている。
もっぱら矢崎がこの二人を養っているのだった。
母は紅茶を4つ入れ、買っておいたモンブランを冷蔵庫から皿に出した。幸子がそれらを、キッチンからお盆で二度に分けて運んだ。
「どうぞ、お構いなく。」
凛子は首を伸ばしてキッチンの母と妹に言った。
矢崎は、凛子と結婚を前提に付き合っているのだと母と妹に話した。矢崎は、凛子がいかに仕事が出来るかも、自慢げに話す。母も妹も微笑みながら聞いている。
「この愚息は手がかかりますよ。笑。」
「いえいえ、とんでもありません。私が至らないので、我慢してくださっています。」
しばらく話しているうちに、母がこんな事を言い出した。
「結婚したら、一緒に住みたいわ。こんな素敵なお嬢さんとなら。」
矢崎は、
「おふくろは何言うんだよ。それにまだ早いよ。」
矢崎は続けて、
「結婚を視野に入れてお付き合いしてるから、挨拶にきてくれたんじゃないか。それなのに。凛子、気にしないで。」
凛子は一瞬顔がこわばったが、すぐニコニコ笑顔で頷いた。しかし、心の中では、同居もやむを得ないのかも知れないと思い、少し複雑な気持ちになっていた。
凛子は仕事もプライベートもスムーズにこなしていた。何度か、海外出張に行き、部の中での存在感も増していた。仕事が楽しかったし、いつか矢崎との間に感じている結婚の予感のためにも、仕事を続けて資金を貯めたかった。
美希子が結婚し、妊娠していた。育児休暇をとることになり、その前に主任に昇進した。そして、凛子が主任補佐に昇進することになった。美希子が約一年、いなくなることは、凛子にとっては大きかった。美希子の分を自分がカバーできるように、心構えしていた。
矢崎は十二月のボーナスで、婚約指輪を買った。凛子の指のサイズに合わせて、ダイヤモンドは平均的な大きさで、傷のない、色味とカットの良いものを選んだ。
矢崎は係長に昇進していた。K大の修士課程を卒業している矢崎は、仕事も早く、同期の中では出世頭で、そろそろ嫁さんを、と周囲から言われだした。
矢崎はクリスマス前の週末に、飛鳥IIのワンナイトクルーズを予約していた。横浜港から出航して、一泊船の上で過ごすクルーズの旅だ。凛子にはサプライズにしていた。飛鳥IIに二人は乗り込むと、荷物を部屋に置き、レストランへ向かった。
船内は大きなクリスマスツリーが飾り付けられ、クリスマスらしい音楽がピアノで演奏されていた。レストランで、海側の二人がけのテーブルに案内されて、二人はドレスアップして、椅子に腰掛けた。
フレンチのフルコースが次々と運ばれ、二人はお互いを見つめながら、楽しく食事していた。デザートが来ると、矢崎は指輪の箱をセカンドバッグから出して、プロポーズした。
「一生側にいてほしい。」
一言、そういうと指輪の箱を開けた。
凛子は一瞬驚いたが、
「はい。」
と、静かに頷き、指輪を受け取った。矢崎が指にはめてくれた。指輪はぴったりと薬指にはまった。
「嬉しい。」
凛子はかすかに涙ぐみ、矢崎は微笑んでそんな彼女を見つめた。
クルーズで一泊し、次の日の朝食は、洋食バイキングにした。焼きたてのパンとオムレツを焼いてもらって、ソーセージと、美味しいコーヒーとサラダ、ヨーグルト、オレンジジュースをとり、二人は海を見ながら新鮮な気持ちだった。
婚約している、その事実が凛子の左の薬指に光っていた。
クルーズから帰り、二人の間で同居の話は避けて通れなくなってきた。凛子は小田原の家に義母と義妹とともに住むことは、仕方ないと思った。二人とも、人柄の良い人たちだし、矢崎が自分を愛してくれていれば、きっと自分も幸せに一緒に暮らせると思っていた。
矢崎は結婚の条件に、同居を迫ったりはしなかったが、彼の立場上、同居は仕方ないと思われた。
凛子は、自宅で両親と妹に、矢崎にプロポーズされたと話し、正月に会いにきてもらうと言った。矢崎にそのことを話すと、年が明けて、初詣を一緒に鎌倉に行き、その足で、凛子の家族に挨拶することになった。
矢崎は凛子の両親に膝をついて頭を下げ、結婚の許しを請うた。その上で、病弱な妹と未亡人の母がいると話し、凛子が一緒に住んでくれたらありがたいと、話した。
凛子も、自分は矢崎の義母と義妹とともに住んでもいいのだと思っていると話したが、凛子の母が反対した。父も口には出さないが、苦い顔を見せた。姑の苦労はこの子には味合わせたくない、それに小姑まで。
凛子の両親の反対は、思わぬ展開だった。矢崎は凛子を失いたくなかった。凛子は悩んでいる矢崎をみて、自分が両親を説得して了解をもらおうと思っていた。
矢崎はニューヨーク支社に駐在する話があった。まだ保留だが、凛子に一応話した。矢崎の話によると、駐在中は住宅と車が会社から支給され、現地での給料の他に、日本でもそれとは別に給料とボーナスが出るので、小田原の母と妹には十分な送金ができるだろうということだった。
凛子は両親にはニューヨークの話はしないでいた。はっきり決まってから話すことにした。
矢崎の駐在が正式に決まった。四月から五年間のNY支社駐在だ。凛子はとりあえず、矢崎と自分二人でアメリカに五年住む話は悪くないと思った。自分は寿退社を考えた。
矢崎はもう一度結婚の許可をもらいに凛子の家族を訪ねた。矢崎と凛子は両親に、ニューヨークに二人で五年間住み、義母と義妹には仕送りをしながら、日本とアメリカ、別々にとりあえず生活することを言うと、結婚の許可が下りた。凛子の父も母も、矢崎のことはとても気に入っていた。同居の話がとりあえず消え、アメリカに住む話を聞いて、凛子の両親はやっと安心した。
三月になると、二人は婚姻届を出して、籍を入れた。結婚式は、NYに行ってから、向こうの教会で、お互いの家族だけで行うことにした。会社には凛子は矢崎と結婚したことを報告し、仕事は辞めるつもりでいた。
凛子の退職は、営業副本部長の神崎の耳にも入った。NYに住むことも神崎は知った。その上で神崎は凛子が仕事を辞めるのは勿体無いと思った。神崎は凛子を昼食に誘うと、IBSのNYオフィスでポジションがあったら働くか、と聞いてきた。
凛子は突然のことで、驚いたが、悪い話ではないと思った。
「考えさせてください。」
というと、神崎の親切に感謝した。
「一応、ポジションを探しておこう。NYはどこに住むの?」
「市内は治安が良くないので、ウエストチェスターに一軒家を借り上げてもらってそこに、と思ってます。」
「ちょうどいい。IBSオフィスはウエストチェスターに点々と散らばってるから。通勤は車だよ。アプライしてみなさい。挑戦するのも悪くないよ。ポジションは探して連絡するよ。」
凛子はIBSで五年間、インターンとして働くことになった。英文レジュメを提出し、神崎の推薦状と、日本語と英語ができ、海外営業畑でのキャリアを見て、IBSでも是非とも欲しいと言ってきた。
渡米前に夫婦で一度ニューヨークの下見に出かけた。その際にニューヨークのスカースデールという街で、一軒家を探し、車も契約して納車を待つだけになった。
二人は、ニューヨークにいる間に子供を作り、日本に帰ったら、小田原の家を売却して、横浜市内に二世帯住宅を建てて、義母も義妹も一緒に住む計画を立てた。
凛子はできるだけ、インターンで得られる自分の給料は貯蓄しようと決めた。圭史のアメリカでの給与だけで生活し、日本での給料を母に送金し、ボーナスは貯金に回すことにした。
圭史の母も、ピアノ教師を続け、新居建築に向けて、できるだけ節約して、貯金をすることに協力すると言ってくれた。凛子と圭史がアメリカに行くこと、そして凛子がIBSでインターンとして働くことを、喜んでいた。
幸子もアルバイトを始めたいと言い出した。体に無理なくできる、図書館の司書の資格を取っていたので、その仕事を探し始めた。
三月の末、凛子と圭史は荷物を船便で出して、当座必要なものをスーツケースに詰めた。幼馴染のぶんこと文乃が発つ前日に凛子に会いに来てくれた。二人はハグしながら、ぶんは、
「凛子、結婚式に呼んでくれてありがとう。絶対行くからね。元気で頑張れ!」
と笑顔で話した。
「うん、来てね。スカースデールってJFKから遠いの。だから、空港まで迎えに行くからね。私たちの新居に泊まってね。」
「楽しみにしてるよ。私も早く結婚しよう。」
「そうそう。絶対ぶんの方が早いと思ってたのにね。」
「あはは。私も凛子より早く決まると思ってたよ。なかなかプロポーズまで漕ぎ着かないみたい。でも、彼とは上手くいってるよ。」
フライトの日、羽田空港まで、両方の家族が見送りに来てくれた。搭乗手続きをすませると、フライトの時間まで、全員でお茶とケーキでくつろぎながら、
「孫を早くねっていってるんですよ。」
「そうですね、こればかりは神様に相談ですね。」
「メイドインUSAの子を頑張るから。」
と圭史が言うと、凛子は頬を染めて、俯いた。
結婚式の教会は、下見に行った時に予約した。 スカースデールにある、小さな教会がよさそうだった。ニューヨークの六月は気候も良いので、凛子はジューンブライドになる予定だ。
フライトが迫って来た。凛子と圭史は家族に手を振りながら、ゲートに入って行った。
JALのニューヨーク行きの機内で、
「さあ、アメリカで何があっても二人で乗り越えてゆこう。二人でいれば、なんとかなるよ。」
「そうね。圭史さんがいれば、私、何も怖くないわ。」
「ウエディングドレスを準備しなきゃ。レンタルでいいわ。」
「忙しいよ、色々。車も納車されるし。家具は家に付いてるから、良かったけど。二週間はホテル暮らしだから、疲れるだろうし。頑張ろうな。」
「ええ。大丈夫よ。」
やがて、飛行機は離陸した。二人は窓を見ながら、日本を離れた。様々な障害があっても、二人ならなんとかなりそうだった。凛子は左手のダイヤモンドを見つめていた。小さな石が、二人の愛を繋いでいた。飛行機の中で、ハンドバッグから結婚指輪のペアを出すと、圭史の指にはめた。自分も妻用の指輪をダイヤの上からはめ、そっと圭史の肩にもたれて、毛布を引き上げ、リクライニングを下ろした。
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