OL凛子の恋

長井景維子

第1話 出会い

凛子はあくびを噛み殺して、会議室の末席で腕時計をちらっと見た。部長の神崎が大きな声で話しをまとめようとしていたが、その話の半分も凛子の耳には入らなかった。今週末はシンガポールへ出張が決まっている凛子は、客とのコレスポンデンスにもっと時間を割きたいところだった。それから、昼ごはんを食べないと、血糖値が下がっている。


営業本部海外営業部の会議が終わり、凛子は最後に残って飲み物を片付けている美希子を手伝って、給湯室に紙コップのゴミを捨てた。美希子は、先輩なのに、こういう仕事を進んで引き受けているので、凛子も手伝わなければいけないと思っている。

「美希子先輩、あの提案、よかったですよ。私も同感。部長承認は間違いなく下りますね。」

「そう?ありがとう。神崎部長には私は心象悪いからなあ。あまり期待してないよ。」

「紙コップぐらい、偉い人も自分で給湯室に捨ててくれればいいのに。本当に意識低い。頭に来る。」

「まあまあ。こういうことサッとやっとくと、点数上がるから。女はこの会社ではそういうものよ。」


「お昼、お弁当ですか?」

「うん、そこで買ってきちゃった。」

「じゃ、私、外行ってきます。」


凛子は駅ビルの中のトンカツ屋に入り、ヒレカツ定食を頼むと、熱い茶をすすりながらスマホを覗き、フェイスブックを開いた。サッと目を通し、適当にいいねをつけてゆく。恋人の広瀬拓也からメールが入っている。


ー週末、会えないか?ー


「あれ、出張だって言ってなかったっけ?忘れてた。日曜日、彼の誕生日だったっけ。いけないいけない。面倒なことになった。困ったな。」


ヒレカツ定食が運ばれてきた。凛子は急いで食べ始めた。途中で手を止めて、広瀬にメールを打つ。


ーゴメン、週末海外。シンガポール。今夜電話する。凛子。ー


トンカツ屋を出ると、コンビニでオロナミンCを買って、社に戻る。経理の菅野、ことかんちゃんがすれ違いざまに声をかけてきた。

「電話入ってたよ。伝言、置いといた。」

「誰?」

「ユニバーサル・トレードの広瀬さんだって。取引先?」

「あ、ウンウン。」

全く拓也は何考えてるんだろう。会社に電話入れるなんて。凛子は不快感で顔を歪めた。かんちゃんは、不思議そうな顔で凛子を見ていたが、

「いないって言っといたから、ほっとけばいいよ。忙しいでしょ?」

とこれまた、ズレたことを言うので、凛子は思わずニヤリと笑った。


洗面室で歯磨きして、席に座った。メールを開く。客先から緊急が三本。さあ、忙しくなるぞ。オロナミンCを机の上に置くと、メールの返事を英文で打ち始めた。


「河野くん。出張計画書、よく書けてた。事業部長が褒めてたよ。」

神崎部長が凛子の後ろを通り、声をかけた。

「ありがとうございます。今回は部長も一緒なので、心強いです。」


総務の百合子が、シンガポール便のチケットを持ってきた。

「凛子、今回はビジネスだから、ゆっくり眠れるよ。神崎部長がJAL嫌いだから、SQとっといた。ホテルもシャングリラ。バッチリ。」

「サンキュー。嬉しいよ。バッチリ働いてくるね。」


部長の神崎は、IBSから引き抜かれたやり手で、ロマンスグレーの髪をさっぱりとシチサンに分け、テーラーメードのみつ揃えのスーツを着こなす。昔は相当モテたらしいが、今は愛妻家で、子供の受験に心をにやすマイホームパパだ。凛子は心の中で、若かったらほっとかなかったな、と思っている。


満員電車に揺られて家に帰り、部屋で缶ビールを飲みながら、スマホに手が伸びる。反射的に広瀬のことを思い出した。電話しなきゃね。


「あ、拓也。ごめんね。会社に電話くれたんだね。」

「うん、君、出張なんだ。会えないね。実は、ミュージカルのチケットが手に入ったんだよ。」

「ごめんね。誰か他の人と行って。それから、誕生日のお祝いは改めてしようね。」「俺の?ああ、そうか。いいんだよ。誕生日なんて。お互い忙しいんだから。」

「そうはいかないよ。でも、なんで会社に電話入れたの?経理の子に怪しまれるところだった。」

「ごめん。声が聞きたかった。」

「だったら、携帯にかけてくれればいいじゃん。」

「だから、君、ほっとくと、他の奴に取られそうで。」

「そういうこと言われると、引くんだよね。」



しばらくおしゃべりに付き合ったが、この男に魅力を感じていない自分に気づいた。「別れようかな。これ以上無駄だわ。」

凛子はそう思った。出張で気分変えてこよう。


成田エクスプレスの指定席に大船から座っていると、隣の席に品川から神崎が乗ってきた。凛子は、

「おはようございます。よろしくお願いします。」

と、挨拶した。

「河野くん、緊張しなくていいからな。今回はソフトランディングでいけばいいから。価格交渉だけ、ちょっとプッシュしよう。」

「はい。」


成田空港のラウンジでブランチのカレーライスを神崎と二人で食べて、フライトの時間が来るまでパソコンでアジェンダを作っていると、

「アジェンダは今回はいいよ。俺、昨夜打ってきた。これでいいから。」

「ありがとうございます。じゃあ、お言葉に甘えて、飛行機で私、ちょっと寝ます。」

「ああ、いいよいいよ。」


シンガポール航空のビジネスクラスで、凛子はぐっすり眠った。神崎は一人でカクテルを飲みながら、新聞に目を通していた。こういうところは神崎はレディーファーストの精神で、女性の部下にはリラックスさせる術を心得ていた。程なくして、シンガポール チャンギ国際空港に着いた。


タクシーに相乗りして、ホテルに着くと、神崎が、

「部屋に一旦行って、1時間後にロビーで待ち合わせしよう。コーヒー飲みながら軽く打ち合わせだ。」

「あーあ。東南アジアのコーヒーかあ。もうちょっとマシになりませんかね。笑。」「本当だね、笑。ケーキも食えたもんじゃないね。」


「今日は美味しい中華の海鮮、食べような。役得だよ。」

「わー、嬉しい。」


夕食のヤシガニの中華料理を食べて、トロピカルフルーツのデザートをすませると、「明日は一日中会議だから、よく休んでな。サイモンは数字に強いから電卓使わないで交渉するんだよ。こっちは電卓首っ引きだから、カッコ悪いな。笑。」

神崎は酒が程よく入って、上機嫌だ。

「私、議事録作ります。ちなみに会議室はWi-Fi環境はいいですよね。」

「もちろん、問題ないよ。」

「美希子さんからお土産にお茶菓子いただいてきてます。明日、部長から渡していただけますか?」

「あ、それだったら、河野くんから渡せばいいよ。」



会議の日程を済ませると、次の取引先を訪問した。そこでは、工場内を見学し、アテンドに着いた現地の華僑、ワン氏と神崎が熱心に次のミーティングをセットアップした。明日の午後から会議の予定が新しく入った。


その会議も消化して、凛子は会議議事録を二つ書いた。帰りの飛行機の中で、出張報告書にまとめた。日曜日に日本を発って、月火と会議して、水曜日の成田行きで帰路に着いた。


出張中、忙しく仕事のことばかり考えていたことと、神崎の存在で、凛子の広瀬に対する気持ちは固まった。別れよう。どう切り出せばいいか、分からなかった。成り行きを見守りながら、会いたくない気持ちを察してくれるように、わざと冷たく接しようか。それは、かわいそうかな。


母に免税店で口紅と香水をお土産に買ってきた。会社と家には、冷凍のマンゴスチンを買ってきた。木曜日は代休をとり、金曜日から出社だ。


木曜日は一日中ベッドで寝ていた。疲れが溜まっていた。溜まっている洗濯物を母にお願いすると、母は引き受けてくれた。助かった。

木曜日の夜、携帯に電話が入った。親友で幼馴染のぶんだ。文乃という名前なのだが、小さい頃から「ぶん」で通っている。何か察して電話してきたのかな?


「凛子?元気?」

「うん。出張でシンガポールから帰ったばかり。ねえ、話があるの。明日の夜、飲みたいな。空いてる?」

「大丈夫だよ。」

「じゃあ、会社終わったら飲もうよ。店はぶんが決めてよ。」

「わかった。横浜駅の地下は?たまには横浜も。」

「ウンウン。オッケー。明日仕事終わったら電話する。」


金曜日は朝から出張旅費精算を片付けて、いろいろ書類を作った。花金なので、残業はしない。みんな六時には会社を出る。これはこの会社の決まりで、金曜日は全員六時に仕事をやめることになっている。


凛子はぶんに電話しようと思ったが、まだ時間が早いからメールにした。

ー仕事終わった。横浜駅JRの中央口に行く。凛子。ー


しばらくすると、ぶんから返信があった。

ーオッケー。黒いコート着てるから。着いたらメールして。ぶん。ー


「ぶん。お待たせ。」

「ううん。久しぶりだね。元気?」

二人は揃って歩き出した。地下街の洋風居酒屋を選んで、二人はカシスビールとしらすのピザ、大根サラダを頼むと、

「お疲れー。」

と、乾杯した。

「なになに?話って。」

「うん。まあ、ゆっくり。飲んで飲んで。」

凛子はぶんにお酌すると、

「つまりはさー、私、広瀬と別れたいのよ。」

「え?なんで。」

「あいつ、つまんない。ダサい。」

凛子はかいつまんで話し始めた。広瀬のアプローチが気に入らない、そういうことだった。

「広瀬さんって人はよく知らないけどさ、まあ、凛子ならすぐ違う人見つけると思うし、私はなんて言っていいか。凛子が決めることだよ。」

「うん。好きじゃないのよ、もう。ただね、どうやって別れんの?私、フラれたことばかりで、振ったことないんだよね。」

「あはは。そうかー。それ、困るね。」

「もう、笑いすぎだよ。笑。」


「別な人、好きになりな。その、シンガポール一緒に行った部長でいいじゃん。」

「はー?神崎部長?」

「そうそう。気持ちの上だけでいいのよ。広瀬さんを振る手段としてだけ。」

「なるほどねー。大変だね、振るのも。」

「任せてよ。こういうの得意なんだから。」


「そうそう。その部長さんとはプラスティックでね。」

「は?プラトニックでしょう?ははは。出ました、ぶんのジョーク。」

「酔ったかな。」

ぶんは酒のせいではなく、赤面した。今度は凛子が笑いすぎた。

「あー。気持ちいい。私も酔った。部長のこと好きになればいいのね、気持ちの上でだけ。それって簡単よ。今でも好きだもん。」

「え?でも、不倫はダメよ。」

「わかってるよー。尊敬してるし、男としても、合格かな、部長は。」


「どんな人?」

「え?どんな人って、こんな顔だよ。」

凛子はスマホを出して、忘年会の写真を見せた。

「へえ。イケてるじゃん。オジンだけど。」

「ロマンスグレーだよ。かっこいいでしょ。優しいの、部下には。」

「凛子、私、まずい事言ったかな。」

「わかってるわかってる。今は酔ってるの。普段、こんな事言わないじゃん。」

「うん。」


それからあとは酒の勢いで、ぶんの会社の面白い話や愚痴やら、お互いの親との確執、恋人の話。凛子はほぼ聞き役に回ったが、酒に弱い凛子は記憶をなくしていた。

横浜駅でタクシーに相乗りして、二人は家に帰った。小学校の幼馴染なので、家はすぐ近くの同じ町内にある。

「テイクイットイージーだよ、凛子。」

「あはは、わかったわかった。おやすみ。」


久しぶりに本音をぶちまけて、凛子は気分が良かった。広瀬は週末に連絡してくるかも。ちょっと憂鬱になったが、女優になったつもりで、彼を傷つけないように、恋人を演じよう、と思った。


土曜日はジムで汗を流して、自転車で家に帰ると、携帯が鳴った。広瀬だった。

「はい。」

「俺。なんかさー、君、俺のこと避けてない?」

「なんで?」

「いや、なんとなく。」

「なんとなくでそういうこと言わないでよ。」

凛子はまた不愉快になった。せっかく傷つけないように振ってあげようと、女優になって演じようと思ってるのに。拓也は幼稚だな。

「ミュージカルはどうだった?ごめんね。」

「隣の課の女の子と行った。」

「…………………………… 。」


「それ、本当?」

「だって、もったいないだろ。高かったんだから。デートに使わなきゃ。」


『あんた、その程度?』

喉元まで、その言葉が出そうだったが、女優になった。

さっさと別れよ、こんなやつと。

悩む必要もなかったわ。傷つかないよ、きっと。チャラ男じゃん。これはぶんに話そう。ストレス溜まった。


ぶんに電話で話した。

「聞いて聞いて。」


「ふーん、そりゃひどいわ。付き合う価値ないね。振りな。」

「うん。部長使うわ。」

「そうだね。なんでもありかもよ。嘘でもなんでもついて別れた方がいいと思う。」「うん。そうする。ありがとう。またね。」


月曜日が待ち遠しかった。仕事でもしてなけりゃ、気が変になりそ。


日曜もジムに行き、たっぷり汗を流した。帰ると、溜まっていた読書に耽り、久しぶりにフェイスブックに投稿した。

ー私、ブロークンハートです。恋は難しいですね。ー

いいねが三十きた。


月曜、火曜と仕事に没頭するうち、冷静に広瀬とのことを考える気になった。手紙を書いてみよう。火曜日の夜、会社の帰りに本屋で便箋と封筒を買ってきた。家に帰り、入浴後、自室でビールを飲みながら、手紙を書いた。


ー拓也へ。今までありがとう。いつか話さなければいけないと思っていて、今日になりました。拓也も薄々感じていたのかもしれないけれど。

私、他に好きな人がいる。まだ、付き合ってるわけではないの。ただ、この気持ちがある以上、もう、拓也とは無理です。

今まで、私のわがままにも付き合ってくれた優しさには、感謝しています。楽しかった時間も思い出も、みんな持っていくね。私のことは忘れて、拓也もいい人を見つけてね。御免なさい。さようなら。凛子。ー


便箋1枚にサッと書くと、もう一枚便箋をつけて、二枚の便箋を剥がすと、折り線をつけ、封筒に入れた。メールでなく、便箋に自筆の手紙を書いたのは、せめてもの礼儀のつもりだった。封筒に住所と宛名を書き、切手を貼り、夜の街を自転車に乗ると、郵便ポストに投函して、スッキリして床に就いた。


数ヶ月が過ぎようとしていた。広瀬拓也が結婚するらしいと、共通の友人から凛子に一報が入った。


凛子は、少し驚いた。まあ、良かったじゃん。スッキリして、その夜は一人飲みした。拓也のお相手が誰なのかは、わからなかった。知りたいとも思わなかった。ただ、私もそろそろ彼氏作ろうかな、と思った。


ある日、仕事に没頭していると、国内営業の上野ちゃんから内線がかかった。

「凛子、今日帰り、空いてる?社内の飲み会あるんだけど、来ない?」

「今日か。誰くるの?」

「エンジニアが何名かと、国内営業のメンツ。」

面白そうだな。行こうかな。

「わかった。空いてるよ。」

「居酒屋で飲んだ後、多分二次会はカラオケ。いつもそうなんだ。」

「わかった。じゃあね。」


上野ちゃんと凛子は、仕事が終わると、待ち合わせ場所の居酒屋に急いだ。

「凛子、エンジニアは全員独身。彼女募集中ばっかりだから。狙ってるの、私。」

「ふーん。」

「営業の女っていうと、敬遠されそうだけどね。笑。」

「言えてる。笑。」

「言っとくけど、鈴木っていう背が高いメガネは私が狙ってるからね。」

「了解しました。」


宴会はすでに始まっていた。凛子は上野ちゃんに紹介され、軽く会釈して席に着いた。国内営業の人たちが、

「おお、凛子ー。ミス海外営業部だよ。」

凛子は赤面して、被りを振って、

「いえいえ、とんでもないです。」

と言った。

隣に座ったエンジニアが、お酌してくれた。

「お疲れ様。初めまして。僕、矢崎です。よろしく。」

「河野です。よろしくお願いします。」


上野ちゃんは、背の高いメガネの男の隣で、顔を赤らめている。楽しい会話が続いて、知らないうちにだいぶ飲んでしまったようだ。

「お手洗い行ってきます。」

「私も。」

上野ちゃんが遠くから、追いかけてきた。二人でトイレに行き、洗面所で口紅を直していると、

「どう?楽しい?」

と、上野ちゃんが聞いてきた。

「うん、みんないい人だね。」

「そうでしょう。そのうち、旅行を企画するから、良かったら一緒にどう?」

「うん。考えとく。」

「矢崎君がおっきい車、持ってるから、それで行くの。鈴木と矢崎君、仲いいのよ。」

「ふーん。」

「鈴木と矢崎君と凛子と私、四人で、温泉に一泊とか、どう?」

「わかった。いいよ。矢崎さんって良さそうだもの。」

「彼はおすすめ。同期の中で出世頭。」

「そうなんだ。」


二次会のカラオケも楽しくて、凛子はしばらくぶりにリラックスしていた。


終電になんとか間に合って、最終バスに乗り込んで、十二時前に帰宅した。



凛子はしばらく仕事に打ち込んでいた。矢崎のことは忘れていた。上野ちゃんにランチを誘われ、ラーメン屋に行く。

「仕事、どう?」

ラーメンをすすりながら、上野ちゃんが尋ねる。

「うん、ちょっと今は忙しいかな。得意先が急に増えたんだ。」

「それはおめでとう。私も忙しい。気分転換したいな。」

「そうだねえ。仕事忘れて、どっか行きたいな。」

上野ちゃんは、

「ねえ、凛子って口硬いよね?」

「なに?秘密?大丈夫だよ。言わない言わない。」

箸を止めて、上野ちゃんの目を見た。

「私、鈴木に告白された。」

「ええ?おめでとう。良かったね。」

「うん。それでさあ、温泉旅行の件、覚えてる?」

「ああ、言ってたね。」

「うん、今度の連休、空けといてくれる?矢崎君の企画なの。鈴木も私も行くから。凛子も一緒に行こうよ。」

「……………… 。うん、わかった、空けとくよ。どこ行くの?」

「矢崎君の車で伊豆の保養所。ふた部屋一泊取れたから。」


連休の前になり、矢崎から内線が入った。

「河野さん、矢崎です。明日のこと、聞いてるよね。僕、順番に鈴木と上野さん拾って、最後に河野さんの家で河野さん拾うから。」

「はい。よろしくお願いします。」


朝、八時に起きると、荷造りして、化粧した。着替えを詰め込んで、洗面用具、タオル、ヘアドライヤーとウノをカバンに詰めた。昨日、会社の帰りにコンビニでお菓子を買っておいたので、それも用意した。


ピンポーン。


「はい。」

「おはようございます。矢崎と申します。」

「はい、いま行きます。」


大きなエルグランドが家の前に止まっていた。上野ちゃんが窓から手を振った。

凛子は荷物を持って玄関を出て、矢崎が荷物を積んでくれた。

「おはよう、乗って乗って。」

「鈴木さん、おはよう。」

「おはよう、楽しもうね。」

鈴木の茶目っ気のある目が、メガネの奥で輝いた。


「さあ、それでは参りましょうか。」

矢崎はそういうと、エンジンをかけて、車を発車させた。


伊豆に向かう途中で、サービスエリアでそれぞれうどんやカツカレーなどを食べて、コーヒーを飲んで、運転する矢崎はゆっくり休んだ。保養所には午後四時ごろ着いた。


矢崎は、

「今夜は、大広間で夕食食べて、男子部屋で飲み会。酒は鈴木が用意してきたから。おつまみは上野ちゃんが買ってきてくれた。夕食は七時からだから、その前にお風呂にそれぞれゆっくりどうぞ。明日は、朝ごはんの後、十時にここ出て、途中でみかん狩り。その後昼は適当に食べて、帰る、と。いい?」


温泉にゆっくり上野ちゃんと浸かってるとき、凛子は、

「ねえ、鈴木さんとは二人きりになりたくないの?」

「うん、気は使わないで。この前、メールが来て、告白されたばかり。周りがうるさいから、飲み会のメンバーにも言わないことにしてる。」

「ふーん。私さ、矢崎さん、興味あるな。彼のこと教えて。」

「彼はモテるけど、硬派なんだよ。凛子にはオススメだよ、本当に。大学もK大。

身長も結構あるし。スキーとか得意だよ。」

「本当に彼女いないの?」

「確かだよ、間違いない。いない歴2年ぐらいだよ。」

「それとなく、ふた組に分かれて、行動しようか。」

「うん、それいいね。」


飲み会はウノで盛り上がった。凛子と矢崎の距離はだいぶ縮まった。鈴木と上野ちゃんもいい雰囲気だ。ほろ酔い加減で、女子は女子部屋に下がって、布団を敷いて横になった。


「楽しい。誘ってくれて、ありがとうね!」

「よかった。実はね、矢崎君だけど、多分、凛子に気があるよ。」

凛子は赤面した。

「うそ。全然感じないけどな。」

「多分。鈴木からの情報。」

「うふ。悪い気しない。ありがと。」

「いえいえ。どういたしまして。私たち、みんなで幸せになろうよ。」

「それ、いいね。」


上野ちゃんは、いつの間にかうとうとしていた。凛子は目が冴えて、布団を這い出して、窓際の椅子に腰掛けると、缶チュウハイを開けた。

「うん。頑張ってると、いいことあるなー。」

独り言を言いながら、チュウハイを一気飲みした。


あくる日のみかん狩りで、凛子は矢崎と二人きりになった。みかん山の上の方まで二人で登って、息を切らしながら、いろいろおしゃべりした。矢崎と凛子はメールアドレスを交換した。


旅行から帰り、会社に行くと、神崎部長が営業本部の副本部長に昇進する話で持ちきりだった。凛子は美希子先輩に、

「昇進されたら、お祝い会、しましょうか。」

と持ちかけた。

「そうね、こじんまりと、海外営業部だけで、やろうか。」

「はい。会費、集めときます。花束も買うとして、一人から五千円、集めましょうか。残りは積み立てて。」

「そうね。じゃ、私はお店の予約しとくわ。ありがとう。」


新しい部長には、異例の鎌倉係長が昇進することになった。嫌われていた、S課長は、関西事業部に飛ばされた。凛子は気の毒だと思ったが、まあ、仕方ないな、と思った。みんなに残業を押し付けて、一人でサーっと帰り、銀座で飲んでいるような課長だった。


鎌倉係長は仕事ぶりも S課長のぶんまで引き受けて、仕事の鬼だった。美希子や凛子、他の部員達も、鎌倉さんにならついていける、と思えた。


矢崎はエンジニアで、営業部にはめったと用はないのだが、ある日、用事を作って、凛子のデスクをさりげなくチェックしに来た。お互いに知らんぷりをしている。矢崎はコピー機の前で、神崎と話し込んでいた。凛子は国際電話をかけた。


「Hello. This is Rinko Kono speaking. Thank you for the call this morning.

………………That is so sweet of you to say that to me…………。」

綺麗な発音がフロアに響いた。


矢崎は凛子を見ずに、下を向いてニヤッと笑った。


矢崎が初めてのデートに凛子を誘うまでに、時間はかからなかった。メールで電話番号を交換し、お互いにシリアスな雰囲気になった。会社では噂になると厄介なので、お互いに細心の注意を払った。上野ちゃんと鈴木には厳重にお互いから口止めした。


凛子は綺麗になった。肌がみずみずしく、口紅の色も最近ワントーン明るくして、アイシャドウも流行りの色を選んだ。化粧を変えて、気分も一新した。給料日に、

ブランドのハンドバッグを買い、デート用の服も何着か買った。


デートではもっぱらエルグランドが活躍した。矢崎はアウトドア派で、

「今度、鈴木ペアも誘って、バーベキューしようか。」

「いいね。どこで?」

「湘南の浜辺。小田原だけど。」

「うん。良さそう。矢崎君のうちの近くだね。」

「肉とか、俺買っとくから。みんな電車で来てもらってさ。」

「私も買い物手伝うよ。」

「助かる。」


「通勤、大変じゃない?座れる?」

「座れるんだけど、時間かかって困る。新幹線にしようか迷ってる。」

「新幹線がいいよ。」

「うん。うち、親父いないからな、俺が男一人だから。家から通いたいのよ。」

運転しながら、矢崎は話した。

「俺、去年まで、横浜事業部だったんだよ。本社勤務は遠くて疲れるよ。」

「そうなんだ。初めて聞いたよ。」

「あれ、言わなかったっけ。」

「初耳。」


「お互い、知らないこと多いね。」

「だんだんわかり合いたい。」

「うん。」


「上野ちゃん達ってデートしてる?」

「さあ、全然知らない。」

「そう。」


「今度、人事異動で、部長が変わるの。嫌いだった課長が飛ばされるの。ちょっと気の毒だな。家族の気持ち思うと。」

「ああ、有名、あの人。問題になったんだよ、取締役会議で。銀座で使い込んだらしい、接待費。」

「それ、本当?」

「ああ、経理の女の子でよく喋る子いるでしょ?菅野さんか?」

「ははは。まあいいよ。面倒臭いの、あの子。」

「そうなの?俺たちにはいい情報源だったよ。笑。」

「そうなんだー。」


矢崎は決して凛子を退屈させなかった。いつも、楽しい話題やワクワクでいっぱいだった。凛子はますます矢崎に夢中になっていく自分に気がついていた。


矢崎も凛子を気に入っていた。話は合うし、打てば響く勘の良さが好きだった。お互いに会社には秘密でデートを重ね、毎日自分磨きに忙しかった。


バーベキューパーティーに上野ちゃんを誘うと、大喜びされた。

「いいねー。さすが矢崎君。企画力ばっちり。鈴木も呼ばれてる?」

「もちろんだよ。私たち四人でだよ。」

「楽しみー。」


上野ちゃんと鈴木は車を持っていない。矢崎はそんな二人に気を使っているようだった。バーベキューを食べながら、鈴木は凛子に、自分が上野ちゃんに首ったけだと打ち明けた。凛子は上野ちゃんより二つ年上だった。凛子は途中入社なので、周りは二人を同期扱いしていた。矢崎は上野ちゃんと食べながら話している。


楽しい雰囲気。矢崎は運転するため、酒を飲めないので、凛子もアルコールを飲まずにいた。上野ちゃんと鈴木は、

「私たちもウーロンでいい。」

といい、みんなでノンアルコールで盛り上がった。お酒抜きで恋話に火がついた。


上野ちゃんと鈴木が電車で帰り、凛子と矢崎はゴミを片付けて、矢崎は車で凛子を送ることになった。


凛子はだんまりだった。

矢崎は、

「どうした?疲れた?」

「うん、…………… 。私、思ったんだけど、もう上野ちゃんと鈴木君のダブルデートはやめない?これ以上、意味ないかもと思った。ごめんね。」

「いやいや、俺も同感。あいつらとはノリが違うだろ、俺たち。」

「そうだね。」

「若いんだよね、あっちは。」

「そうかも。話題もついてけない。私おばさんで。」

「俺も。笑。」


「二人で会いたい。もっと。」

「わかった。」


凛子を降ろす時、矢崎が首を伸ばしてキスして来た。凛子は軽くキスした。

「うん、これで俺、小田原まで帰れる。ありがと。笑。」

矢崎はエルグランドのクラクションを鳴らして、走り去った。

凛子は真っ赤になって、唇を指で触ってみた。

化粧を落とし、部屋で着替えていると、矢崎からメールが来た。

ー今日の日付は、俺、ちょっと覚えておこう。笑。おやすみ。ー


凛子、二十七歳の夏が始まろうとしていた。

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