■終
■終章
『 親愛なる弟へ
今年の乾季はとても厳しいもので、かつての
あなたも、お世話になっているグラーダ家の皆様も、知恵と精霊の加護にて無事に乾季を乗り越えたと信じています。
もう姉の助けなど要らないと笑うでしょうけれど、あなたが戦士の試練を受ける時までには一度、そちらに伺おうと思います。
今日は、
先日の
次の手紙は年明けになると思います。どうか健やかに。
シャイラ 』
弟への手紙を書き上げて、筆を置く。神殿の私室の窓にも、街の騒がしさが届いた。乾季明けのお祭りは厳しい乾季を乗り越えたことを祝い、また新しい一年を迎えるための大切なお祭りだ。
窓の外はすでに夜だ。立ち上がり、軽く身繕いして部屋を出る。
「お、シャイラ。ちょうどいいところに。故郷から酒が届いたんだ、一杯
神殿の廊下からも、夜の街がまだ明るいのが見て取れる。乾季の間は酒を控える分、乾季明けのお祭りは盛大に酒が振舞われることになる。この時期ばかりは、神官たちも酒を味わう。
目の前で顔を赤くしているこの
「アヤンさん……足元がふらついていますよ」
「ふん。下手な嘘だ、シャイラ。あたしが前後不覚になるまで酔うものか」
……どちらが事実かは、お互いの名誉のために黙っておくとして。頬を赤く、すらりとした狼珂国の衣服を少しだけ着乱したアヤンさんは、普段よりも艶がある。元々美しいところに艶が加わり、何とも妖しい魅力を振りまいていた。
雨姫様と酒を呑ませるようなことは絶対に止めねばなるまい。
「乳の酒でしたね。興味深いですが、今日は遠慮します」
「あたしの酒が呑めないと?」
「ええ。貴女より大切なことがありますので」
手元に抱えた本を見せる。
ああ、と納得したように頷くアヤンさん。
「頑張りたまえ」
「意味深に言うの止めてくれます?」
「応援しただけだよ。無論、君が頑張らないのならあたしが横からかっさらって行くけれど」
「……言われずとも頑張りますとも。それでは」
全く、何とも優しい戦士だった。後で炒り木の実と上質の酒を持って部屋を訪ねてみよう。
アヤンさんと別れ、盛り上がる街の明かりを横目に神殿を早足で歩く。中庭の植物園を抜けて辿り着くのは、もちろん、雨姫様の寝所だ。
扉の前にはいつも通り、ナーディヤさんが静かに控えている。
あの日、ナーディヤさんが助けてくれたことは、彼女からの要望で雨姫様には伝えていない。『私は、指示されないことは一切しない女でなくてはならないのです』、そう言った彼女の表情はどこまでも静かで、決意に満ちた、完璧な侍女の顔だった。
「夜伽の時間ですね」
「はい。よろしくお願いします」
今日も隙のない振る舞いで、僅かに軋む音を立て、扉を開いてくれる。
何度経験しても緊張する瞬間で、喉がこくりと鳴った。
▼
あれから――
雨姫様が起こした嵐は、優しい雨へと代わり、
旱魃に喘いでいた砂漠に恵みの雨が降り、民は雨姫を称え精霊に感謝の祈りを捧げた。それでも例年よりは雨は少なかったが、そこは砂漠の民である。僅かな雨と備蓄を最大限に活用し、何とか乗り切ったのだ。
神殿では、雨姫様の指示によりティルダード様と護衛のエーミールさんが拘束され、一時期運営の混乱があった。元々ティルダード様が生贄になるつもりだったため、後継者を指名していたこともあって、混乱は早々に落ち着いたのだが。
捕らえられた二人は、しばしの休養の後、元の立場に戻る予定だという。
ある意味では、ティルダード様は民を安んじる神殿の長としての務めを果たそうとしたとも言える。雨姫様の意向に背いたことは確かだが……私とアヤンさんを殺そうとしたことも確かだが……当の雨姫様がそう決めたのだから、異を唱える者などいるはずもなかった。
そもそもあの『儀式』は雨姫の秘密を知る者のみで執り行われていたから、顛末を知っているのはごく一部の神官と〈水守り〉たちだけ。神官の多くは、極秘の儀式で雨姫様が雨を降らせた、というくらいの認識だろう。
ともあれ、私とアヤンさんは雨姫様の指名を受け、改めて夜伽役となった。
今夜は、乾季が明けてから初めての夜伽だ。
▼
雨姫様の寝所は乾季などなかったかのように、今日も白く、静謐だ。夜星石の冷たい明かりが石造りの部屋を照らし、壁沿いの床を清らかな水が流れている。
「――恵みもたらす雨姫様に拝謁の機会を賜り……」
「挨拶は要らないと言ったはずだけれど」
「……申し訳ありません、その、ええと。……何を言ったらいいか、分からなくなってしまいまして」
「……ちゃんとしなさい、私の夜伽役」
いきなり呆れ果てた声を出させてしまった。
広い寝台の上には、白い装束を纏った少女。普段通りの恰好だが、今日は胸元に
雨姫様に会釈して、寝台に歩み寄る。本をぎゅっと握り締めて、胸を内側から叩く鼓動に耐えた。
「夜伽に参りました」
「ええ。よろしくね」
服の裾を叩く、砂払い。本来は人の家にお邪魔する時の礼儀だが、今は邪念よ落ちよとばかりにぱんぱんと叩いてから、そっと寝台に膝を乗せた。
「雨姫様」
「名前」
「……え?」
「名前で呼びなさい」
「……ルフ様。良いのですか?」
「嬉しそうにして……全く。貴女があの祭壇でぶちまけたせいで、知れ渡っているのよ」
「う。それは……誠に申し訳もございません……」
「いいわ。呼ばせるのは貴女だけだから」
「……!」
嬉しそうに、と言われても仕方ないくらいに、嬉しい。頬がにやけるのを必死に堪えて顔を伏せる。
「……光栄です。あ、あっと、今日は……どんなお話を、しましょうか」
「…………そういえば、昼間のお祭りで見た劇団。貴女と見に行った劇団だったわね」
「え? は、はい。〈銀白砂糖〉劇団でしたね。踊り子の方はますます美しさに磨きがかかっていて」
乾季明けのお祭りでは、神殿に様々なものが奉納される。芸事もその一つであり、私も神官の方々と一緒にご相伴に与ったのだった。大変素晴らしい歌と踊りを思い出してうっとりと頷く。
「今日の踊りは物語仕立てだったけれど、ああいうのも多いの?」
「演劇は演劇、踊りは踊り、が多いと思いますが……演劇と踊りを組み合わせた新しい表現のようですね。私、最後に泣いちゃって……」
「見てたわ。ぼろぼろ泣いてたわね。物語自体は古典の翻案だったけれど、表現によって変わるものね」
「う、お恥ずかしいです。……でも、はい。本で読む、声で語る、それ以外にも様々な表現があるのは……なんというか、わくわくしますね」
「……確かに」
そのまましばし、〈銀白砂糖〉劇団の踊りや、古典について語り合う。
落ち着いたところでふと問うた。
「あ。……失礼しました、盛り上がってしまって。それで、あの……今日はどんなお話をしましょうか」
「…………そうね」
ルフ様は寝台の上で姿勢を直し、クッションにしなだれかかったいつもの態勢をとる。壁の方を向いた横顔は……白い頬に、少し朱が差しているように見えた。
美しい、と思って見つめていたが、いつまで経っても答えが返ってこない。
「……ルフ様?」
「…………シャイラ」
その視線が、私を向く。
雷雲のような黒灰色の瞳が、ほんのわずかに雨を湛えて見えた。
「恋の話を聞かせて。――とびきり甘いのがいいわ。貴女と私が、そうなるように」
――私たちの旅は続くけど。
今宵の話は、これでお終い。
恋の話を聞かせて、と雨姫は泣いた 橙山 カカオ @chocola1828
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