第2話


「──では、三十歳になったので結婚の話を進めましょうか。瀬川さん、今、彼女いませんし独身ですよね?」

「ああ、そうだな………って、は?…………は?」


 居酒屋。

 不意にそんなことを言ってきた成瀬に、俺はちょうど飲んでいたビールを口から溢してしまった。



 それどころか口元に運んでいたジョッキを傾けてしまい、ビールがテーブルに溢れてしまう。無意識に慣れた仕草でおしぼりで拭いてしまうが、思考は彼女の発言を一文字たりとも処理することができない。



 一方で、成瀬はといえば我関せずとばかりに顔色ひとつ変えることなく焼き鳥を上品に食べていた。


 肩ほどまで伸ばされた黒髪。

 いつもきっちりと整えられている前髪は、もう深夜に近いからか、はらりと乱れている。



 今日は顧客先での作業だったせいか、スーツ姿だ。

 最近はさすがに新人の頃のようにいつもスーツというわけではないが、客先に行く時は別らしい。


 だが、飲酒で身体が火照ったのかジャケットはとうに脱ぎ捨て、シャツのボタンは上から二つほど外されていた。そのせいで、いつもは隠れている艶かしい白い肌が、居酒屋の熱気でほんのりと染まっているのが見える。


 超がつくS級美女がこんな蠱惑的な格好をしていればドキッとしないこともないが、生憎とこいつは会社の後輩だ。


 そんな気持ちは捨てるようにしている。


 現在、俺たちがいるのは、どこにでもあるような安い居酒屋だった。

 少しでも動けば、テーブルの下で靴先が触れてしまうほど狭い敷地。天井では裸の照明がぎらぎらと輝き、壁紙には長年の汚れがすっかりと染み付いてしまっている。目の前のテーブルには安いおつまみと空のジョッキが並べられ、周囲からは大学生の馬鹿騒ぎが絶え間なく響いている。


 要するに、結婚の話を切り出すような場所じゃない。


 成瀬は俺の会社の後輩だ。

 年次は俺の二つ下。

 八年前、俺が所属する部署に配属されたときからの付き合いだ。


 最初は指導員と新入社員という関係性だった。

 そして今はただの同僚。

 それでも、こうして仕事終わりに度々一緒に飲むぐらいには慕ってくれていた。


 まあ、一種の「刷り込み」のようなものだろう。


 説明するまでもないだろうが、「刷り込み」とは生まれたばかりの雛が最初に見た鳥を親だと思うようなもの。つまり、成瀬は俺に好意を持っているわけではなく、たまたま初めての指導員が俺だったからこそ慕ってくれているのだろう。


 そんなわけで、今日も定期開催している飲み会の一環ではあったのだが。


 驚きの発言をした成瀬といえば、今は表情ひとつ動かさずジョッキを傾けていた。

 とてもじゃないが、結婚の話を切り出したとは思えない。


「……きゅ、急にどうしたんだ?さ、三十歳になったから結婚?」

「はい。約束したと思いますけど」


 さらり、とさも当然のように言い放つ成瀬。

 しかし、俺の頭は依然としてまったく成瀬の言葉についていけない。


「……や、約束したか? そんなことを?」

「はい。三年前に、この居酒屋で。覚えてませんか?」

「ほ、本当か、それ……?」

「誓約書も書いてもらったんですが、覚えてませんか?」

「本当か、それ!?」


 まっっっったく、記憶ねぇんだけど!


 思わず叫ぶ俺の前に、成瀬は綺麗に折り畳まれた紙を差し出してきた。

 そこには『誓約書』と『三十歳になったら成瀬凛と結婚することを約束します』という文面とともに、俺の名前がしっかりと記載されていた。


 サインのとき、酔っ払っていたのか少しぐにゃぐにゃしているものの、間違いなく俺の筆跡である。それどころか、俺の苗字である『瀬川』の判子で押印されている。たぶん、会社で使うために持ち歩いている安い判子だ。


 その誓約書を見ていると、徐々に過去の記憶が朧げに蘇ってくる。

 誓約書はともかくとして──確かに、成瀬から結婚しませんかとかなんとか言われた覚えがある。


 俺の記憶に間違いがなければ、あれはちょうど結婚を考えていた彼女にフラれたタイミングで──




 ──へぇ、瀬川さん。彼女さんにフラれたんですね。へぇー、ふーん。

 ──あの、瀬川さん、何回それを繰り返すんですか? そんなに、結婚したかったんですか?

 ──なら、私はどうですか?


 

 そんなことを冗談めいた口調で、成瀬から言われ。

 そうして、あの台詞が出てきたのだ。



 ──私が三十歳にもなったとき、お互い独身のままだったら結婚してみます?


 

 と。

 だが、俺の思い違いでなければ、あれは。


「……冗談じゃなかったのか?」

「冗談、ですか?」

「だって、そうだろ。三十歳になったら結婚なんて絶対に冗談だと……い、いや。そ、そもそも成瀬は嫌じゃないのか? 一ヶ月程度付き合うとかじゃないんだぞ? 結婚だぞ?」

「あの、瀬川さん私のことを馬鹿だと思ってるんですか?」

「……は?」

「嫌なら、そもそもこんな約束してるわけがないじゃないですか」



 成瀬はそこで言葉を区切ると、ゆるりと顔を上げて真正面から見つめてきた。

 表情はいつものように動かない。

 顔色もひとつも変わらない。


 ただ、口元に小悪魔的な笑みをほんの少しだけ浮かべ。

 こてん、と可愛らしく首を傾げ。


 何でもないように──を口にするように、成瀬は言う。




「──だから、好きですよ。瀬川さんのこと」




 その破壊力たるや。

 俺は思わず絶句してしまう。


 たっぷり十秒間は言葉を失ってしまっただろうか。

 思考は何もまとまらなかったが、口をぱくぱくしながら、ようやく捻り出せたのはこんな言葉だった。


「え……い、いつからだ?」

「いつ、とは?」

「お、お前が俺を好きになったタイミングだよ! い、今までそんな素振りを見せたことなかっただろ!」

「さあ? いつでしょう?」


 とぼけながら、ビールをこくこくと飲む成瀬。

 どうやら答えるつもりはないらしい。こっちはさっきから感情が乱高下しているにもかかわらず、相も変わらず無表情なのが腹立たしい。


「それで私の告白を聞いて、どうされるつもりですか?」

「え? ど、どうするって?」

「断りますか? それとも結婚しますか?」

「い、いや、それは……」

「……(じー)」


 ……えっと、今、告白されているのは俺だよな?


 なんで告白される側がこんなに劣勢なんだ? 普通、逆じゃないか?

 告白される経験自体が今までなかったのに、すぐに何もかも決断できるわけがない。


 ただ、


「結婚は……できない」


 しばしの間の後。

 絞り出すようにそう返答する。

 未だに思考は整理されていない。

 だが、それだけは断言することができた。


「いったい何が不満なんですか?」

「いや、不満というか……」

「自分で言うのもなんですが、私、美人ですよ」

「本当に自分で言うことじゃないな」


 否定はまったくしないが。


「それとも、瀬川さんは私のこと嫌ですか?」

「いや、嫌というか……」

「ふーん、嫌じゃないんですね」


 うぜぇ。

 成瀬の表情はほとんど変わっていない。

 だが、どこかドヤ顔をしているようにも見えるのが、ひたすらにムカつく。


「……嫌とか不満とか以前に、そ、そもそもお互いに何も知らないだろ」


 だから、俺はひとまず成瀬の質問には答えずに、代わりにそう言う。

 成瀬は「逃げた……」というジト目を向けてくるが、気にしない。こんなやり取りなんて真正面からやってられるか。


 でも、と成瀬は続ける。


「お互いに何も知らない、ってことはないと思いますけど」

「え?」

「だって、この八年近くで何回一緒に飲んでると思ってるんですか? 私、瀬川さんの家族構成から小学生のエピソードまで空で言えますよ」

「それは……そうだな」


 ちなみに、俺も成瀬の家族構成を言うことはできる。


「じゃあ、結婚でいいですね」

「い、いやよくない。というか、お前、俺の家にも来たことないだろ。やっぱり一回も家に上げてないヤツと結婚なんてできるわけがないな。外で見せる姿なんて所詮紛い物だろ」

「紛い物って。それ言っちゃうと、お見合いなんて成立しないと思いますが」


 うるせえ、なんとでも言ってろ。


「でも、そもそも私、瀬川さんの家に行ったことありますよ」

「…………は? い、いつ?」

「ほら、一年前、瀬川さん泥酔したときがあったじゃないですか。そのときにお家もあがりましたよ。介抱するために」

「……そういえばそうだったな」


 確かにそんなこともあった。


「じゃあ、結婚でいいですね」

「い、いや駄目だ! というか、すぐ結婚に持っていくんじゃねぇ!」

「今度は何が駄目なんですか?」

「それは、ほら……こ、こういうのはお互いの気持ちが大事だろ。そもそも、いきなり結婚なんて順序がおかしい!」

「なに、気持ち悪いこと言ってるんですか。乙女ですか」


 うるせぇ。別にいいだろ。


 思わず拗ねかける。

 一方で、成瀬はわざとらしく溜息を吐いて。


「はぁ……わかりました、わかりましたよ。なら、順序を踏めばいいんですね」

「なんで俺が悪いみたいに言われなきゃいけないんだ……?」


 さっきも言ったが、俺が告白されたんだよな?

 結婚しよう、とプロポーズに近い言葉を言われてるんだよな?

 なんで、こんなに劣勢に立たされているんだ?


 ──後から思い返せば、本当に嫌なら断り方はいくらでもあったのだ。


 だが、このとき、俺の頭には一つも断りの言葉が浮かび上がらなかった。

 それは、成瀬からの告白でまたもや冷静さを失っていたからか。



 だから、彼女がその提案もその場で俺は断ることができなかった。



「──なら、まずは私と同棲でもしてみますか?」



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導入だけです。

なんとなく書いてみたくなったので、書きました。

お付き合いいただきありがとうございました。

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【短編】【導入だけ】30歳になってお互い独身だったら結婚しようと約束した。本当にそうなったので、まずは同棲から始めてみた 篠宮夕 @ninomiya_asa

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