狐と剣の王
@yuku-nawa
第一章 制裁
微かな刺激臭を感じとり、ペンをとめる。ふと顔を上げると、教室はいつの間にか静かになっていた。いまだ残っている数名の生徒は粛々と自習をするだけで課題の邪魔にはならない。
すぐ横の窓ガラスを開けようとして、思いとどまる。清掃を終えしばらくたったというのに、教室はいまだに埃っぽい。申し訳程度に開かれた窓ガラスの向こうに視線を向ける。空は分厚い灰色の雲で覆われている。ガラスに水滴はなく、雨音はしない。しかし間に合わないだろうと思った。帰る途中で降るだろうし、傘を買う金はない。
五月二一日は梅雨入りの日だった。それに気づいたのは、今朝、教室にある傘立てがびっしり埋まっていたのを見たときだった。他の登校する生徒を見ていれば誰もが傘を手に持っていたはずなのに、なぜそれまで気がつかなかったのか。不用心だったと言えばそれまでだ。でもそのとき不気味に感じた。
そして、今もなお、その不安は消えてなかった。振り返って隣の席を確認する。席の主人はとっくに帰っただろう。やっぱり、もう帰ろう。そう思い、机にしまった文房具を取り出そうとすると、一枚のプリントに手が触れてしまう。取り出すと、やはりそれは課題提出用の名簿リストだった。一ノ瀬
課題が終わる頃には、やはり外は雨が降っていた。前方に目を向けると、教室の掛け時計は四時半過ぎを指していた。いつもと変わらない時間だった。真後ろにある生徒用ロッカーのダイヤルを外して鞄を取り出す。鞄に文房具を入れ再びダイヤル錠をかける。ここまで厳重に管理する必要はないだろう。だからこれは、強迫観念なのだろう。
教室を出て、職員室まで課題を提出しに行き、昇降口へ向かう。昇降口手前の渡り廊下から再び空を見る。せめて学ランだけでも濡れないようにと思い、脱いで鞄にしまう。
校舎周辺を確認し昇降口を出てからは、人気のない裏門へ早歩きで向かう。雨は決して強くはなく生暖かったが、水滴が徐々にシャツに染み込む感覚に焦りを覚える。
裏門を出て他の下校する生徒が見えなくなる頃には、制服はすでに濡れていた。それでも歩くペースは変わらなかった。
駅まで続く主要な通学路を避け住宅地の間を進む。普段は通らない道。しかし大体の方角が分かればそれでいい。緩やかな傾斜を頼りに道を下る。
やがて通行人を全く見なくなり、路地裏のような細長い坂道まで来ていた。ふとポケットから携帯を取り出すと、荒い画面には五時十一分と表示されていた。周りには、民家の屋根に雨粒が落ちる音と、傍を流れる雨水の音だけが響いている。
雨水の流れた先、坂の向こう側にはガードレールが覗いて見える。そこから曲がり道のようだ。ずいぶん遠いところまで来てしまった。それでも坂を下り続ける。
気づけばもう、焦る気持ちは無くなっていた。その代わりに、俺はなぜこんなことをしているのだろうかと考えた。さっきまでの焦りは今朝、傘立てを見たときから抱いていたものだ。しかし通行人がまるっきり見えなくなった後でも自分は遠回りをし続けていた。人目を気にしていた訳でも、雨に濡れることを気にしたわけでもなかった。なら雨は関係ないのだろうか。明確な目的地もなく、でたらめに道を進むなんて、まるで何かから逃げているみたいだ。
・・やめた。もう真っ直ぐ帰ろう。しかし、そう思い直す頃には無意識に坂を下り終えていたようで、路地裏を抜け、先ほど見えたガードレールの前まで来ていた。ガードレールは転落防止用のものだった。しかし全く車の通る気配がない。
高い崖に沿って伸びた車道の左側は下り坂だが遠回り、右側は上り坂でほとんど今来た道を逆走するような方向だが、恐らく普段の通学路に行き着くだろう。崖下を見下ろすと五、六メートルほど下に水田が広がっていた。
緑色の稲が点々と浮かぶ水面に、無数の波紋が絶え間なく広がり続けている。そのときだった。日の光を遮られ、水滴に打たれ続けているだけのはずの稲が、なぜか淡く光を反射しているように見えた。気づけば自分の足は坂を下り、錆びついたガードレールに手を添えて、水田を注視し続けていた。
今まで感じた違和感の正体が全てそこにあるような気がした。やがて坂を下り続け、地平線まで水田が広がっているのではないかと錯覚した、そのときだった。
水田に沿ってできた小道、その果てしなく遠くに人が立っていた。遠くにいるはずなのに、なぜか鮮明に姿が浮かぶ。見慣れた制服を着た女子生徒が横を向いて、どこか遠くを見つめている。明らかに場違いのはずなのに、その姿は、下校中、青信号を待っているかのように自然だった。
どうして学生鞄を持ってないのだろうと思った。その瞬間、右手にあったはずの感覚が突然消え、体勢が崩れる。ガードレールが途切れていた、と気づいた時にはもう遅い。支えを失った体は一瞬にして崖下に吸い込まれる。天地がひっくり返ったかのような視界の中で、遥か遠くにいたその少女は、確かに俺を見つめていた。
淡い光が広がり意識が鮮明になっていく。微かに水の流れる音が聞こえる。同時に体に硬い感触と、纏わりつくような水気を感じた。目を開けると、視界が淡い橙色に染まっていた。
空を見上げていると気づき起きあがろうとすると、またも手に硬い感触が伝わる。見ると自分はコンクリートの上で寝ていたようだった。
這うように水の音を辿り、傍に並び立った鉄の棒の間から顔を覗くと、真下を小さな水路が通っている。水面に写る自分は酷く濡れていた。
橋の上にいると気づき顔を上げると視界が緑で覆われる。振り向くと目の前には崖が聳え立っている。
段々と、意識が途切れる直前の記憶を取り戻していく。やがて自分がこの水路に落ちたのだと気づいた。それと同時に混乱した。咄嗟にポケットから携帯を取り出す。画面に表示された日付は五月二十一日、時刻は午後五時三一分だった。携帯が故障していないことに安堵する間もなく時間を逆算する。最後に携帯を確認した時間から二十分しか経っていない。
画面を操作して天気予報を確認する。五月二十一日月曜日、そこから先の一週間には全て晴れマークが表示されていた。頭が痛くなった。思考がまとまらない。それでもなんとか意識を失う前の出来事を思い出していく。昨日、担任は明日が梅雨入りの日だと言っていた。なぜかそれを忘れていた自分は傘を持たずに登校して、教室の傘立てを見てやっと思い出したのだ。最後に携帯で時刻を確認してからこの場所に来るまでもかなり歩いてきた。携帯が故障していなければ、大体十分くらい前までは雨が降っていたことになる。それなのに、目の前の稲のどこにも水滴がついていない。こんなことがあり得るのだろうか。
一瞬、夢だと思った。でも、手の平に伝わるコンクリートの硬い感触も、体中に巡る不安も、とても幻とは覚えなかった。
橋の手すりを掴んで、体を持ち上げる。制服が水を吸っているせいなのか、体が重い。立ち上がって見れば、目の前の水田は意外にも小さかった。水田の切れ目となっている道路がこの位置でも微かに見える。反対側を見上げると、やはり崖の上のガードレールは、自分のちょうど真上で途切れていた。意識が途切れる前の記憶と矛盾はないように思える。ならばどっちも現実なのだろうか。もう一度、天気予報を確認しようと携帯を取り出すも影がさして画面がよく見えない。日が暮れかけているようだ。
もう帰ろうと思い、水路に沿って崖下に続く道を探した。そのとき、先にあった水門の側に誰かがいた。体育座りをして何かを抱えながら寝ている。近づいて見ると、どうも畑仕事の休憩をとっているような雰囲気ではなかった。肩までかかるくらいの黒髪の女性で、おそらく年は二十代前半くらいだろう。少し背が高い気もする。なにより白のブラウスに紺のロングスカートを着たその姿は、今のこの状況にはとても奇妙だった。
異様な雰囲気に戸惑い、気付かれないように足早に通り過ぎようとしたとき、彼女が抱えていたものが目にとまり、足を止める。抱えていたのは自分の学生鞄だった。そのとき自分が鞄の存在を忘れていたことに気づいた。なぜ先ほど思い至らなかったのか。自分は思ってる以上にまだ動揺しているのか。気持ちを落ち着かせようと額に手を当てる。その瞬間、視界の端に自分のカバンを枕代わりに使って寝ている彼女の顔が見えた。
気づけば自分は手をぶらりと下げて、ただ空を見上げていた。茜色に染まりつつある目の前の空は、どこか現実味に欠けていた。だからなのか、今、この状況をすんなりと受け入れることが出来る。自然と呟いた。
「お礼、言わないと失礼だよな」
彼女の肩を髪に触れないように軽くゆする。やがて彼女は顔を上げ、綺麗に整った前髪の向こう側の瞳が、夕日の光を拒むように自分に向けられる。それから何秒くらい経ったのだろうか。気づくと彼女は目を開いたまま、無言で泣いていた。その瞳を見据えて、呆然と立ち尽くしていると、彼女は何かを言いかけたが、躊躇って涙を拭い、下を向いた。
「良かった・・」
やがて彼女がそう小声で呟くのを聞いて、一瞬怖くなった。しかしすぐ心配症な人なのだろうと解釈した。一応確認しなければならないことを聞く。
「あなたが助けてくれたんですか」
顔を上げた彼女はすでに泣き止んでいた。
「うん。崖の上から突然水路に落ちてきて、すぐ引き上げたんだ。息はしてたから、起きるまで待とうと思って・・」
そう言ってなぜか気まずそうに視線をそらす。救急車を呼ばなかったのは、致命傷を負うような落ち方ではなかったからなのだろう。実際、今は関節が少し痛む程度だ。それでも万が一に備え救急車を呼ぶべきだったと彼女は悔いているのかも知れない。でもむしろ救急車を呼んで大事にせずに済んで良かった。それはいいとして、彼女は水路に落ちて来たと言った。つまりこの辺りから見てたはずだ。
「どうしてこんなところにいたんですか」
聞くと彼女は立ち上がり、振り返って水田を見つめた。やはり彼女は若干自分より背が高かった。
「昔よくここら辺で遊んでて、おじいちゃん家に向かうついで寄ってきたんだ」
「祖父の家、ですか」
「うん。君が落ちた道の先にあるんだ。ところでさ」
そう言って彼女は俺の方に目を向ける。
「君、制服かなり濡れちゃってるけど、ズボンの替えとかってあるのかな」
そう言われて初めて気づいた。明日もこれを着て登校する必要があるのだ。けど今の時間からだと自然乾燥では水気は落としきれない。
「ないけど、なんとかなりますよ」
強がっては見たものの、家に乾燥機はないし、コインランドリーに行くのは金が勿体ない。ドライヤーで乾かすのは最も避けたい。音が漏れて親にばれてしまう可能性がある。どうせ傘を持っていかなかったことを馬鹿にしてくるだろう・・。傘・・。そのとき、確認すべきことを思い出した。
「あの、今日は梅雨入りの日、ですよね?」
「はい?」
あからさまに困惑したような表情をされてしまった。見当違いなことを言ってしまったのだろう。これで異常気象で自分が気絶している間に雨が止んだという可能性が消えてしまった。いや、まだ決めつけるのは早い。自分の携帯が故障してて、彼女がニュースを見てない可能性だってある。
「あの、携帯とか持ってますか? 天気予報見たくて」
「え、ああ。ごめん、今電池切れしちゃってて・・」
「あ、そうですか」
帰ってからじゃないと確認できないか・・。
しばらく気まずい沈黙が続く。
「そうだ」
やがて彼女は言った。
「おじいちゃん家すぐ近くだから寄りなよ。乾燥機もあるし」
予想外の提案に戸惑う。親との接触を避けられるに越したことはないが・・。信用していいのだろうか。いや、よそう。あんなに心配してくれたのだから。
「お願いします」
「よしじゃあいこっか」
彼女は笑顔で踵を返すと向こうへ歩いていく。ふと口が動く。
「あの」
「うん?」
「助けていただきありがとうございました」
気づけば自分は彼女が見えなくなるくらい深くお辞儀していた。
「うん。どういたしまして」
彼女は明るく答えてくれた。その誠意の裏に、後ろ暗い気持ちが隠れているのを、見透かされるのが怖くて、顔を上げることができなかった。
彼女の祖父の家は本当にすぐ近くにあった。木造の別段古くも新しくもない庶民的な一軒家。周りには水田を挟んで同じような一軒家がまばらに並んでいる。表札には小西と書いてあった。玄関前に着くと、彼女は鍵を取り出して扉を開けた、かと思ったが
「あれおかしいな、この鍵であってるはずなんだけど」
彼女はすこし慌てた様子で提げていたポシェットの中身を探る。インターホンを押さないのかと声をかけようとしたところ、ふと手を止めてこっちを見てきた。
「えっと、もしかしたら裏手のジョウロに合鍵があるかもしれないから見てきてくれない?」
いかにも田舎らしいなと思いつつ、頷いて家の裏手へ回る。裏手はガーデニング用なのか二畳くらいのスペースに花が植えてあった。側にジョウロがあったので中身を見ると、何もはいってない。周りを見てみたが、ジョウロはおろか他に隠せそうな場所も見当たらなかった。報告しようと戻ると、玄関の方でガタンとかなり大きめの音がした。玄関前に戻ると彼女は鍵を掲げてこっちを見てきた。
「ごめんねあったよー」
「はぁ」
なんだったのだろうと思っていると今度はしっかり開いた。だいぶ重い開戸なのか彼女はゆっくりと開けていく。扉に手を添えながら、なぜか先に入るように促される。自然と彼女と距離を詰めることになってしまう。その時、彼女のロングスカートの紐が偏っているのが見えた。
「お邪魔します」
中もやはり普通で、玄関から真っ直ぐに廊下が伸びてその傍に二階に続く階段があった。一人暮らしの広さではなさそうだが、ふと足元を見ると靴が一足しかなかった。彼女は入ってすぐの扉から部屋の中を、おそらくリビングを覗き見る。
「あ今おじいちゃん二階で寝てるだろうから静かにね」
それでインターホンを鳴らさなかったのかと納得していると彼女は手招きしてくる。リビングの扉を通り過ぎてさらに奥の部屋に入る。奥の部屋は洗面所だった。ドラム式の機械が二つ見えてどっちが乾燥機なのだろうと思っていると、突然タオルとtシャツ、短パンを渡される。
「体拭いてこれに着替えて。終わったらズボンをそこに置いといて。廊下で待ってるから」
「はい」
そう言って彼女はドアを閉める。手際が良いななどと思いつつ急いで制服を脱ぎ体を拭いて着替える。渡されたのはおそらくおじいさんの古着だろう。ズボンを傍に置き、白シャツの方は鞄にしまう。
廊下に出ると彼女は雑巾で床を拭いていた。
「あの・・終わりました」
「お、早いね。じゃあちょっと玄関で待っててね」
「・・はい」
言ってすぐ彼女は洗面所へ戻っていく。玄関か・・。自分の体を見る。少し乾いたとはいえ、やはりリビングに上がるのはまずいのだろう。玄関に戻ると棚上にあった置き時計は五時四五分を指していた。しばらく待っていると彼女は戻ってきた。
「一枚でも十分くらいはかかるからちょっと待っててね」
「はい」
そう言ってすぐ隣に座ってきた。少したじろいでしまう。
「そう言えばさ、君名前なんていうの?」
「一ノ瀬・・紡です」
「私は小西香苗」
「香苗・・」
そう繰り返した瞬間、自分が安堵していることに気づいた。その間、奇妙な沈黙が続いた。
「君の鞄ってさ、駿河原高校のだよね。学校からここまで結構遠いけど、いつも徒歩なの?」
「いつもはこの近くは通らないんですけど、今日は遠回りしてました。」
「何か用事があったの?」
「傘を持ってくるのを忘れちゃって、他の下校する生徒にびしょ濡れな姿を見られたくなかったので・・」
言って自分がひどく的外れなことを言ってると感じた。人目が気になるだけならこんなとこまで来る必要はなかった。自分は何かから逃れようとしていた。しかしもうその必要は無くなった。
「その割には君は私に対してあけすけな気がするんだけど・・」
「助けようとしてくれた人の好意を無碍にはできませんよ」
「そっか・・。私もさ、実は駿河高出身なんだ。君を後輩だって思ったら世話焼きたくなっちゃって・・勝手だよね」
「そんなことないですよ。実際、自分助かってます」
それは本心だった。
「そっか。ありがとね。気を遣ってくれて。あ、もうそろ君の服乾いたかな。ちょっとまっててね。」
そう言うと彼女は洗面台へと消えていった。
置き時計は五時五十四分を指していた。ふと鞄を覗くと、濡れたtシャツが見えた。しまった。どうしてこれも乾燥機に入れなかったのだろうか。
しばらくすると彼女は乾かしたズボンを手に戻ってきた。
「はいこれ。ちょっと湿ってるけど明日には乾くから」
「ありがとうございます。あの、今から着替えてきますね・・」
そう言って、ぎこちなく鞄を担ぎ、ズボンを手に洗面所に向かおうとすると、肩を叩かれ、ぎくりとする。
「ちょっと君、シャツの方入れなかったでしょう?」
気づかれていた。
「あ、はい・・」
どうしよう。もう一回乾燥してもらってもいいのだろうか。
「だったらその服で今日は帰りなよ。時間がある時に返しに来ればいいから。次はいつ来れるの?」
思いもしなかった発想だった。しばらく呆然としていたが、日時を聞かれていることに気づきはっとする。
「来週月曜の今日と同じ時間なら・・」
特別な理由はない。咄嗟に思いついた時間だった。
「分かった。じゃあそのとき君が落ちたガードレールの辺りで待ってるね」
「ガードレール・・」
それを聞いて、あの奇妙な体験を思い出してしまう。そういえば、確認することがあった。
「あの、携帯って充電しました?」
「うん。あそっか。はいこれ」
察して彼女は、携帯を取り出して見せてくれた。天気予報は、自分のそれと同じように、今後一週間は快晴を示していた。意識を取り戻した直後の不安が呼び戻される。咄嗟に玄関前に向かい靴を履く。
「あれ、どうしたの?」
「今日は色々とありがとうございました。もうおいとまします。長居されても困るでしょうし・・」
「・・・」
後ろ姿なので表情を確認できない。否定しないのは、やはり推測通り長居されては困ると言うことだろうか。
玄関扉に手をかけると、扉は思いのほか軽く、勢いよく開かれる。遠くの空が淡い橙色に近づいている。
「お邪魔しました」
「うん。じゃあまたね」
振り返ると、彼女は笑っていた。
迷わないように来た道を引き返して行く。借りてしまったtシャツと、短パンは、この季節にはまだ早いと思ったが、日の落ちかけた時間帯でも程よい涼しさを感じ、むしろ最適な服装に感じられた。しかしそれは、今日は雨が降っていなかったと裏付けているような気がした。
気づけば坂道にさしかかり、田園地帯に沿って崖を登っていく。やがてガードレールが切れている箇所を見つける。例の転落した場所だった。ガードレールを掴み、真下に流れる用水路を見つめる。今この状況が夢であって欲しかった。この崖下に落ちたのは本当で、今もまだ意識は昏倒したままでいて欲しかった。たとえそのまま、ずっと、目覚めなくてもいいから・・。用水路の、その奥底で沈んでいる自分の姿を想像した。いまの自分と、何が、違うというのだろうか。気づけばガードレールを掴む自分の手は、真っ白になっていた。思わず手を離す。その瞬間、ふと疑問が湧いた。どうして彼女はここを待ち合わせ場所に指定したのだろうか。一度考えると、根拠のない推測が浮かんでは消えて行き、不安を煽る。すぐさま胸に手を当てて深呼吸をする。これは自分の悪い癖だ。それからは思考を振り払うように早足になった。
家に着く頃には、あたりはすっかく暗くなっていた。玄関を開け、リビングに灯りがついているのを確認しそそくさと二階の自室へ向かう。自室に入ってすぐデスクに置いてあったノートpcの電源を入れ、タスクバーから天気予報を表示させる。五月二一日からの一週間の天気は何度見ても全て晴れマークだった。デスクチェアを引き寄せ、深く腰を下ろす。状況は確定した。今日、五月二一日は梅雨入りの日ではなかった。その事実を今はすんなり受け入れていることができた。
もちろん意識を失う前の出来事が夢だとは思わない。それだと、本来の出来事を覚えてない自分は記憶喪失となってしまう。なら並行世界にでもたどり着いてしまったとか。けど帰りに見た街並みは、行きのときとなんら変化なんてなかった。自室の状態も今朝家を出たときの記憶と一致している。pcの位置から、飲みかけのペットボトルの残量に至るまで。天候だけが変化する並行世界なんてありえない。バタフライ効果はもっと強力なはずだ・・。自分で考えておきながら馬鹿馬鹿しくなってきた。ふいに眠けに襲われ、倒れるようにベッドに突っ伏す。担任の言ったことは間違いだったのだろう。五月二十一日は、梅雨入りにはまだ早い。帰りに降った雨はにわか雨だろう。咄嗟に思いついた楽観的な結論は、意外にもあり得そうなだなと思った。しかし、それでも、心に染み付いた小さな不安が消えることはなかった。
狐と剣の王 @yuku-nawa
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