恋が分からない

海沈生物

第1話

「あ、そうだ。夏菜子! 実は〜……私に初めての恋人かれしができましたー!」


「……は?」


 なんでもない昼休み。いつものように、幼馴染の日野美代子と一緒に昼ご飯を食べていた時のことだ。私のお手製ミートボール弁当に対して「うまい、うまい」と言いながら食べる横顔を隣でニコニコ見ていると、不意にそのことを告白された。


 突然の剛速球に対応することができず、私はただ口をぽかんと開けた。手に持っていたフォークを地面に落とし、刺していたミートボールが地面に真っ赤な跡を作る。


「そんな驚かなくても良いじゃん! もしかして……私に恋してたりした?」


「それはない」


「えー! じゃあ、なんでそんな驚いているのよ。もしかして、私が一生恋愛と無縁人間だと思っていた? 独身子ども部屋おばさんになるとでも?」


「それは……まぁ……うん」 


「ひどーい! ……と言いたいところだけど、ごめん。私もそう思ってた。でも、これも神の采配ってやつかなー。日頃の善行が身を結んだ、ってやつ? Tik Tokでたまに流れる詐欺クソ広告的なアレが来たのかも」


 鼻を高くして自慢してくる美代子の一方、それをいつものように笑い飛ばすこともわざとらしく嬉しがってあげることも、私にはできなかった。それは心臓の奥に細長い針を挿し込まれたような、繊細だが苛烈な痛みに襲われるような、おぞましい告白だった。


「彼、身長の低い所が良くてさー」


「そうなんだ」


「でも、すぐにマイナスな思考に走って病……ゃうのがたまにキ……の」


「そう、なんだ」


「でもでも、ハン……落とし……拾っ……くれ……」


「……」


  彼女の声が段々と雑音になっていく。別に彼女に恋人ができたこと、それ自体に思うことはない。私は彼女の隣にいられるのなら、それだけで良いから。だったら、私はどうしてこんなにも苦しいのか。辛いのか。


 具体化できない感情の波が心の中を荒らし回り、世界の音が遠くなったように感じた。自分と世界カノジョの間に、耐え難い距離が生まれてしまったように感じた。だから、つい言ってしまった。


「それじゃあ、もうこんな風にはいられないね」


「……え?」


「私も、これからはあんま干渉しないようにするからさ。……うん。それが、それがきっと良いよ」


「何言ってるの? なんで私が誰かと付き合ったら、夏菜子が離れていくことになるの? 夏菜子が、夏菜子がいないと、私は」


「いくら同性でも、恋人がいるのならあんま親密すぎるのは良くないよ。それは彼氏さんに悪いし」


「そうじゃなくて! それだったら、私は」


「……もういいじゃん。恋人さんと幸せに」


「夏菜子!」


 正直、私がつまらない意地を張っているだけな気がしている。けれど、ダメだった。誰かと付き合うこと自体は別に良い。私は彼女と恋愛するつもりはないから。キスをしたい、行為をしたい、なんて思ったことはない。



 ただ、彼女の隣を自分以外の人間が占有している事実が耐えられなかった。



 彼女のとくべつが、誰かに奪われてしまう事実が耐えられなかった。



 その日から、私は美代子と話さなくなった。



# # #


 私と美代子のべったりぶりはクラスでも有名で、周囲の友人からとても「大丈夫?」「喧嘩したの?」と心配された。 その度、私の心はズキッと傷んだ。聞かれる度、古傷を掻っ捌かれたような気持ちになった。


『喧嘩してないよ』


『向こうに彼氏できたんじゃん? だから、あんまり邪魔したくないだけ』


 私が疲れた笑顔でそう言うと、大体の人は「そうなんだー」と少し不満げながら理解して引き下がってくれた。もちろん、これは嘘である。喧嘩はしたし、私が隣を奪われる事実に耐えられなかったから離れただけである。


 いっそ、この感情を誰かに打ち明けてしまえば良いと思うこともあった。ちゃんと言葉にすれば、心だって軽くなるはずだ。未来は明るいはずだ、と。だが、誰が分かってくれるだろうか。


『恋しているわけではないのだが、仲の良い相手の隣に他の誰かがいる事実に耐えられない。別れて欲しいわけでもないのだが、どうしたら良い?』


 こいつ何言ってるんだ、だるい悩みを打ち上げやがって、と思われるだけだろう。あるいは、この感情を「恋」であるとカテゴライズされるかもしれない。ちゃんとその本音を、「恋」している本音を相手に打ち上けなければならないと指摘されるかもしれない。そうしなければスッキリしない、後悔が残る、と言われるかもしれない。


 多分、これを「恋」とすれば全ては綺麗に片付くのだろう。なぜなら、恋はあらゆる矛盾に整合性を与えるものだから。恋であると断定することによって、世の中は感覚的にその矛盾を既知のものとして認識することができるから。


それでも、この感情をカテゴライズしたくなかった。既存の感情に当てはめることで安心したくなかった。別に恋を貶めたいわけではない。恋だって素晴らしいものなんだ、と思う。私にはよく分からないものだが。


 ただ、自分の感情を記号にしたくなかった。この苦しさの理由を「テンプレ」にして、言葉の金型に流し込みたくなかった。この曖昧で誰にも定義できない自分の感覚を大切にしたかった。だからもう、美代子のことは忘れよう。いつまでも執着していても仕方ない、と割り切ろうとした。


 だが、そんな時だった。放課後に通学路を一人で歩いていると、背後から何かが抱きついてきた。野良猫なのか野良犬なのかと警戒していたが、不意に鼻についた匂いで誰なのか理解した。


「もしかして……美代子?」


「あはは……正解」


「……どうしたの。彼氏と帰らなくて良いの?」


「あー……彼氏ね。実は昨日、別れちゃって」


「えっ」


 驚きのあまり、目が丸くなった。別れる。あれだけ仲良さそうだったのに。意外すぎて何も言えなくなった。そんな私の表情をよそにして、彼女は語る。


「彼氏……聡って言ったんだけど、本当にだるくて。一緒にデートへ行く度、一回は病むんだよ? しかも、私に対してお前には愛がないだのもう勝手にしろだの怒ってきてさ。お弁当も作ってくれないし。酷くない!?」


「……そうだね」


「でしょ!? なんとか一か月は耐えたんだけど、昨日の帰り道でさ。”お前は俺のことを見ていない、お前の瞳にはいつも別の誰かが映っている”って言われてさー。なんかうざくなって、別れちゃった」


  それから饒舌になった美代子は矢継ぎ早に聡という男の悪口を語り続けた。

 その姿はとても楽しそうで、内容は心底くだらないものだった。キスをしようとしたらニンニク臭いと避けられた、身長低いことを揶揄ったら腹パンされた、みたいなことを。


 ただ、私はそれだけで良かった。彼女のその愚痴を隣で聞く度、乾いていた心が満たされたように感じた。ただただ、幸福だった。


私は結局、日野美代子という存在が愛おしくて、大切で、手放すのが惜しいと思っていると再認識する。その癖に結婚しようが離婚しようが、心底どうでも良いとも思っている。


 ただ、こんな風に隣で笑顔を見せてくれたのなら、いつまでも旦那の愚痴を語ってくれたのなら、それだけで良い。ただ、私にだけ心を開いてくれたのなら、そのとくべつでいさせてくれたのなら、それだけで良いのだ。


 そんな曖昧な関係を求めているのだ。


「……やっぱ夏菜子だけだよ。私が一緒にいて安心する相手はさ。美味しい弁当を作ってくれたりこうやって愚痴を聞いてくれるのは、夏菜子だけだし」


「それは……嬉しいけど、ちょっと愛が重すぎるかな。私には」


「えー! そうかな。でも私、夏菜子が男だったら絶対付き合ってた自信あるよ? なんなら、女で……いやなんでもない」


「何?」


「なんでもない、なんでもない。夏菜子は愛が重いのが嫌なんだよねー。……そうなんだよね、うん」


「……あっ、やば。授業始まる。独り言ぶつぶつ女さんは置いて、先に行くからね」


「ちょっ、夏菜子ぉー! 置いてかないでよぉー!」


 美代子。日野美代子。それは私の人生を縛る呪いであり、私の人生を輝かせる祝福の言葉だ。彼女の元気で明るい声が、弁当を美味しそうに食べてくれる姿が、突然付き合ったり別れたりする意味不明さが、全てが愛おしい。けれど、これは恋ではない。そこに愛はあるけど、恋ではない。ただ、曖昧な感情だけがそこにあるのだ。

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