霧中

秋都 鮭丸

1

 行きつけのスーパーまで、と油断した。見慣れた道を辿るだけ。ほんの数分、歩くだけ。甘い考えの過去の私に、正座で説教を喰らわせたい。そう思うほどの濃い霧が、私達を飲み込んでいた。

 視界は半径5メートル程度だろうか。それより先は白く霞み、幾重に重なり見えなくなる。鈍色の空と同化して、雲が当たりを囲んだような、不思議な感覚に襲われる。私達が半歩足を進めれば、視界も同期し半歩進む。振り返れば、来た道は再び白く覆われる。世界から切り離されたように、半径5メートルだけが色を持つ。

 昔遊んだRPGで洞窟系ダンジョンに入ったときのことを思い出した。プレイしているキャラクターの周囲数歩分だけが見えている、あの状態。今にして思えば、なんて正確な描写だろうか。私はいらぬ感心を覚えた。

「これは大冒険の気分だねぇ」

 右も左も霧に閉ざされた世界の中で、彼女の目だけはキラキラと輝いていた。

「スーパーに行くのに、大冒険していたら身がもたんなぁ」

「そう? 日常にこそ刺激が必要じゃない?」

「迷子になりそうな刺激は、スーパーにはいらないのよ」

「君と一緒なら、迷子になるのも悪くないねぇ」

「そんなこと言ったって、無駄なものは買わないぞ」

 バレたか、と舌を出し、彼女は悪戯に笑った。


 無事にスーパーにたどり着き、あらかたの買い物を済ませた。余分な菓子類をかごに突っ込まれた気がしたが、まぁ今日くらいは大目にみてやろう。不思議と気分は悪くない。

 スーパーを出て、帰路につく。相変わらずの濃い霧が、世界と私達を切り離す。

「大冒険は、家に帰るまで!」

 二つに分けた買い物袋の片方を持ち、彼女は突然駆け出した。

 半径5メートルの世界の境界まで、あっという間に彼女は迫る。白いモヤが彼女にかかり始めた頃に、私は慌てて後を追った。

 丸く開かれた世界を、見慣れた道が舐めるように流れていく。白い霞みが時々漏れて、私の頭のそばを掠める。時々後ろを気にしながら、彼女はパタパタ駆けていく。霧を、道を、未来を切り開くように、私の前を駆けていく。

「見失わないでよ?」

 そう言われているような気がした。


 そのうち疲れて失速する。私は彼女に追いついて、横に並んでゆっくり歩く。乱れた呼吸を整えて、霧が変わらず辺りを包む。ひんやりした空気が肺に満たされ、それが意外に心地よい。

「家まで駆け抜けるのは、流石に無理だぁ」

「そこまで近くないさ。なんせ、大冒険だからね」

 私の言葉に、彼女はやはり、ニヤリと笑った。

 先の見えない悪天候だろうと、苦難困難の悪路だろうと、時間はどうせ止まらない。止まらないなら楽しむべし、と見方を変える彼女の視点が、私の行く先を照らしてくれる。だから私は彼女から、きっと一生目を離せない。

 こんなことを教えたら、いくつの菓子類をかごに放り込まれるかわからない。だから教えてやらないけれど、私はずっと彼女に夢中。我ながら、ずいぶん月並みな表現だが、他に言葉も見当たらない。

 どんな霧の中だろうと、彼女だけは見失わないように。私の目にも、いくらか光が増した気がした。

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霧中 秋都 鮭丸 @sakemaru

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