酔何

美澄 そら

第1話


 もう何度目のやり取りなのだろうか。


 リビングの床には粉々に割れた陶器の皿。

 目を背けて、天井の角へと視線を送る形の綺麗なその後頭部。

 夕陽が小窓から射し込んで、わたしの右側を照らす。

 

「ねぇ、やめてって言ったよね」


 つい語感がきつくなる。

 感情が火の中で喘ぐ鍋の中の様に、煮立って溢れる。

 彼が小さく、「ごめん」と呟いて、自室へと姿を消した。

 明日になれば、今日のこともまるで無かったかのような顔で「おはよう」と言って、ニュースでも見ながら話題を振ってくるのだろう。

 わたしは力尽きてぺたりと地面に座り込むと、割れた皿の小さな破片を一つずつ集めて、大きな破片の上に乗せていった。


 


 初めて出会った合コンでは、お互い連絡先すら交換しなかった。

 二回目、偶然、外回り中にお昼を取ることになって、町の中華屋に入ったときに彼が居た。

 店に入って、すぐ、「あれ、佐藤さんじゃん」と声をかけられた。

「あ……えっと」

高相たかそう。覚えてない? 先月、森山もりやま主催の合コンでさ――」


 こんな人いたっけ。高相 まなぶは、そのくらいパッとしない容姿だった。

 度のキツい眼鏡は、輪郭からはみ出た部分から、向こうの景色が小さく見えて、ワイシャツに関しては、クリーニングに出して、畳まれてきたのをそのまま着たのがわかるほど、横に直線の皺が入っている。

 キツめのパーマは前の方が長く、耳にふんわりと掛かっている。

 本人はおしゃれにしているつもりだろうけど、客観的にあまり似合っていないと思う。

 顔は二重のどんぐり眼が幼く見えるけれど、うっすらと残る青ひげの跡が同じ顔の枠内にあってアンバランスに感じた。

 わたしは軽く会釈して、「どーも」と遠めの席に腰を下ろす。そこに彼はずかずかと踏み込んできて、「一人なら一緒に食べん?」と馴れ馴れしく声を掛けてきた。

 

「……いいですけど」


 がっつりと三品もおかずの乗ったA定食を頼んだわたしと反対に、学の前には紹興酒と餃子だけが並ぶ。

「昼間から飲みって正気ですか」

「いやぁ、夜勤明けでね。佐藤さんは昼休憩っすよね、お疲れ様です!」

 汗をかいた水のグラスに、紹興酒の小さなグラスが当たり、風鈴のような涼やかな音を立てる。

 なんだか厄介な男と知り合ってしまったなぁと思いながら、ご飯を口に入れると学の目とかち合った。

 その目がなんだか、愛しいものを見るような温かさを持っているように見えて、思わず視線を逸らす。

「佐藤さんさ……たまに一緒にご飯食べん?」

「え?」

「おれ、メシ美味そうに食べる人、好きなんだよね」

 彼は紹興酒をくっと煽って、口を大きく開けて餃子を含む。

 学の仕草に思わず、喉を鳴らしてしまった。

「……わたしも」

 

 それから、関係が深くなるのにそう時間がかからなかった。

 

 食事に行くこと三回目。

 そのまま、わたしの家に学を呼ぶと、男女の関係になって、ずるずるとお互いの認識で付き合ってることになった。

 はっきり言えばよかったのかな、なんて、後の祭りだ。

 学の家に行ったことが無くて、夜を過ごすのはわたしの部屋かホテル。

 何も知らないならそのままがよかったのかもしれない。

 出会ってから一年経った頃、ふわっと同棲をするかという話になった。

「あー……うん、そうねー」

 渋ったのは学のほうで、わたしは思わず「え?」と聞き返した。

 その頃には、学がわたしの部屋に泊まる日が週に三日となっていたので、いっそこの部屋に住めばいい、と戯言のように軽く伝えた。

 重く受け止められたのだろうかと思って、フォローしようと言葉を探していると、「実はさ」と学が口火を切った。

「おれさ、あの部屋捨てられないんだ」

「捨てられない?」

「……こういうの、こういう関係になる前に言うべきだったと思うんだけどさ」

 黒くてドロドロとした嫌な予感が、渦を巻くように脳内をかけ巡る。

 

「ずっと、待ってる人がいるんだ」


 俯いた学の後頭部が綺麗だった。すっとした首筋の上に乗る、丸い頭。

 学の待っている人は、前の彼女だった。

 学を置いて、「いってきます」と言ったきり、彼女はその部屋に戻ることがなかった。

 話を聞いて、行方不明になったのかと思ったがそうではないらしい。

「他にさ、男が居たんだよね。捨てられちゃったのはわかってるんだ」

 学の顔を見たくて、しゃがみこむ。

 迷子の子どもみたいなくしゃくしゃした顔と、虚ろな目。

「でもさ、おかえりなさいって言えなかったのが、ずっと、ずっと残ってて……」

 膝の上で力強く握られた拳の上に、手を重ねる。

「もう、話さなくて大丈夫だよ。ね」

 今にも泣き出しそうな学を抱き締めて、赤子を寝かすように肩を優しく叩く。

 きっと、いつか忘れられる。

 学を信じて、その上で、その感情を受け入れることを決めた。

 そうして、念願だった学との同棲が始まった。


 けれど、受け入れることを決めたはずだったのに、一年一年と季節が巡っていくと、学の感情がいつまでも彼女に引きずられていることに焦りと苛立ちを覚えるようになった。

 学がわたしと彼女を重ねているのだと気付いてしまってからは、尚の事。


 もう、同棲も五年目か。

 割れた皿の欠片を集め終えた頃、暗くなってしまったリビングの電灯を学が点けた。

「ごめん。怪我、してない?」

 いつか、あなたの目に“わたし”が映ることはあるんだろうか。

 抱き寄せられて、その肩に顔を埋めていると、その温もりにこの人しかいないと思い知らされる。

 

「……ううん。わたしこそ、ごめんね」


 窓に反射して映る、わたしの左顔はどこか恍惚として見えた。



 おわり。 

 

  

 

  

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酔何 美澄 そら @sora_msm

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