後編 自戒

 青年は一人立ち尽くしていた。いつの間にか傘は落ちていて、頭や肩が雪で濡れていた。スニーカーには雪が染み込んでいて、足先の感覚は既に無かった。最早寒さなんて感じてはいなかったが、体がガタガタと震えているのは分かった。

 積もった雪を払い落とす事もせず無意識に震える手を煙草に伸ばし、口に咥える。一度落としそうになり、慌てて煙草を抑えた。火を付けようとするもライターの火がうまく灯らなかった。カチカチという音がライターの音なのか自分の歯の音なのかも分からない。無表情のまま青年が続けているとようやく火が灯り、煙草の先に火が移る。薬物中毒者のように慌てて煙を吸い、流れるように吐いた。紫煙が体を満たすのを感じ、思考が鈍るのが分かった。

 不意に風向きが変わり、鼻がツンと痛む。同時に煙が目に染みた。にじむ視界に何が映っているのか、青年には理解出来なかった。頭と腕が急激に重くなり、思わず地面に手を付いた。雪の冷たさに手が痛む。膝も気持ち悪いくらい濡れていた。雪の塊をつかみながらよろよろと立ち上がる。雪に濡れた煙草はもう糸程の煙も上げてはいなかった。


 青年はどこへ行くでもなく千鳥足で歩みを進めた。かつて彼女と並んで歩いた道だった。当時彼女は何を考えて隣を歩いていたのだろう。煙がかった頭で思考する。「別に待ってなくていいのに」そう言っていた彼女の顔に靄がかかったように何も思い出せなくなっていた。

 楽しかった記憶は消え去り、喧嘩をした日の思い出が蘇る。確か彼女の方から言い始めたのだ。原因は青年の束縛が激しかった事だっただろうか。『クラスの男子と話す事すら禁止されるのがウザい』と言われたように記憶している。当時は「そんな事してないだろ」などと反論したはずだが、彼女のあの言いぶりを見るに相当酷かったのだろうと青年はぼんやりと理解した。


 どこに向かうのか決めてすらいなかったのに、力の入らぬまま進む足はいつの間にか見知ったコンビニに向かっていた。強風が吹きつけたのだろう、店の看板は雪で覆われて見えなくなっていた。街灯すら雪でほとんど意味を成さない中で、店内から漏れる明かりだけが朧気に辺りを照らしていた。

 ふと青年がポケットからスマホを取り出すと、七件の不在着信が入っていた。全て坂井からだった。もう駅に着いていたのだろうか。折角来てくれたのに悪い事をしたなと青年が反省していると、丁度八件目の着信が届いた。青年はよろよろとスマホを耳に当てる。


「……もしもし」

『やっと出た! おい、今どこにいるんだよ!』


 声の感じから相当慌てている様子だった。電話の向こうから風を切る音が聞こえる。


「コンビニ」

『何だよコンビニかよ……電話くらい出ろよな。駅にもいないし、マジで心配したわ』

「……アイツに会った」


 青年の告白に、坂井は息を呑んだ。きっちり三十秒の沈黙が続いた。名前も言っていないのに「アイツ」だけで伝わったことに、青年は何故だか頭の奥深くが鈍く痛むのを覚えた。もう風の音は聞こえていなかった。


『……後で話聞いてやるから、コーヒーでも飲んで待ってな』


 坂井の言葉に、おう、と端的に答えて電話を切った。コーヒーを買おうとは思わなかった。青年は辛うじて雪を防げるだけの屋根の下にとどまった。

程なくして駐車場に車が止まり、坂井が降りてきた。店の外に立ち尽くす青年を見つけると、早足で駆け寄った。


「何で外にいるんだよ」


 困ったように眉を下げる坂井の問いに青年は何も答えなかった。青年は坂井のつま先辺りをぼんやりと見ていた。雪は積もっても染みてもおらず、綺麗な靴だった。坂井は青年の様子を確認すると、静かに溜息を吐いた。


「何か買ってくるから、先に車乗ってな」

「……わかった」


 青年は力なく答え、青年は車に向かった。青年は助手席のドアノブに手をかけたが、手が滑り開かない。思わずドアを蹴ってしまいそうな衝動に駆られるが、坂井の車だという事を思い出し何とか踏みとどまった。苦労しながらもドアを開け車内に入る。途端に暖房が青年の身体を包み、手のひらが痺れてきた。そこで青年は初めて寒かった事に気が付いた。フロントガラスから外を覗くと、坂井は既に店内に入っていたようだった。

 キュッ、キュッ、と甲高い耳障りな音と共にワイパーが一定の速度で動くのをじっと見ていた。程なくして坂井は二本の缶コーヒーを抱えて店内から出てきた。器用にドアを開け、車内に体を潜り込ませると、ふうと一息ついた。


「いやー寒いな。ほらこれ、お前の分。ブラックでよかったよな?」


 差し出されたコーヒーを受け取り、ありがと、と答えた。暖房の音にさえかき消されそうな声だった。プルタブを開けようと試みるが、痺れた手ではプルタブの上を滑るだけだった。何度か試した後、諦めて手のひらを温めるだけにした青年の横で、坂井はプルタブを開け自分のコーヒーに口を付けた。


「会ったんだって?」

「……会ったよ」


 二人とも口が重たかった。話したくなかったのは共通の思いだった。それでも話さねばならないことを二人とも理解していた。


「どうだった、久々に再開した元カノは」

「ボロクソに言われたよ。どうしようもないくらいに」

「だろうな」


 坂井は笑った。何がおかしいのか分からなかったが、それを聞く力は青年には残っていなかった。思わず青年も乾いた笑いをこぼす。


「……俺、そんなにクズだったかな?」


 青年の問いに坂井は「どうだろうな」と天井を見上げた。


「まあ、それなりにクズだったと思うよ。俺も聞いた時は、思わずお前を嫌いになりそうになってた」

「聞いてたのか」

「相談される形でね。一応俺も二人を付き合わせた責任があるんじゃないかって思って、いろいろ頑張ってたんだぜ?」


 どうせ知らないだろうけどな。冗談めかして笑う坂井に青年は頭を掻いた。坂井の言う通り何も知らなかった。恋人の事だけを考えているふりをして、自分の事だけしか考えていなかったのだろう。今になってようやく理解出来た。無性に煙草が吸いたくなった。


「よく嫌いにならなかったな」

「まあ高校生ってそんなもんだろ。実際俺も昔はそう変わらなかったと思うよ」


 大人だな。青年は坂井を尊敬した。きっと坂井は昔も今もそんな人間ではない。それは彼も自覚していただろう。それでも坂井が自虐するのは、青年を思ってのことに違いなかった。青年は罪悪感に似た感情を抱えた。


「悪かったな、いろいろ気を使わせてたみたいで」

「別にいいよ。今思い返せばきっと若気の至りってやつだったんだろうなってわかるから」


 若気の至りね。青年は心の中で反芻した。青年にとってそれは随分と心地が良すぎる言葉のように思えた。


「さっきあれだけ言われたってことは、まだ引きずってるんだろうな」


 自嘲気味な青年の呟きに坂井は何も答えず、代わりに顔をしかめた。坂井がコーヒーを飲み干すのを横目に見ながら、青年はようやく缶コーヒーを開け一口飲む。もうだいぶぬるかった。青年の身体はもう随分と温まっていた。


「そろそろ行くか?」


 坂井が尋ねる。青年は窓の外に目を向けた。分厚い雲が空を覆ってはいたが、降りやまないと思われていた雪はいつの間にか止んでいた。青年は坂井の問いかけに首を横に振った。


「やっぱ歩いて帰るわ」


 青年の言葉に坂井は呆気に取られたようだった。当然の反応だと青年は思った。雪が止んだとはいえ、地面に深く積もった雪が溶けたわけではない。都会者のスニーカーでは歩くこともままならないだろう。

 そんなことはわかっていた。その上で、坂井が何か言う前に青年は助手席のドアを開けた。


「コーヒー飲んだら一服したくなったんだよ。せっかく来てもらったのに悪いな」

「いや、まあ、別にいいけど……」


 坂井は諦めたように笑い、「ほどほどにな」と言った。青年がドアを閉めると坂井は軽く手を上げ、車を出した。

 走り去る車を見ながら青年はコーヒーを呷った。いつも飲んでいるのと同じ物のはずなのにいつもより苦味が強く感じた。飲めたもんじゃないな。青年は缶をゴミ箱に投げ入れ、代わりに煙草に火を付けた。ニコチンで頭に靄がかかる。不思議と気分が良くなった。

 根元まで燃えた吸い殻を灰皿に捨てる。立ち去ろうとした足を止め、ポケットに入れた煙草の箱に手を触れた。このまま箱ごと捨ててしまおうか。そう考えかけ、すぐにやめた。まだ半分程残っているのが勿体なかった。

 青年はコンビニを後にした。もう地元に戻ってくる事はないだろう。何となくそう確信していた。どこか遠くで発車のベルが聞こえた気がした。

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キャスター5mg 佐藤海月丸 @plocamia

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