中編 再会
あまりに聞き馴染みのある声だった。煙草を咥えている事も忘れて青年は思わず息を呑む。煙草の煙が勢いよく肺に入り、思いっきりむせた。ゲホッゲホッと咳き込む度、喉を爪で深く引っ搔いたような痛みに襲われる。まだ三分の一程しか吸っていなかったはずの煙草はいつの間にか指の間を滑り落ち、降り積もった雪の中に消えていた。
咳き込む間、彼女はずっとその場で青年を見下ろしていた。人形のようにピクリとも動かない彼女の傘には雪が積もっていった。すぐにでもここから走り去ってしまいたかったのに、青年の足は重りでも付けられたかのように逃げ出すことを許さなかった。
ようやく落ち着きを取り戻した青年は、呼吸を整えながら肩に積もった雪を払い落とした。そこで始めて傘を落としていた事に気付き、拾い上げる。涙で滲んだ青年の目に映った彼女は、彼の記憶の姿より少しばかり大人びたように見えた。
「ひ、久しぶり」
不自然に喉を震わせて声を絞り出した。頬が痙攣を起こしたように引き攣る。彼女は特に気にした様子もなく淡々と「お久しぶりです」とだけ答えた。目線が合う事は無く、彼女の視線は青年のつま先辺りに向いていた。何を考えているのかは分からなかったが、少なくとも青年の靴に興味がある訳ではなさそうだった。
深々と雪だけが降り続く。息が詰まるような沈黙が続いた。雪が音を吸収してしまうから冬は静かなのだと、昔誰かから聞いたのを青年は思い出した。何か話をしようかと口を開きかけたが会話の種は思いつかず、餌を待つ金魚のように口をパクパクとさせただけだった。
「……とりあえず、中に入るか?」
先程まで牡丹雪だった雪はいつの間にか勢いを増して、傘を持つ手が重みで滑りそうになっていた。強風で乱れる髪を彼女が抑える。風や雪に比例して寒さも増していた。彼女を気遣う素振りを見せつつ、都合の良い言い訳を思いついたと青年はほくそ笑んでいた。
「大丈夫です。長居するつもりはないので」
彼女の目的地がどこなのかは知らないが、上りだろうと下りだろうと次の電車まで一時間以上ある事を青年は知っていた。雪の影響もあってもっと遅れるかもしれない。なら慌てる必要はないんじゃないのか。そう言いかけた口を慌てて抑えた。そんな言葉が余計なお世話である事は重々承知していた。
「そういえば、もう帰ってたんだな」
雪で濡れた彼女の傍らのキャリーバッグを見ながら尋ねる。それくらいしか会話の種が思いつかなかった。うまく舌が回らなかったが、それは寒さのせいにしたかった。
「先週くらいに帰ってきました。丁度これから戻るところです」
彼女は視線の位置をそのままに答えた。もう少し風が強ければ聞き取れなかったかもしれなかった。
「先輩も帰ってたんですね」
「ほんの今帰ってきたところ。本当は年末に帰りたかったんだけど、ちょっと向こうでゴタゴタしててさ」
義務的な問いかけに何でもないように笑って返す。本当はただ人込みを避けたくて日付をずらしただけだった。何があったんですかなんて聞き返してほしかったが為の嘘だった。青年の思惑通りにはいかず、彼女はただ「そうですか」と述べるだけに終わった。何か喋らねば、と焦燥感に駆られる。
「今何してるんだ?」
「大学の教育学部で勉強してます」
「教師目指してるんだっけ?」
「まあ、そんなところです」
「へえ、すごいな」
「別に普通ですよ」
「いやすごいよ。俺なんてもう二年生なのに全然将来とか考えてなくて」
段々と息が上がっていく。酸欠で頭が回らなくなってきた。青年にはこれを会話と呼べるのか分からなかった。それどころか何を話せばよいのかすら分からなくなっていた。ただ青年の頭は「何とか会話を続けなければ」という一心のみが埋め尽くしていた。耐え切れず青年が明後日の方に視線を向けると、遠くの道路で車がスリップして動けなくなっているのが見えた。
「それにしても雪すごいな。上京する前にもこん──」
「あの、もういいですよ」
──こんなに降ってたっけ、という続きの言葉を彼女が遮った。「えっ、何が」零れ落ちるような青年の言葉を彼女が必死に掬い上げるような素振りは無く、淡々と「だから、もういいです」と繰り返した。
「別に気を使ってくれなくて大丈夫です。先輩が変わったのは十分わかりましたから」
彼女が何を言っているのか青年には全く分からなかった。別に彼女に気を使っていたつもりは全くなかったし、自分の何が変わったのかもわからなかった。当然ながら彼女がどうして苛立ちを宿した目をこちらに向けているのか皆目見当がつかなかった。
「別に、だからと言って先輩とよりを戻そうとは思えないですけど。まあいいんじゃないですか」
「……は? ま、待ってくれよ」
続けざまに投げられる言葉に青年の頭が追い付かなかった。頬が引き攣り歪な笑みが生まれる。彼女はいぶかし気に眉をひそめた。その顔をしたいのは俺の方だよ、と青年は言いたかった。乱れた呼吸を整えようとする。かひゅ、と変な音が漏れた。
「え、俺達が別れたのって自然消滅だよな……? 俺が大学に進学して、関わりが少なくなっていったとか、そういう……」
「……何言ってるんですか」
あまりに冷たい一言だった。青年は脊髄に氷の塊でも差し込まれたかのような気分になる。目の前が真っ白に見えるのは雪のせいではない事を理解出来なかった。彼女は青年の言葉をようやく嚙み砕いたのか、鉛のような溜息を吐いた。
「やっぱり何も変わってないんですね。残念です」
大層つまらならなそうな目を青年に向ける。彼女には怒りと失望を隠そうという意思すらないように見えた。駅の屋根に降り積もった雪が鈍い音を立てて滑り落ちたのがどこか遠くの事のように聞こえた。
「今だから言いますけど、友達に何度も言われてたんです。『あんなやつとは別れた方がいいよ』って。実際私も何度も別れを切り出そうと思いましたし」
あんなやつ、が誰なのかなんて明白だった。それでも青年はどこか他人事のように聞いていた。耳鳴りが止まなかった。
もういいですか。その問いかけに青年は声を上げるどころか首を動かす事すら出来なかった。全身が固まってしまったかのようだった。何でそう思っていたのか。俺の何がいけなかったのか。聞きたい事は山ほどあったが、青年の口は動いてくれなかった。
最初から青年の返答なんて期待してはいなかったのか、彼女はキャリーバッグを引きずりながら駅に向かった。雪の上を一定の速度で歩き青年の横を通り過ぎる直前、不意に彼女は立ち止まった。彼女の目は青年のポケットからはみ出た煙草の箱に向いていた。
「そういえば先輩、煙草吸ってるんですね」
「……あ、ああ。まあ、たま、に」
今更そんなことを言って何になるのか。そう聞き返してやりたかったが、凍り付いてしまったかのように口を動かす事が出来なかった。彼女は初めて青年の顔を見て、目を合わせた。
「大人なんですね。羨ましいです」
彼女が笑った。今日出会ってから初めての笑顔だった。ガコンッ。錆びついていた青年の頭が音を立てて動き始める。青年の記憶の中で彼女はいつも今と同じ笑顔を向けていたのをようやく思い出した。
それじゃあ、さようなら。彼女は駅の中に入っていった。
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