第15話

  ◇


 まだ強く残る暑さの正体はその温度以上に、この夏を通してひたすら温められた事々のあらゆる余韻と、暑さに対して自分がかくのと同じように、この世界そのものが流した汗の湿りなのだと、まだまだ真っ青な夏空をまた見上げてみて思う。8月が別れを告げて、一先ず自分にぽっかりと開いた筈の夏の休暇を、まるで嘘だったみたいに9月が手を振ってやってきたのだった。

 万年補習組から抜け出した事で半分も伸びた夏休みが自分に与えたものは、最早自分の日常であった筈のこの教室風景すら、全く新しいものとの出会いのように味わわせてくれた新鮮さ。ニスとペンキで深く厚塗りされた太い木の躯体柱は、荘厳な雰囲気の中に賑やかしさの予感を感じさせながらも、その朝一番乗りの自分を静かに迎え入れてくれた。

 1人で物思いに耽るのも悪くない。

 そんな束の間の静寂は呆気なく、教室のガタガタな扉が嵌め込んだガラスを震わせる音で終わりを告げた。


 「あっ、早い!おはようアンリ君!」

 「おはよう雛実。お前も相変わらず早いじゃないか。」

 「ふふ、こういうのは初めが肝心なの。初日に遅いと癖になっちゃうでしょ。」

 「たしかに。」

 「夏休みどうだった?」

 「楽しかったよ。雛実は?」

 「私も楽しかった!色んな事遊んだよ。」

 「へぇ。どんな事?」

 「う~んとねぇ、お店の手伝いもしたから旅行とかは無かったんだけど、少し遠くの公園に行ったり、水族館行ったり、あとは野球部の大会とか見に行った!」

 「野球部って、ウチの野球部?」

 「そうそう、夏の地区大会があったの。」

 「へぇ、知らなかった。」

 「凄く盛り上がったのよ~!」

 「はは~ん。それで、そんなに立派な日焼け肌してるってワケか。」

 「もう!アンリ君は夏休み中も何度か会ってるでしょ!」

 夏休みを機に北野を見ていなかった生徒なら、きっとこの見事な小麦色の彼女を見て腰を抜かすだろう。普段から快闊な性格ではあれど、優等生で色白な印象の彼女は、すっかりこの夏で様を変えてしまったのだから。


 「でも、今までの夏休みを思い返しても、雛実がそんなに日焼けしたのって見た事ない気がする。」

 「まぁ、確かに・・・そうかもね。」

 「本当にいっぱい遊んだんだな。」

 「うん。いっぱい、遊んだ。」

 「宿題をさっさと終わらせて思いっきり夏休みを満喫する・・・考えただけでも最高だろうな~!」

 「うん。楽しかったよ。」

 「・・・公園に、水族館に、スポーツ大会の観戦か、なんか、デートにピッタリだろうなぁ。」

 「ほうほう、アンリ君から意外な言葉が聞こえたぞ?アンリ君にもそんな色恋話をする時があるんだ?」

 「・・・まぁな。」


 机にもたれて言葉を漏らしていたのに、なぜかふと、また教室の静寂が意識された。なぜだか分からなかったけれど、折角生徒の会話の声を1月ぶりに吸収し響かせている筈の教室の壁が、不意にその余韻を一瞬残してから、教室に再び夜明けの街並みのような眠る地平の涼しさを取り戻したようだった。


 「・・・雛実になら話してもいいか。俺、この夏好きな人ができたんだよ。」

 「・・・そうだったんだ。」

 「確かに!1学期の俺が今みたいな、デート、だなんて言ったら、皆驚くかもな!ハハ。」

 「ううん。私は良い事だと思うよ。」

 「雛実はそう言うけど俺は!・・・雛実?」


 なぜ彼女の笑顔が今だけ自分に刺さったのか、捉えた視界が彼女のその表情を見入ってしまったのか。まるで意識された静寂の延長でもあるように、正に静かに作られた彼女の、美しく結ばれた唇の境界線の奥に、まるで今にも落としそうな言葉を必死に抱えているような、そんな表情に見えてしまったのだから。そんな表情の機微に気付くことができたのも、やはり彼女の小麦肌のように、この夏に変えられてしまった自分だからなのかもしれないと思った。


 「楽しいよ!アンリ君も絶対!行ったらいいよ。」

 「あぁ、そうしてみる。ありがとうな、雛実。」

 「うん!」

 「・・・なんか今、雛実が凄く大人っぽく見えた。」

 「えぇ?いつもと変わんないと思うけどな。」

 「いや、そうなんだけど、なんとなく。」

 「ふ~ん。私も漂わせちゃってるかな!大人の色気ってヤツ!」

 「・・・いや、きっと俺の勘違いだったな。お前は1学期にも増して賑やかになった!」

 「な、なにを~!」

 以前、蘭さんに雛実との関係を恋人だと勘違いされたのを思い出す。確かに、自分にとって雛実は善きクラスメイトで、いやそれ以上に、自分でも気付かない間にすっかり気心の知れた愉快な友達だったのだろう。あの長いようで短いような、いや凄く凄く長かった夏休みのおかげで忘れていた、平凡だけど特別な日常がまた、ひょっこりと戻ってきてしまった事を、変わらぬ眩しい笑顔が教えてくれる。

 「ねぇ、アンリ君。」

 「なんだ雛実。俺は始業式まで少し寝たいんだ。手短に頼む。」

 久し振りの早起きはやはり少しの眠気を払いきれなかったようで、机に腕枕を敷いて顎を落とすと、たちまち間の抜けた欠伸がこじ開けられた口から漏れ出た。




  ◇


 「私も、夏休みに付き合い始めた人いるの。」


 「・・・やっぱり、水族館とか大会とかってのは、そういうことだったか。」

 「うん。楽しい事、いっぱいしたんだから。」

 楽しい事、楽しい事、タノシイコト。いっぱい。いっぱい、いっぱい。

 「・・・そうかぁ。お互い、1ヶ月会わないと色々あるなぁ・・・。」

 やっぱり、したのかなぁ。好きな人、と。

 「うん、色々あるよ。やっぱり、人間だもの。」

 「・・・どうやって知り合ったんだ?」

 「あ~。詮索しないんだ~。私も聞きたいの我慢してるのに~。」

 「そうだよな。ゴメンゴメン。忘れてくれ。」

 「・・・ねぇ、ちょっと耳貸して。」

 「えぇ!?いいのか!?なんだ・・・。」

 「・・・ひみつ。」

 こんな至近距離で目を合わせるのだって、こうして落ち着き払っていられるのだって、きっと夏休み前は恥ずかしくてできなかっただろう。

 「・・・意地悪。」

 「えへへ・・・。ゴメンゴメン。でもさ・・・」

 「でも?」


 「内緒話って、楽しいでしょ。」




  ◇


 「・・・。ハァ・・・やっぱり俺は雛実様には敵いませんよ。」

 「1ヶ月も空けば、人なんて変わるよ。」

 「そうだな。変わるさ。何でもな。」


 廊下の奥、階段の方から少しずつ音量を増している生徒たちの喧噪は、時計の針を見れば、順当な朝の風景が再びこの学校に戻って来た事をやっと教室に報せ始めてきた。

 「そろそろ皆登校してくるね。」

 「あぁ。」

 「アンリ君、明日からまた朝の数学予習は再開する?」

 「あぁ、そういえば。雛実の方こそ、付き合ってくれるのか?」

 「いいよ。どうせ早登校するんだから。」

 「じゃ、2学期もお願いします。北野先生。」

 「うむ!今学期からは更にビシバシやるから、覚悟するように。」

 「ハハ。お手柔らかに。」

 「ふふ。よろしくね!」


 ・・・そうだ、俺は、雛実のこういう笑顔が好きなんだった。パッと明るくて、フワっとしてて、こう、優しいのに芯は強いというか、安心して寄り掛かれるような、寄り掛かってみたくなるような、でも、そんな我儘な俺を、それでも優しく包んでくれるような、真っ直ぐなこの女の子の楽し気な笑顔が、ずっと、自分でも気付かないくらい前から、見ていたかったんだな。なんで今思い出したんだろうか。やっぱり夏休みという長すぎる暇がこういうちょっとしたモノのありがたみを増幅させて・・・。・・・夏休み?俺がこの笑顔に惹かれたのは、数学の予習を始めた頃、いやそのさらに前だった。思えば北野に朝の数学指導を頼んだのだって、考えて見れば、なんとなく、北野に教えてもらえるならこの勉強不精を治したっていいやと思えたからだった。いや、よく考えれば、そんな事も、日頃の自分がよくやる後付けの屁理屈で、結局俺はずっと、いつか見た雛実のこの笑顔を、ずっと・・・


 ずっと。


 ずっと。


 ずっと。


 ・・・俺は、


 「・・・あっ。」




  ◇


 「蘭さん。ひとつ、聞いていいですか。」

 「なぁに。アンリ君。」

 馬鹿みたいに暑い、熱い、四畳半の畳の真ん中、2枚敷かれた布団の上で3人並んで夏の午後に打ちのめされていた。そんな薄暗がりに射す真っ黄色の日射しの色が、嘘みたいに網膜に焼き付く。

 「なんで、月草だったんですか。」

 「・・・私、あの花が好きなの。」

 「綺麗な花だと思いました。」

 「ふふ、綺麗よね。でも、私が好きなのは見た目じゃないの。」

 「じゃあ、なんなんです?」

 「あんなに綺麗なのに、朝に咲いたら夜には萎んでしまう。あんなに美しい青色なのに、染めてもすぐに色落ちしちゃう。」

 「それは・・・」

 「萎んだ花をね、見下ろすとね、心がシン、って、なるの。あんなに綺麗なのに、綺麗だから、この手から滑り落ちてしまうの。」

 「・・・すいません、なんだかいまいち、分からなくて。」

 「ふふ。いいのよ、それで。アンリ君。」

 「はい。」

 「私たちは、幸せは、儚いのよ。」

 「うん・・・」

 「あなたもそのうち分かるわ。」

 「そうですかね・・・。」

 「えぇ。わかりますとも。だって・・・」

 「だって?」

 「あなたを初めて見た時、すぐ分かったわ。あなたは、あの時の、私と同じ顔をしてたんですもの。」

 「あの時?」

 「そう。あの時と同じ―――」




  ◇


 「雛実!」

 「わっ!びっくりした!何よいきなり、アンリ君。」

 「あっ!ゴメン・・・。でも、えっと・・・俺・・・。」

 「おれ・・・?」

 「あっ、いや・・・、ゴメン、やっぱ何でもない!」

 「・・・ほんとに?」


 「・・・じ、じゃ、じゃあさ!・・・ひとつだけ、・・・ある。」

 「うん。なぁに?」



 「お、俺・・・その・・・。雛実の、そ、そういう笑顔が・・・す・・・す・・・。・・・。・・・好きだな、ってさ。」



 「・・・もう。言うの遅いよ。夏、終わっちゃったじゃん。」


 「ご、ごめん!なんか、今気付いた、っていうかっ!」



 「・・・ふふ。あ~んりくん!」



 「な、な、なんだよ。」




 「ふふ。・・・ごめんね。」




  ◇


 こうして俺は、初めての失恋をした。


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茜坂月草艶聞帳 九三郎(ここのつさぶろう) @saburokokonotsu

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