『天使のスクリーン』

@kitamitio

第1話

                                          

20xx年1月

 地球上の各国では新年の行事がそれぞれの国独自の様式で行われていた。新しい年を迎え、今年こそは良いことが起こってくれるに違いないという根拠のない希望や願望とともに各国の人々は過ごしていた。今年一年が幸多く安寧な日々であることを願うテレビ番組が多く放映されていたが、中には正月からバカな笑いだけをねらう「総白痴化現象」に拍車をかけている番組もあった。


そんなテレビ番組のすべてを乗っ取って、突然Mと名乗る宇宙人が画面に現れた。そして正月気分に浮かれていた地球人たちにこう通告した。


「君たちの星地球は、今大変な危機的状態にある。このまま何もせずに今まで通りの生活を続けてしまったら、遠からず生物の住めない死の惑星になってしまうことに気づいているだろうか。我々は、共にこの宇宙に住むものとして、このまま黙って見過ごすわけにはいかなくなった。したがって、これから地球の環境浄化プロジェクトを開始することにした。それが君たち地球に住む人類のためになることは勿論、この宇宙全体の安定のためでもあり、すべての生物たちの幸せのためでもある」


これまであまり役に立つことがなかった国連の指示に従って、各国政府が何度も繰り返し放映を命じたため、この映像は世界中のすべての人々が見ることになった。


 確かにここ数十年は、地球全体が毎年のように異常気象に見舞われ、毎年毎年必ず観測史上初の出来事ばかりが起こっていた。百年に一度の大洪水が毎年起こり、昨年は千年に一度規模の豪雨が襲って来た。これほど頻繁に異常気象が起こってしまっては、それはもう異常気象なのではなく、地球における普通の気象状況として認識しなければならないほどだった。


50年以上も前から地球温暖化やオゾンホールの問題、化石燃料を使用することによって排出されるCO2の問題が声高に叫ばれてきたのにもかかわらず、根本的な対策はなされないままだった。たくさんの国際機関が様々な形で議論を重ねていても、南太平洋の小さな島はすでに10年ほど前に海面下に消え、住民達は移住の受け入れ先に住まいを求めることになってしまっていたのだ。


 温暖化によると思われる豪雨や巨大台風などの異常気象が日常化したため、被害を補填する保険会社の出費は莫大なものに膨れ上がり、その災害保険制度を維持するために保険料も異常なほどの高額となってしまった。気象衛星で天気の移り変わりを伝えることくらいが精いっぱいの対応で、もはや人類の力では、この「地球に降りかかってきた危機」を脱することはできなくなっていた。


 だが、これらのことは今になって急に現れた現象ではない。経済発展や国どうしの紛争や国内の政治的な覇権争いなどを最重要事項としてきた為、どの国も気候変動などという自らの利益につながらないものを後回しにしてきたことによる結果だった。それが一気に目に見える形になっただけのことなのだ。それなのに、人類はそれすらも人ごとのように考えてしまっていた。

本来各国の指導者達が進めなければならなかった対策を、テレビ画面を通じて当たり前なこととして訴えかけるこの宇宙人Mは、まさにそんな時に「突然」やって来てきてくれたのである。


 Mの姿は地球人と全く変わることなく、話す言葉もテレビを視聴する各国の言語に完全に対応していた。しかも、どのような技術のなせる技なのか、その姿はそれぞれの国の人々に気に入られる容姿に設定されていたのである。それゆえ、テレビに見入った人々は皆、Mに対して好感を抱き信頼を深めていくことになった。

しかし、Mの本当の姿はいったいどのようなものだったのか。それは誰も知る由はなかった。もし彼らの本当の姿を知っていたならば……人類の対応はどのようになっていたのだろうか……?


その放送があった日から直ちに、Mによる地球浄化プロジェクトは開始された。この迅速な動き、スピード感もまた多くの人々に好感を与えることになった。無駄な会議や根回しなどばかりで一向に先に進まないことが多かった政府の対策とは全く違っていたのだ。


数多くの小型宇宙船が地球を取り巻き、人類の科学力では思いも及ばない透明なスクリーンのようなもので地球を包み込む工事が始まった。母船から吐き出された数千から数万もの小型宇宙船が地球をぐるりと取り囲んで作業を始めたのだ。

地上から見上げる我々地球人達には、それは流れ星のようでもあり、UFOの飛来する様子にも思えた。そしてそれは、昔よく見た夜空に広がる無数の星のようで、Mの小型宇宙船は見上げる地球人たちに懐かしい夜の風景を思わせた。


Mはこんなことも話していたのだが……

「……今我々が作り上げようと作業しているものは、君たち人類が破壊してしまったオゾン層など、地球というひとつの生命体の環境浄化作用を行うものである。言わば地球の生命維持装置だということもできる。このスクリーンは太陽からの有害光線を吸収し、その害を完全に防いでくれる。それゆえ、このプロジェクトが完成すれば君たちの星は再びもとの状態にもどることができるだろう。地球上のすべての生物たちにとって過ごしやすい環境になることは間違いない。そう、人類が誕生する以前の健全な地球に戻っていくのです……」


素晴らしい夢のような話であるが、このスクリーンが完成するまでには、彼らの科学力をもってしても地球時間で3年はかかることになるのだという。


人類は産業革命以来のこの200年間に、自らの手で汚し、そして自らの力では回復させることができずにいた難問を、神のごとき宇宙人Mが解決してくれることに大喜びした。少しの不安もなかった。すべてをMに任せておけば素晴らしい未来がやって来るのだ。


人々はそれを「天使のスクリーン」と呼び、毎日空を見上げてはその完成を待ち望んだ。そして……、今までどおり自らの欲望のままに生活を続けていった。海藻の繁茂していた干潟を干拓し、サンゴの浅瀬を埋め立てては工業発展のために広い土地を確保し、その工場の煙突からは今まで通りに黒い煙が湧き上がる。製品の流通には欠かせない物流トラックのマフラーからは変わらずに排ガスが空気中に放出され続けた。無用な過剰包装のために使われたプラスチック製品は、無残にも捨てられてその粉末が海へと拡散していく。クリーンなエネルギーを作るためと称して、木々を伐採しては太陽光発電用のパネルを無限に広めていく生活をし続けたのだった。


一人の子供が空を見上げてあることに気づいたのは、Mがやって来てから2年目を迎えたある朝のことだった。いつものように愛犬を散歩させていた公園の、アカシヤの木の根元で何かおかしないつもとは違った様子に気づいた。

木の葉の影がいつもよりも薄いように感じたのだ。はじめは気のせいかと思ったものの、空を見上げてそれが気のせいではなく、明らかに異変であるとわかった。


雲ひとつない晴天の朝、陽光はしっかりと降り注いでいる。それなのに、まぶしさを感じなかったのだ。恐る恐る太陽に目を向けてみると……、肉眼で太陽を見つめることができたのだ。日食を見ようとしてやった時のようにサングラスをかけ、感光したフィルムを通してやっと見ることのできるはずだった太陽が、今は肉眼のままはっきりと見つめることができる。


その日から世界各地の人々は次々にこの異変に気づいていった。TV各局が競うように大々的に報道を始めた。いつもはどうでもいい芸能人の痴話話ばかりを天下の一大事のように家庭に植え付けていたワイドショウさえも、この話題ばかりを繰り返し繰り返し流し続けた。

科学者が様々な調査を始めた。人々はいろいろな憶測と共に不安がったり安心したりを繰り返した。だが、多くの人たちは、これもあの神のようなMによる浄化プロジェクトの効果の現れであろうと喜んだのだった。


やがて、各国の科学者たちの調査結果が出された。

「太陽を肉眼で見ることができるのは、太陽光がいわゆる『天使のスクリーン』によって、その一部が遮断され、紫外線などの有害光線が地上に届いてないからである。その為『天使のスクリーン』によって人体への悪影響を及ぼすと考えられるものが吸収された結果であろう。この様子から、あと2年もすると地球は完璧な健康状態になるだろうと思われます」

 今まで見たことのない地球科学の専門家という学者たちが、国連機関の分析結果として各国でそう国民に説明を繰り返した。


人々はこの報告により今まで以上にMに対する感謝の思いを強めていった。中にはMを神として祭壇にまつる地域まで現れ、彼らを賛美する「歌」や「経文」さえが作られた。Mの姿は絵に表され壁に飾られた。各国でそれぞれに違うMの顔が描かれた商品は飛ぶように売れた。街にはMの顔が描かれたTシャツを着た若者達が神をたたえる歌を大声で叫んでいる。中にはMと交信したことを声高に訴える「ニワカ〇〇」も現れて大騒ぎである。


こうして人類は地球が完全な健康状態に戻るであろう2年後を待ち望んだ。それはちょうど医者から「全治まであと2年程ですね」と言われた入院患者の気持ちであったかも知れない。


2年目が終わる頃、太陽はぎらぎらと輝くという表現が似合わない状態にまでなった。気候の変動も少なく、夏は暑すぎず、冬も寒すぎることがなくなった。台風の規模が弱まり、大洪水もなく、大寒波も起こらない。おだやかな日差しにそよ風が吹く日々が多くなり、小鳥や虫たちの飛び交う楽園を思わせる日々が続いていた。

これもすべて宇宙人Mのおかげである、と彼らを崇拝する人々はさらに増え、「天照大神」の横に「M大明神」のお札を掛けて毎朝拝む習慣を孫に教える老人まで現れた。もはやMは神であり、この地球は全能の神によって、今まさに救われ守られようとしている。人々のそういう思いはますます強まっていった。


そんなある日、ある国の病院で今までに発見されたことのない細菌が見つかった。


その細菌は繁殖力が非常に強く、ほんの数分のうちに分裂を繰り返し、2,4,8,16,32・・・・と、幾何級数的な増え方をする細菌であった。それは、人間にだけ感染するという特性を持っており、感染すると体内の水分をすべて取り込み、やがては脱水症状を引き起こし死に至らしめるというやっかいなものであった。


だが、この菌の弱点は紫外線であり、感染しても5分ほどの紫外線の照射ですぐに死滅してしまうことにあった。地上に降り注ぐ程度の紫外線を当てればそれで完治してしまう程度のものでもあった。


1つの病院から発表されたこの細菌は、その完全な治療法が発表されているにもかかわらず、わずか7日のうちに世界中に蔓延してしまった。たとえ感染してしまっても、人体に紫外線を放射するだけですぐに完治するのに?……である。その治療として、通常は日中に5分も太陽光の下にいればそれで済むのである。


しかしながら、今この地上に降り注ぐ太陽光には紫外線が含まれていなかった。あのMが設置している「天使のスクリーン」が今はもう紫外線をすべてカットしてしまっていた。それならばと紫外線を人工的に放射して治療を行っているのだが、治癒するスピード以上に体内で増殖するスピードや感染力の方が数十倍も速いのである。世界各国の医療機関がおこなう治療の規模では、すべての感染者には対応しきれなかった。ましてや、発展途上の国々では医療機関の数が絶対的に足りな過ぎた。医療の先進国にやって来て治療を受けようとする移動の為にさらに細菌は拡散され変異株が次々と現れる始末だ。


細菌の発見から2週間ほどで全世界に感染者が広がり、1ヶ月後には感染率が100パーセントに達してしまった。1度紫外線治療を受けた人であっても再度感染し、免疫制は全くないのである。感染から脱水を引き起こし、命にかかわる状態になるのには健康体の人でも通常3週間であると考えられた。医療の研究者たちはこの細菌治療の特効薬の研究に躍起になっているが全く手掛かりさえ見つからない。


この状態に困り果てた各国政府はMに連絡を取り「天使のスクリーン」プロジェクトの中止を申し入れた。米国も露国も今まで極秘にしてきた新型シャトルを使いMの母船に近づいて会見を申し入れた。国際宇宙ステーションからは、何度かの地球外生命体との連絡に成功したことがある特殊電波を用いた通信手段で連絡を試みた。地球上の「危機」を訴えようとしたのである。だが、いずれも拒否されてしまった。


Mの返答はこうである。

「地上に暮らす人類の皆さん。皆さんの言っているその細菌が水分を吸収するのであれば、あなたたちは水分をとり続ければよいのだ。その細菌には、水分を自らの栄養分として吸収する以外に害はない。毒性もなければ、神経系統や呼吸器系等に異常をきたすことも全くない。そんな“無害な”生き物である。後1年もしないうちにこの『地球浄化プロジェクト』は完成する。今になって中途でやめてしまうのはあなた方人類にとっても、我々同じ宇宙に住む者たちにとってもけっして利益を生み出すものではない。しかるに、今となってやめることなどで出来ることではない。あと、たった一年で完結するのです。あと一年我慢を続けていただきたい」


Mは母船内で仲間に対してこう語った。

「……改めて皆に言う。このプロジェクトには宇宙の平和を守るという、我々の信念と威信がかかっていることは諸君も知っているであろう。今ここで中止するとなると、今までにかけた時間や労力だけでなく、得られるはずの我が国の利益や権益の全てがだいなしになってしまう。」

そして、声を潜めてこう続けた。

「……それに、ここまで来て取りやめたりしたら、のプロジェクトの責任者である私の立場だって危なくなることだし……、そんなことは絶対に認められない……」


Mの「天使のスクリーンプロジェクト」は、いや「地球浄化プロジェクト」は地上で慌てふためく人類の危機のことなどいっさい関わりなく続けられた。


「もしかすると……新たに発見されたこの細菌自体が……Mの進めるプロジェクトの一部だったのではないのか……」

そう訴える人も出てきたのだが、

「バカな!なにを言ってるんだ。地球の危機を救うため遙か何万光年も先からやって来てくれたMがそんなことをするわけがない」

そう強く主張する圧倒的多数の人たちによってその考えはすぐさま打ち消された。


国連というあまり役立つことのない国際組織の要請で、各国政府はTVを初めとする報道機関に次のような通達を速報として映しっぱなしにすることを命じた。

「この細菌によって起こる脱水症状を回避するために、多量の水分を補給し続けるよう心がけてください。地球は水の惑星です。飲み水はいくらでもあります。海水を真水に変えるプラントも各国に装備されていますから、水はなくなりません。水を飲み続けてください。」

テレビ画面の一部には、一日中このテロップが貼り付けられることになった。


「あと1年もかからずに『天使のスクリーン』は完成します。これが完成すれば細菌は死滅します。みなさんそれまで水分補給を欠かさないでください。」


「……あと1年です……。」


その日から人々は水を飲み続けた。水道水、ミネラルウォーター、ウーロン茶、栄養ドリンク……、水分を含むものすべてが薬のように思えてきた。中には数十種類のミネラルウォーターを飲み比べて、その効果の評論を始めるものまで現れた。


人々の一日は水分を補給し続けることが中心になった。だが、どんなに水を飲んでも、体内ではしっかりと例の細菌どもがそれを吸収し尽くした。ミネラルウォーターの会社は空前の売上量に達し、生産ラインのスピードは数十倍にまで高められた。ビール党のおじさんたちは最高の日々がやってきたとばかりに誰に気兼ねすることもなく、朝から缶ビールをあおり続けた。

「このまま細菌がなくならなければいいのに……」と半分本気で言う奴まで現れる始末である。ビール会社の株は、歴史始まって以来の高騰を続けた。

しかしそんな毎日を過ごしていたために、わずかな期間でアルコール中毒患者が激増してしまった。日中から酔っ払いが横行し仕事に支障が出てしまう会社が増え、車を運転することすらできなくなってしまった。そこで、ノンアルコールビールをはじめ、アルコールを含まない酒類の開発が進み、人々が手にするものはノンアルコールのビールであり、日本酒でありワインへと変わっていった。

ミネラルウォーターやお茶や炭酸水で我慢できない人間たちの我儘がここでも発揮されたため、益々ビール会社や酒造の株価は高騰をすることになった。


そして、命を守るべく日々紫外線の照射を行わねばならないことから、日焼けサロンが町中に溢れ、紫外線ライトが電力使用量のほとんどをしめるようになった。紫外線を照射させる店(通称紫外線屋とか、UVSHOPと言った)の前にはペットボトルを片手にした長蛇の列が出来た。人々は一日の大半を順番をまつために費やされることになった。

 そうやって紫外線を浴びることが習慣になった人々は日焼けした顔が一般的なものとなっていった。日焼けを嫌っていた女性たちも日焼け止めを塗ることなく小麦色の肌になることがトレンドということになっていった。ずいぶん前のことだが「クッキーフェイス」というキャッチフレーズで日焼けした健康的な肌を推奨するコマーシャルが流行っていたことを思い出す人も多くいただろう。

 その流行から日焼け止めを販売していた化粧品会社の株価は暴落してしまった。


24時間フル稼働でUVSHOPは紫外線放射を続けた。人々は町中のいたるところにできたUVSHOPに列を作って順番待ちをした。そしてこの列の中から空を見上げながら一刻も早い「天使のスクリーン」の完成を願った。列の中では誰もがその思いをぶつぶつと口に出しては気を紛らわせていた。それはまるで「ナムミョウホウレンゲキョウ……とも、ナンマイダ……とも、アーメン……」と、唱えているようでもあった。

天使のスクリーンが完成するまで、後3ヶ月である。


もう数ヶ月にもわたって水分をとり続けた人々は、後3ヶ月に望みを託すだけだった。だが、大量に体内に入ってくる水分は、実はこの細菌にとってはご馳走を大量に与えられ続けているに等しかったのだ。栄養分をたっぷりと与えられた細菌たちは、益々その繁殖力を高めてしまうことになった。つまり、水分を補給し続けることで脱水症状は先延ばしになるのではあるが、そのためにかえって菌を繁殖させ、強力にすることにもつながってしまったのである。


この3ヶ月は人々にとって、とてもとても長い道のりに思えた。こぎ続けるのをやめると転んでしまう自転車のように、止めることなく水を飲み続けた。それが生き残ることへの唯一の道だったのだ。


Mは母船にすべての作業員を集め、こう宣言した。

「諸君、今まで大変よく頑張ってくれた。いよいよこの最後のパネルをはめ込むとスクリーンは完成する。予定の期日通りに完成できることを私は非常にうれしく思う。これも君たちの祖国を思う気持ちと、勤勉な努力のたまものであると強く思っている。地球上では細菌がどうのこうのといろいろ注文を付けてくるものがいた。だが、そんなことは気にとめる必要はない。」


Mはさらに語気を強めて言った。

「我々はこの宇宙全体のことを第一に考えるべきで、その利益のためには、ちっぽけな犠牲を払わねばならないのはやむを得ないことなのである。」


「……もし仮に、我々がこの地球という惑星の人類という種族のために計画を中止したとすれば、人道的だとか、多様性に配慮しているだとか、何の役にも立たない誉め言葉をちょうだいするかも知れない。」


「……しかしながら、もし我々が彼らの声に耳を傾けたとしたら、職務を遂行する能力に欠けるという名のもとに、永久に自らの立場を失うことになるだろう。どちらを選ぶべきかは、考えるまでもないことなのは君たちにもわかるだろう……。何しろ、人類は……」


Mはその日のうちに最後のパネルをはめ込み、地球浄化プロジェクトの設備は整った。地球上の水を飲み続けてきた人々にとっても待ちかねた日がやってきた。これで紫外線により細菌は死滅し、「天使のスクリーン」によって地球ももとの姿に回復していくだろう。誰もがそう思った。この一年間のつらい水の補給生活を振り返り涙するものも少なくなかった。


Mは母船の操作パネルから、このプロジェクト最後の仕事を自らの手でおこなった。それは、張り合わせたパネルを一枚のものとして融合させるためのスイッチを押すことであった。これによって彼の仕事は終了する。あたかも新しい道路の開通をテープカットで締めくくるように、船の進水式でシャンペンを割って新造船を送り出すように。……ボタンは押された。


その瞬間、地球と宇宙との接点を取り巻く数十億枚にも及ぶパネルが数秒間鋭い光を放ち「天使のスクリーン」は融合し、つなぎ目は完全に消滅した。地球上では、空を見上げた人々が、その鋭い光に昔の太陽光のまぶしさを思い出した。


久しく忘れていたまぶしさに目を細めながらも、このプロジェクトが完成したであろうことに喜びを爆発させた。世界中の人々がそれぞれの言葉で歓声を上げ、Mを誉め讃えて喜び合った。


「これで我々も水を飲み続ける苦役から解放されるぞ」

「普通の生活が戻ってくるんだ」

UVSHOPの列から離れ、ペットボトルを投げ捨て、人々は家へ、会社へ、食料品店へと急いだ。会社も学校も何もかも忘れ、町中がお祭り騒ぎだった。今までためていた欲望を叶えられるときがやってきたのだ。


しかし、「天使のスクリーン」の本当の意味を人々が理解するまでには3日とかからなかった。脱水症状が現れたのである。たっぷりと栄養分である水を与えられた例の細菌は、その繁殖力と共に体内の水分を取り込む量までもがはるかに強力になっていた。


初めてこの地上で発見された頃に比べると、その水分を取り込むスピードが数十倍にも達する強力な菌となって体内に居座っていたのだ。脱水症状を引き起こす目安は3週間であったが、今やそれは水分補給が途絶えると共に脱水が始まるまでになっていたのである。


水を手放し自由になれる待ちかねた日を迎え、喜びに浮かれていた人々は、見る間に水分を失い、ミイラのようにひからびてゆく仲間を、声もなく見つめているだけであった。UVSHOPに並ぶ秩序などはとうになくし、手にしたペットボトルの水も、怒りと絶望にまかせてあたりにぶちまける。あきらめと虚無感に立ち上がることも出来ず地面に伏してしまうものも多かった。


気が狂ったように紫外線ライトを奪い合うものたち、水のノイローゼで精神を狂わすものたち、人々はまさに今、生き地獄の中にいた。社会秩序も道徳も宗教もそこには存在しなかった。


各国の軍隊がミサイルを発射し、戦闘機を飛ばして「天使のスクリーン」を破壊しようと試みた。だが、Mと地球の科学力の差は大きすぎた。継ぎ目が消失して完全に一枚に融合してしまった天使のスクリーンは、どんな攻撃に対してもしっかりと持ちこたえたのだ。最後に残された方法は核弾頭ミサイルで攻撃することしかなかった。しかし、それは同時に地上に死の灰を振りまくことをも意味していた。


つなぎ目が消滅した強固なスクリーンは、核弾頭でさえ跳ね返すかも知れなかった。今人類に残された道は、脱水で死を迎えるか、文字通り死の灰を浴びて別の死に方をするか、どちらかの選択になってしまった。


今や「悪魔のスクリーン」と名を変えた「憎っくきM」の残していった破壊不可能と思われるこの壁は、人類に最も大切と思われていた水をやっかいなものに変えてしまった。そして、有害なものの代名詞でもあった紫外線が、実は人類にとっての命綱でもあったことを教えてくれたのだ。だが、それを知った時、それまで天使として崇めてきたものが悪魔だと気づくことにもなってしまった。


今となっては人類の命をつなぎ止める糸となった紫外線を、あのスクリーンは断ち切ってしまったのだ。太陽からの微妙な距離のバランスが生み出した地球。そこで繁栄を誇ってきた人類という生物の命の綱を切断したのだ。あたかもはるか昔に存在したブルボン王朝当時のフランスで、罪人や反対派の命を絶つための偉大な発明品であったギロチンのように……。


そういえば、50年ほど前、日本という国でも、これと同じようにして海を生物の住まない場所にしてしまったことがあった。このときもギロチンという言葉が使われた、という記録も残っている。今となってはもうどうでも良いことになってしまったのだが、人類の歴史を学ぶ能力の低さには驚いてしまう。


「……悪魔のように細心に…、天使のように大胆に…」

今はもうすでに遥か宇宙の彼方に去っていったであろうMは、確かに細心な準備のもと地球にやって来て人類に接していたのかもしれない。人々の心に訴える映像とともに自分たちのビジュアルまでもしっかりと準備し整えていた。

そんな彼らが地球にやって来たのは初めてではないのだろう。過去何百年も、いやもしかすると何千年も前からこの地球を訪れ、その時代のその地域にマッチした内容とビジュアルを提供してきたに違いない。ルッキズムを批判する人々は多いがそんな人たちもしっかりと彼らの時代と地域に即した周到な準備に乗せられてしまっていたのかもしれない。それも、この地球人たちの歴史通りだったのかもしれない。

そう、どの時代、どの国においても、悪魔はその細心な準備において一時天使に見えていることがあったのかもしれない。天使と信じて疑うことのなかったものが実際には悪魔であるとわかった時……人々の絶望感はいかばかりであったのか……。過去にも現在にも、そして未来にも同じようなことは……あるのかもしれない。


Mが再びこの惑星にやってくるのは、500年の後であるらしい。彼らの寿命はそんなにも長いのか、それとも時間の壁を突破してやってくるからなのか……。まあ、いずれにしてもその時この地上を歩き回っているのは人類であるのか、それとも別の生物であるのか。


Mの設置した「天使のスクリーン」いや「悪魔のスクリーン」は300年を目安に太陽光によって分解され、自然消滅すると言う。


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