遭逢の喫茶店

しなのん

遭逢の喫茶店


その喫茶店はいつの間にかそこにあった。 

 西洋のハーフティンバー様式を彷彿とさせる暗色の材木と漆喰だろうか。汚れていてもなお白さが健在の壁が組み合わさった店構えは、さ も自分が商店街の昔馴染みであるかのようにアパレルショップに八百屋、飲み屋等の商店が軒を連ねる光景になんの違和感もなく溶け込んでいた。

 四限で終わりの木曜の帰り道、夕飯の献立を考えながら歩いていると偶然か必然か、『ゆいつき』の看板を提げた喫茶店が目に入る。ひらがなで書かれているこの名前を漢字に直した時にどのような字で書かれるのかがさっぱりと分からず、店 の前で頭を悩ませていると不意に「ゆいつき」と小さく声に出ていた。しかし舌に乗せたその単語が意味するものを把握することは無かった。

 ドアを開けるとチリンチリン、とベルが音を立て、店内へ一歩足を踏み入れた瞬間にどくん、と空気が脈を打ち音が消える。視界にはカウンター内にいる店員と何人かの客がいたがその全員の顔だけが真っ直ぐこちらを見つめていた。こちらが招かれざる客であるかのように感じさせてくる光景に動けずにいると、ゆっくりではあるものの、耳が周囲の音を拾うようになってゆく。 完全に音が戻った頃には先 ほどまでの様子が嘘のように人々の活気のある店内へと姿を変えていた。

 改めて中へ入り席に着いて店内を見回す。チーク材の明度を落としたような暗い色合いの床をはじめとして壁やカウンターと、全体的に暗めな内装と窓から差し込む橙色の斜陽の合わさった店内はどこか心を落ち着かせてくれる雰囲気を醸し出していた。

「いらっしゃいませ」

 齢は五十代後半だろうか。髪の混じった黒髪の、店主と思しき焦茶色のエプロンを着た人当たりの良さそうな男性はこちらをちらりと見遣ると少し驚いたのか、作業していたであろう手を一瞬止めたが、すぐさま手を動かし直しながら挨拶する。

「オリジナルブレンドのアイスで」

「かしこまりました」

 カウンターの向こうの壁に掛けられたメニューの一番上、最初に目についた物を注文する。慣れた手つきでコーヒーを淹れる店主には目もくれずに店内を再び見渡す。

 もう既に何組かの客が入っており、学生から中年までのそれなりに幅のある年齢層の人たちが揃ってコーヒーカップや焼き菓子の乗った皿を片手にあれやこれやと由無し事のキャッチボールを楽しんでいるようであった。そんな活気づいた会話を背に受けて自分を含めたカウンター席に座っているおひとり様はスマホを触ることもなく静かに頼んだ物を待ち、あるいは頼んだ物を楽しみながら休息のひと時を味わっていた。

「お待たせしました、オリジナルブレンドでございます」

 頼んだコーヒーが目の前に置かれる。そこへ躊躇いもなく備え付けの砂糖とガムシロップを注ぎかき混ぜる。ブラック好きの人からすれば些か冒涜的とも言えるこの行為を咎められる事はなく、薄茶色の液体をようやく口へ運ぶ。砂糖とシロップで少し抑えられているのだろうが、 苦味が少し強いものの、酸味の少ないこのコーヒーを自分はたったの 一口で気に入った。

 ちびちびと飲み続けた末にカップが空になりかけた時、再びドアのベルが店内に響いた。

「いらっしゃいませ」

 新しい客が入店すると、自分の時とは違い店主の男は飲み物を淹れる手を止めることなく挨拶する。恐らく今入ってきた人は常連なのだろうか、と不意に自分の時との対応を比べてしまった。だからどうした、というような内容でも一度浮かんでしまえば頭の嫌な場所に少しの間居座ってしまう性分である自分は少しでも意識を逸らそうと追加で頼んで半分ほど食べ進めたチーズケーキを二つに分けてその片方をあぐりと一口で含む。コーヒーのそれとはまた別のベクトルの酸味が口いっぱいに広がって後からくる甘味を引き立たせてくれる。

 チーズケーキのお陰で変な考えが遠のいた所で、それなりに空いているカウンター席の中から何故か自分の左隣に座ってきた人の方を横目で見る。

 赤いリボンの髪飾りを付けた、先程までカップに入っていたコーヒーのような薄茶色のセミロングにタータンチェックのベストを羽織った女の人がそこにいた。

「あの、すみません」

 不意に左肩をトントン、と触られる。

「何かオススメのものはありますか? このお店に来るのは初めてなもので……」

「えっと……」

「知らない人に聞かれても困るだけですよね。ごめんなさい」

「別に大丈夫ですけども」

 そこから続ける言葉が見当たらず、なんと答えれば良いのか返答に困ってメニューの書かれたボードを見上げる。こちらもこの店には初めて来たのだ、自分も同じ一見さんであるのだ。と素直に言えることができればよかったのだが、そう答えた時に自分はともかくとして向こうが気まずそうになるのは目に見えている。考えあぐねていると隣からガラスを思わせる澄み渡った儚げな声が聞こえた。

「すみません、こちらの方と同じものをお願いします」

 店主の優しげな「かしこまりました」の声と同時に申し訳なさと言い知れぬ敗北感に襲われる。残ったチーズケーキを食べ切る事がなぜだか負け惜しみが故の地団駄のような行為に思えてしまい、手をつけられずにいると助け舟は向こうからやってきた。

「……難しいですよね、あれだけのメニューがあるのですから」

「……そう、ですね。自分も初めてなもので」

 あら、と少し驚いたようで声を漏らす彼女を気にすることなく続ける。

「でもコーヒーとチーズケーキはよく合う、と言われていますから……、自 分もさっき食べてみたのですが、かなり良いと思いますよ」

「そうでしたか。そう言うのであればとても楽しみですね」

 こちらに笑みを溢す彼女はどことなくぬいぐるみのような愛嬌があった。

「このコーヒー、酸味が強くて私が好きな味です 」

 一口啜るなり彼女は言った。

「やはりですか、こちらのコーヒーは酸味を強調しつつもコーヒーが本来持つ苦味を損なわないようにブレンドし、淹れた物となっております」

 彼女の方に向き直った店主はそう説明する。

「こちらのマスターさんは凄いお方ですね。初めて来た私の好みをぴたりと当ててしまうなんて」

「本当にそうですね。自分の好みにぴったりと合ったコーヒーを淹れて頂けて、相当腕のある人なのでしょうね」

「えぇ、それにこのチーズケーキも酸味と甘味のバランスが良くてさらにタルト生地ということもあって食感も楽しいですね」

 お互いコーヒーを片手に、まるで以前からの友人であるかのように談話を楽しんでいると外から午後六時を告げる、やや音質の悪いゆったりとした曲調の音楽が流れる。音楽によって会話が途切れた途端に自分はこの日、夕食担当である事を思い出して一気に焦る気持ちが湧き上がる。

「すいません、お会計お願いします」

「じゃあ私もお願いします」

 支払いを済ませて店の外へ出ると、沈 みきらない夕日によって空は橙と青の混ざった妖しい色をしていた。

「じゃあまたいつか」

 名前の知らない彼女との別れを無責任な言葉で済ませ、帰路につくべく彼女に背を向ける。

「あの、こんな事を聞くのは失礼かと思いますが、以前に貴方と会った事がある筈なのですけれども覚えていますでしょうか?」

 突然の質問に思わず彼女の方を振り返る。

 人を覚えることが人一倍苦手な自分ではあるのだが、彼女のような印象に残りやすい見た目をした人間であれば多少なりとも覚えていても不思議ではないのだが、どうしても思い出すことができなかった。

「……すいませんが覚えていません。いかんせん人の事を覚えるのは苦手なもので」

「そうでしたか、こちらこそ突然すみません。それではまた」

 前を向き直り歩き始めるが、不意に彼女を見届けようと思ってもう一度後ろに振り向く。

「あれ?」

 彼女の姿はどこにも無かった。帰宅時間帯とはいえ人混みと呼べるほどの人数のいない商店街にも関わらず、その特徴的な砂糖とガムシロップの混ざったコーヒーのような薄茶色の髪をした人物が全く見当たらない。不思議に思いながらも彼女と話した時の幸せなムードに浸りながら歩き始める。


「ねぇ待ちくたびれたんだけど! 晩御飯早く作ってよねー!」

 帰ってくるなり同居人であり実の姉の千歳がソファの上で背もたれに掛かった右脚にだらりと垂れた左腕といった具合にだらしない姿勢で晩御飯を催促する。

「どうせ作る時間無いしスーパーで惣菜買ってきたから。ちなみにご飯は炊いた?」

「炊いてなーい」

「なんで炊いてないのさ、そこは当番関係無いって決めてたでしょ」

「朝から暇なく働いてくたくたな姉にそんなお願いは無理でーす」

「……だと思った。テキトーに焼きそば作るから惣菜皿に出して温めといて」

「えー」

 尚もだらける千歳からクッションを奪って二、三度軽く叩きつけると観念してくれたようでソファからのっそりと起き上がると言われた通りに惣菜を温め、テーブルに並べる。買った野菜と肉をフライパンに放り込み炒めながら先ほどまでの千歳の駄々に呆れつつその様子を見ていた。さらに箸や青のり、かつお節を取り出してテーブルに置いた時には人生で何百回目の「やればできるじゃないか」を心の中で思う。

「んでさぁ、何で遅れたワケなのよ。いつもだったら一時間ぐらい早く帰ってきてるじゃん」

 唐揚げを口に放り込み咀嚼しながら千歳は言った。つられて自分も唐揚げを食べる。食堂で食べる熱々の出来立てには劣るものの、似たようなものは小さい頃から食べてきた身としてはやや懐かしさを覚えるような味がした。

「なんか知らん喫茶店行ったら変わった人に絡まれた、んで前に俺と会ったことあるとか言われた」

「そんな話信じると思ってる?」

「思ってない。でもそうとしか言いようがないからさ」

 事実を述べるが千歳の反応は至って当然で、曖昧な表現しか使われていない説明を信じてもらえる訳など無い。そんなことは既に理解しているので特に補足はせずに千歳に同調して話題を流そうと試みる。

「で、どんな人だったのさ」

 千歳の追撃、千歳から逃れられなかった。

「同い年くらいの女子、コンビニとか自販機で売ってるカフェラテみたいな色の髪してた。あと赤いリボンの髪飾りも付けてた」

「服装は?」

「髪と同じ色の服の上からタータンのベスト着ててジーパン履いてた。ってか何でそんなの聞くん?」

「……なんとなく?」

「はぁ……」

 唐揚げの盛られた皿を見遣ると皿はすっからかん、後には下に敷かれた 油の染み込んだキッチンペーパーのみが残されていた。そういえば、とこちらが例の子の特徴を言っている際に千歳は唐揚げを次々と口に運んでいたことを思い出す。


 奇妙な体験をしてからしばらく経ったある火曜日の夕方、この日も例の喫茶店ことゆいつきの入り口の前に立つ。この日の講義は三限で終わり、その帰りに寄っても良かったのだが、自分が店を訪れる理由はあの謎の多き少女の情報とあの時の質問の意味を知るためであった。そこであえて初めて会った時と同じ時間帯に店を訪れることにしたのだった。

 しかし毎日のようにゆいつきに通ってこの店の虜になったのはいいものの、肝心のあの子にはまだ一度も 再会できていないのだった。

「オリジナルブレンドとチーズケーキで」

 来店する度に頼んでいるメニューが目の前に置かれると慣れた手つきでコーヒーにガムシロップと砂糖を混ぜて一口啜る。酸味の抑えられたコーヒーは酸味が苦手な自分にとってはやはりありがたい事この上無い。

 ベルが鳴り新たに客が入店する。はやる気持ちを無理やり押さえつけてなんとか平静を保ちながらドアの方を確認してハッ、と息を呑む。

 薄茶色のセミロングと赤いリボンの髪飾り、そしてタータンチェックのベストの少女、間違える筈が無い、先日会ったあの子だった。

 向こうもこちらを見つけたようで、少し驚いたような素振りを見せると軽く会釈して隣の席に腰を下ろす。

「オリジナルブレンドと、あとチーズケーキをお願いします」

「……久しぶり」

「お久しぶりです。このお店、居心地もいいですしコーヒーも他のどのお店よりもずっと美味しくて、ついつい通ってしまうような、とても素敵なお店ですね」

「ですね」

 暫くの無言、人々の声の絶えない店内では二人の間の沈黙がより一層浮き彫りになったような気がして嫌な気分に陥る。白髪混じりの髪をした店主が静かに彼女の前に皿を2つ並べた後もお互いに一言も発することはなかった。コーヒーを一口啜って「はぁ」と息を漏らす横で少し大きく息を吸う。

「あの、さ」

 フォークを咥えながらきょとんとした顔でこちらを向く彼女の方を見ながら続ける。

「前に会って帰る時にさ、『前に会ったことがある』って言っていましたよね? あれってどういう意味か知りたいのだけど……」

 んっ、とやや驚いたような声 を上げると彼女は気まずそうに視線を落とすとチーズケーキを切り分ける手を止めてぽつりぽつりと言葉を零す。

「実は、貴方というよりもお姉さんと面識があって、なので弟である貴方も面識があるかな、と思ってあんな事を聞いてしまいまして、すみません」

「ということは千歳の友だちってことなのかな?」

「そんなところですかね。本当に変わった人で、事あるごとに抱きしめてきたり突然胸のあたりに顔を埋めてきたりと私から見るとなかなか可愛げがあって、それに涼人さんもよく千歳さんに振り回されている所をよく見ていたものでした」

 彼女の言うことを聞いた限りだと彼女は本当に千歳の友人であり、自分とは一応だが面識はあるらしい。そこでふと頭に浮かんだ質問を投げかけてみる。

「ちなみにさ、名前ってなんて言うのかな?

「名前、ですか。私は……杏子、熊本杏子です」

 名前が分かれば彼女の事を思い出せるのではないか、と思っての質問だったが肝心の名前を聞いたにも関わらず彼女、こと杏子の事は何一つ思い出すことができなかった。それどころか杏子が自らの名前を言う前のちょっとした間の事 が引っ掛かる。このことを追求しようと思ったが、杏子を困らせるだけだと思い、疑 問をコーヒーと一緒に飲み込む。

 杏子という子 と別れた後の帰り道、もう一度彼女の名前である熊本杏子に心当たりがないか容量の少ない頭の中をくまなく探してみたものの、検索件数はゼロ、面識があるならば名前を聞けば朧気ながらも何かしらの情報は出てくるもののはず なのだがそれが一切ないということから本当に面識があるのかさえ怪しくなってくる。千歳という人は自分とは違って誰とでもすぐに打ち解ける能力を持っており、故に 交友関係が計り知れないぐらいに広く深い。もしかすれば千歳が自分をあちこち連れ回していたことを話して、杏子はあたかもその様子を実際に見たことがあると勘違いしているだけなのかもしれない。ともかく、熊本杏子という名前にデジャヴのようなものを感じない以上はそう納得するしかないと自分を説得して 、考え事でゆっくり歩いていた分を取り戻そうと次第に早足になり帰路を急いだ。

 玄関のドアを開けると焼いた豚肉のなんとも食欲をそそるいい匂いに出迎えられる。

「おかえり、遅かったじゃん。ご飯ちょうどできたから早く食べよっか」

 特に喋る事もなく黙々と千歳の作った回鍋肉を口に運んでいると千歳が尋ねてくる。

「そういえばさぁ、アンタ最近やたらと帰り遅いけどそんなにあの喫茶店居心地良いの?」

「バレてた?」

「バレてたっていうか『喫茶店行ってきた』って言ってからほぼ毎日帰り遅いじゃん」

「それはそうか。ってかさ」

 つい二十分ほど前の事なのについさっきまで 忘れかけていたことを思い出し、千歳にぶつける。

「熊本杏子って子知ってる? アンタと友だちって言ってたんだけど」

「熊本は知らないけど杏子ならいる、というか小中の時によく家に遊びに来てたじゃん。しかも杏子の名字は星野だし結婚して橘に変わってるから熊本なんて名字ありえないのよ」

 千歳に聞いた所で謎は解明したどころか余計に深まってしまった。その後は謎について話をすることは無く、夕飯も終わり風呂にも入ってあとは寝るだけとなりベッドの上で漫画を読んでいると風呂上がりの千歳が甘い香りを漂わせながらやってきた。

「ねぇ、今度の休みにその喫茶店に行ってみない? もしかしたらアンタの言ってた熊本杏子って子に合えるかもしれないしさ」

「行こっか。あの店日曜が休みだから土曜、それと会うなら夕方辺りだね」

「りょーかーい」


 水木金の三日間があっという間に過ぎ去り迎えた土曜日、この日の日中は千歳に郊外のアウトレットまで連行されて荷物持ちをさせられた。

「へぇー、いつの間にこんな店になってたんだ」

そして夕方になり、両手に提げられた袋から解放されてかなり軽くなった腕でゆいつきのドアを無駄に力強く開ける。

「いらっしゃいませ」

 もはや顔なじみといってもよい店主の挨拶に迎え入れられ、カウンター席に腰を下ろす。

「オリジナルブレンドとチーズケーキで」

「んじゃあ私も同じので」

「かしこまりました」

 注文の品を待っている間、千歳は首をあちこちに動かしながら店内を見て回っていた。

「なんか、けっこう落ち着くね。確かにアンタが入り浸るわけだ」

「そうだね。あとここの店主さん、その人の好みにピッタリなコーヒーを淹れてくれるのよ 」

 へー、と千歳は小さく声を漏らす。

店内を眺め続ける千歳の元にコーヒーとチーズケーキが置かれると軽く会釈してコーヒーを一口啜る。んっ、と発した千歳はそこから続けて二口目、三口目とカップを傾け、あっという間にカップを空にしてしまっていた。

「すみません、店主さんって江風珈琲で修行していましたか? そこの味と全く同じで、すごく懐かしいんです」

「それは何よりです。しかし江風珈琲というお店は初耳ですね。是非とも行って味わってみたいものですね」

 店主が穏やかな口調で言うと千歳は少し苦そうな表情を浮かべた。

「実はその店、もうないんですよ。それに江風珈琲があった場所ってちょうどここなんです」

 それは、と驚いたような素振りを見せる店主に「気にしないで下さい」と話を終わらせると千歳は一言も発することなく今まで手を付けていなかったチーズケーキを食べ始める。

 二人の前に置かれた皿が空になってからも千歳と最近の事を話しているともうすでに日は沈みかけていて、窓の外には藍色の世界が広がっていた。

「そろそろ帰ろっか、お会計お願いします。」

 会計を済ませて夜の迫る青い空気の商店街を並んで歩いていると、突然思い出したように千歳が言った。

「そーいや前に言ってた子の特徴ってなんだっけ」

「ん? 確か赤いリボンの髪飾りのついたカフェラテみたいな色の髪とタータンチェックのベストにジーパンだったはずだけど」

「……多分だけど心当たりある。確かめたいから急いで帰ろ」

前まで「知らない」と言っていたにもかかわらず手の平を返したかのようにして急に「心当たりがある」と言い出したのだ。 実の姉ながらにずっと変な人だと思っていたがこの日に限っては特に変だと感じてしまうが、大股でいかにも急いでいるようにして歩く千歳を見ると、とてもではないが指摘しても聞いてくれなさそうな雰囲気なので、諦 めて千歳のペースについていった。

 帰 宅するや否や千歳は 自室の収納を漁り始める。しかしなかなか見つからないのか、栞の挟まった文庫本にご当地物の根付などといった様々なモノで床が散らかっていった。

「あった!」

 千歳が叫ぶ。

 自分はてっきり小学校か中学校の時の卒アルでも引っ張り出してきたのだろうと思っていたのだが、千歳の腕の中にあったのは意外にも埃を少し被ったクマのぬいぐるみだった。

 ぬいぐるみをよく見てみるとタータンチェックのベストを羽織り、頭には赤いリボンの飾りがついていた。その姿はまるで先日の少女、熊本杏子をそっくりそのままぬいぐるみに落とし込んだようなものだった。

「それ……」

「なんで今まで忘れたんだろ、私ったらホントばかみたい。この子杏子って名前なんだけどその杏子と高校が別々になるからってことでお互いにプレゼントを交換することになって、その時に杏子からこのぬいぐるみをもらったの。それで『杏子の事を忘れないように』ってこの名前を付けたんだよ」

  顔を埋めて力いっぱいに抱きしめながらそのぬいぐるみの事を語る千歳の声は顔をぬいぐるみに埋めているせいでやや聞き取りづらかったものの確かに涙ぐんでいた。

 少々面倒なレポート課題をやっとのことで終わらせて提出ボタンを押し、パソコンの電源を落としてぐっと背筋を伸ばした時には時刻は午前二時をとっくに過ぎていた。寝る前に居間で水を飲んでいると千歳の部屋のドアが目に入る。そういえば、とふと杏子、 こと千歳のぬいぐるみをもう一度見ようと思い音を立てないようにドアを開けるとカーテンの開かれた窓から月明かりの差し込む部屋で当然ながら千歳は寝息を立てていた。

 月明かりを頼りにぬいぐるみを探すと、安らかな寝顔の千歳に向き合うようにしてそのぬいぐるみは寝かされていた。


 週明けのどこか鬱々とした空気から解放された月曜日の夕方、一週間の中でトップクラスに気持ちの沈む日を何とか乗り切ったご褒美に、とゆいつきのコーヒーを味わおうと店の前に立ったが、驚くべきことに喫茶店のあったはずの場所は空きテナントとなっていた。近くの店の人に手当たり次第にゆいつきの事を聞いて回ったが、皆が口を揃えて「そんな店は無かった」と言い張るのみであった。

 コーヒーの味もタルト生地のチーズケーキも、謎の多かった杏子のことも、全部が鮮明に記憶に残っているのに、全てが無かったことにされていた 。世間との認識の違いに、どういうことだ、ともやもやしたものが胸の中に現れたが、無 い物はしょうがない ときっぱり諦めてその場を後にした。

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